Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

2013年09月


「それとね。」
真吾は今までに見たこともないような真剣な表情で、すでにショックで顔をゆがめている幸子を覗きこんだ。
「もう一つ、僕は君に気付いてほしいことがある。厳しいことを言うようだが…。」
言ってもいいかい?という代わりに、真吾は言葉を切り、幸子が体勢を整えるのを待った。

「何?」
「これから話すことは僕の勝手な考えだから、正解かどうかわからない。
でも、君にも考えてみてほしいことなんだ。
いや、君たち、と言った方がいいかな。

そもそも、どうしてスミレちゃんをたんぽぽ学級の教室に連れていくことにしたんだい?
スミレちゃんは1年1組で、矢口先生が担任なんだろう?
だったら、彼女の居場所は1年1組で、スミレちゃんの勉強の計画を立てるのは矢口先生なんじゃないんだろうか。
一緒に学ぶのは、たんぽぽの子どもたちではなくて、1年1組の子たちじゃないのか?

確かにスミレちゃんは最初の学校でいじめに遭ったかもしれない。
学校に通えなくて、勉強が遅れているかもしれない。
けど、だからって、1年1組に居場所がないと、どうして決めつけたのかな。
それって、スミレちゃんにも、1年1組の他の子たちにも、ものすごく失礼なことだと僕は思うんだよ。 

君が託されたことは、1年1組でスミレちゃんが自分の居場所づくりをする手伝いをすることで、スミレちゃんに字を教えたり、身体をもっと成長させたりすることではなかったんじゃないのかな。

身体が小さくても、字が書けなくても、計算ができなくても、友達は作れるよ。
彼女の居場所を奪ったのは、実は大人たちなんじゃないかと思えてならないんだよ。

君の経歴を見て、校長先生たちは君に変な期待をしてしまった。
君はその期待に応えてみたくなってしまった。
その結果、スミレちゃんは本来の居場所を失い、抱えきれないほどの新しいものに圧倒されているのに、気付かれもせず置き去りにされて、それで調子を崩してしまったんじゃないんだろうか。

それは、人を教え育む仕事をする人たちにとって、決してしてはならないことだと思う。」

幸子は眼を閉じ、考えに沈んだ。
真吾はそれ以上は言おうとせず、腕の傷にガーゼを載せると、そっと包帯を巻いた。

「熱が出ないか心配だから、少し休んでいかないか。
院長の仮眠室を開けてもらうから、少し眠ったらいいよ。
おやじには僕から話しておくよ。
帰りは一緒に帰ろう。 」

「安定剤、1錠もらえる?このままでは眠れなさそう。」
真吾は、先ほどまでとは打って変わった柔和な顔になって、そっと幸子の肩を抱くと、ゆっくりと立たせて、仮眠室へと向かった。







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関係者専用の駐車場にトゥデイを停めると、鍵を閉めるのももどかしく、幸子は病院に飛び込んだ。
幸子を見知っている看護師たちが笑顔で迎える。
「先生はいま診察中です。でも、もうすぐ…」
問いかけたわけでもないのに、婦長が声をかけてくれた。

その背後から、
「あれ?どうしたの?」と顔を出したのは真吾だった。
婦長にいくつかの指示を小声で出すと、 幸子の方に歩いてきた。
幸子は黙って、黒く内出血をして歯形の見分けもつかないほど腫れてきた腕を差し出した。
「うわぁ、これはひどい。思い切りやられたね。」
すぐさま処置室に向かって歩き出した。

幸子は前を歩く真吾の背中を見ているだけで、ああ無理してでも来てよかったと、心底思った。
処置室に入って二人だけになると、幸子はようやく泣きだした。
真吾は黙って腕を診察し、消毒をしている。
幸子は小学校で見せていた「マリアンヌ」としての自分ではなくて、本来の姿に戻ったような、仮面を脱いだような、なんとも言えない気分を感じていた。

幸子は、今朝からの出来事を真吾に話して聞かせた。
ここのところ、スミレとのことは、毎晩真吾に話していた。
本当は守秘義務違反かもしれないが…学校で知りえたいかなる個人情報も外部に漏らしてはならないと、校長先生にも言われたけれど…真吾は外部じゃないし、話さずにはいられなかった。
自分が教員気取りで失敗したと思っていることも、それが恥ずかしくてたまらないことも隠さず話した。
きっと真吾は優しい言葉で慰めてくれるだろうと思った。
ユキちゃんはよく頑張ったよ、間が悪かったね、そう言ってくれると信じていた。

ところが、真吾の口から出てきた言葉は、幸子が想像していたものとは全く違っていた。
「自分が教員でも支援員でもないのに、立場を超えたことをしてしまったというだけではないよね、ユキちゃんの失敗は。」
幸子は口をポカンと開けたまま、真吾の眼を見つめ返した。
「え?」

「ユキちゃん、自分が知っていること、できることを試してやろうって思わなかった?自分なら先生たちにできないようなことができるんだとか、自分なら先生たちがやるよりもずっとうまくできるとか。」
「そんなこと…」
「思わなかったって断言できる?それならいいよ。だけど、僕には君が、 そういう自己顕示欲っていうのかな、そういうものに負けて、スミレちゃん自身を見ていなかったんじゃないかって気がするんだよ。」
「そんなことないわ。スミレちゃんのことはよく見ていたつもりよ。」

「そうかな。前後の様子を聞く限り、スミレちゃんはフラッシュバックを起こしたんだと思われる。」
「そうね。咄嗟にわからなかったけど、きっとそう。」
「フラッシュバックはどんな時に起きる?」
「たいがいは何か誘因がある。あとは睡眠不足とか体調が悪い時、緊張している時、疲れている時…」
幸子はここに至って、真吾が何を言おうとしているのかがようやくわかってきた。

「そうだよね。スミレちゃんは緊張して、疲れていたんじゃないかな。だとしたら、どうしてそんなに疲れたんだ?」
「それは、新しい学校に通い始めてまだ4日だし…。」
「うん。まだたった4日だ。大人だって転勤して4日目なんて、まだオロオロしていて何もできないだろう?空気にも馴染めないし、気も使うし。疲労のピークだよな。なのに、君は君のペースでスミレちゃんにいろいろやらせたんじゃない?」
「私のペース…。」

「そう。君の、紙上のペースで。スミレちゃんって、愛情遮断症候群の診断が下っているんだったよね。ということは同年代の子どもに比べて、身体が小さく…」
「体力がない。元気に動き回れるけど、それって彼女なりの精一杯のことだわ。」
「君はひと夏かけて、スミレちゃんに会えたらあれをしよう、これをしようって考えていたよね。君が久しぶりにすごく生き生きとしてくれて、僕は嬉しかったよ。けど、本人に会う前の計画を、そのまま推し進めたのだとしたら、それって本人を無視したことにはならないの?」

幸子はもう、答えられなかった。
「彼女の身体の成長を促すために、君の立てた計画はかなり有効だと思う。それは認める。けど、それはスミレちゃんの受け止める力を見極めながら、スミレちゃんを中心にどんどん練り直されるべきものではなかったのかね。新しい場所で、初めて出会った人から、新しいことをどんどん教わって、スミレちゃん、パンク寸前だったんじゃないのかなと思うんだよ。違うかな?」

本当に、そうかもしれない。
スミレちゃんは思っていた以上に賢い子だった。
あの年齢の子は乾いた砂が水を吸うようにいろいろなことを吸収する。
だから大丈夫だと思った。
けれど、スミレちゃんは「あの年齢の子」という実体を伴わない存在ではない。
一人の人格を持った存在だ。
そういう意味で、自分の計画通りに進んでいるか、想定通りの反応をしているかはよく見ていたけれど、スミレちゃん自身がどう感じているかを、少しも見ようとしていなかった自分に気がついた。
そういえば、昨日もちょっと苛立ったようなことを言っていたのに。







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「僕はね、たどりついたんだよ。答えに。」
何の?と思わず尋ねてしまった。
この少年の言葉は幸子の胸に一滴残らず沁み込んでくる。

「僕はどうして生まれてきたのか。どうやって生きていけばいいのかだよ。」
そんな疑問に答えられるの?
幸子は少年の青白い顔を覗きこんだ。
手術に備え、髪をすべて剃ってしまっているので、青白い顔にもっと青い頭がつながっている。
その姿は澄み切っていて、既に悟りを開いた菩薩のようだ。 
その表情と、新幹線がたくさんついたパジャマとの取り合わせがちぐはぐで、目に焼き付いてしまう。

「僕のことを気の毒だとか、かわいそうだとか言う人がいるんだ。
お子さんが重い病気だなんてお気の毒ですって、母さんに言うヤツ、ほんと憎いよ。
中には僕に直接言う人までいるんだ。
デリカシーないよなぁ。
僕は、そう言われるといつもすごくイヤな気持ちになる。
だって、ちゃんと歩いたり走ったりして、学校行って勉強している人が本当で、それができない僕はダメだからかわいそうってことでしょう?
だけどさ、僕は、僕のこれが僕なんだよね。
かわいそうでもなんでもないよ。
けど、他人に平気な顔してお気の毒〜っていう大人には、僕の気持ちなんか全然わからないんだよ。
あんな大人にはなりたくないな。
って、大人になれるまで生きていられるかわからないけどさ。

ほら、大人ってさ、子どもの可能性は無限ですとか言うでしょ?
あれって、嘘だよね。
可能性だなって気付かなければ、可能性にはならないし、
気付いても実際に手に入れなくちゃ、気付かないのと同じ結果でしょう。
結局さぁ、今できることが、今の可能性なんだよね。

だったら、僕には元気に走ったり、毎日学校通ったりできないからって、可能性が少なくて損しているわけじゃない。
元々ないものは、なくしようがないからさ。
今僕に出来ること…こうやって話したり、笑ったりすることも…それが僕の可能性なんだ。
だったら、それを一生懸命すればいいんだよね。

僕は長生きをして母さんを喜ばせることはできないかもしれない。
でも、そんな先のことはどうでもいいんだ。
今、母さんを笑わせればいいんだよ。
それなら僕にもできる。
過去にあった悔しいこととか腹が立ったこととか、悲しいこととか、そういうことも、どうでもいいんだ。
だって、過ぎたことはもうどうにもできないからね。

今できることをやる。
それって、今生きている人全員に平等だよね。
誰もかわいそうじゃないし、損もしてないし、気の毒でもないよね。
僕は、生きている間中、今できることを一生懸命しようと思うんだ。

ねぇ、ユキちゃん、それでいいかな。いいよね。」

いいよね、と笑った顔の康平君をありありと思い出したマリアンヌは、思わず声に出して「うん。」と答えていた。
交差点を左折した先に、真吾が勤める有田病院が見えてきた。







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康平君の容体はあまりよくないはずだった。
それでも、相変わらず歯切れのよい話が飛び出してくる。
変声期前の高い声で、言っている内容は大人としか言いようがない。
時として、幸子も真吾も、康平君は自分より年上なのではないかという錯覚にとらわれた。
明日がいよいよ手術という日、幸子は時間を作って康平君を見舞った。
 
「ユキちゃんさ、シンゴはどうなの?ちゃんと大事にしてくれてる?」
開口一番、真顔で聞かれた。
幸子がドギマギして、言葉を探していると、
「あのさ、最近のユキちゃん、ひどい顔しているよ。もとは美人なのに、いまは幽霊だよ。仕事、しんどいんだろ?」
図星を指された。

「うん。簡単じゃないよね。」
幸子は率直に答えるしかなかった。

「僕さ、10歳なんだよね。
10年って、短くないよ。けど、長くもない。
それがさ、続くかどうかの瀬戸際なんだ。
手術をしたら元気になるかもしれないけど、脳みそを切るんだもんな。成功しても後遺症が残るかもしれないし、失敗したら死ぬかもしれないんでしょう。でも、手術しないと、もう生きていられないんだよね。

僕はいつも考えるんだよ。
僕はどうして生まれてきたんだろうって。
僕みたいに心配ばかりかける子どもを持って、母さんも父さんも不幸せだよね。
僕はどうやって生きたら、母さんたちを幸せにできるのかな。

僕にできることは、なんなの?
ユキちゃん、教えてよ。」

そんなこと、教えられるはずがない。
私の方が教えてもらいたいくらいよ。 
答える言葉が見つからず口ごもっていると、康平君の方が言葉を継いだ。
 
「僕のように、言葉にして聞いてくれる子はいないだろうけど、でもここに入院している子たちはみんな、こんなこと考えているんだよね。
そんな人間の側にいるんだからさ、ユキちゃんがしんどいのは当然だよ。
当然だけどさ、それがユキちゃんの選んだ仕事だろ?」

康平君は純粋で頭がよくて、容赦ない。
この子の心にはバリアがない。
真っ直ぐに入ってきて、何もかも見抜かれてしまう。
嘘がつけなかった。

「ユキちゃんは純粋で、嘘がつけないでしょ。
だから、僕は心配なんだよ。
大人なんだから、もっと抜けるところは抜いて、都合よく考えて、楽に生きればいいのに。何にでも真剣になっちゃうでしょう?」

それは、あなたでしょう?と言いたいが、言えない。
わずか小学校4年生の男の子に、一言も返せない。
これではお見舞いに来たのか、自分が慰められに来たのか分からない。
幸子は自分の白衣と首から下げた聴診器を見下ろしながら、情けなくなってしまった。 







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幸子の研修医生活が後期に入るころ、幸子は康平君と初めて言葉を交わした時に彼が言ったことの真実味を思い知らされていた。
連日、重篤な子どもたちが入院してくる。
健康を取り戻す子どももいるが、亡くなる子どもも少なくない。
初めて自分が担当した子の命が途絶えた時、二度と診療などできないと思った。
が、休む間もなく次の患者がやってくる。

次第に、誰が元気になっても感動することもなく、どんなに幼い子が亡くなっても心が痛まなくなった。
悲嘆にくれる日々を送っていた頃には、いっそ何も感じなくなったら楽だろうにと思ったものだが、実際に感じなくなると、今度は生きている気がしなくなってしまった。
何を食べたか、何を着たかなど、どうでもよくなった。
休みもほとんど取れなかったが、それを苦痛に思う気持ちもわかなくなった。 
医師とはそういうもので、ひとりひとりの患者の生き死にに動揺していてはならないのだと考えるしかなかった。

それは、脳外科で研修医をしていた真吾にしても同じだった。
患者を診ているのか、腫瘍を診ているのかわからなくなった。
それでいいのだと、言い聞かせて1年を送った。

それでも二人の恋愛関係だけは続いていて、忙しい時間を合わせて、ふたりで食べるラーメンと他愛ないおしゃべりが、最高の憩いだった。

幸子が初めて会ってから3度目の入院をしていた康平君の病室で、真吾と幸子が顔を合わせたのは、偶然のことだった。
いよいよ大きくなった腫瘍に脳が圧迫されて、康平君はもう一人では歩けなくなっていた。激しい頭痛や吐き気が続き、手術する以外、道はなくなっていた。その診断がおりるまで、康平君はいつものように小児科病棟に入院していて、幸子の指導医が担当していたので、幸子もよく病室に通った。執刀医が、真吾の指導医に決まった。真吾も手術スタッフに入る。
手術の日程が決まれば、康平君は脳外科病棟へ移る。

疲れすぎていたのだろう。
康平君の前で、真吾が思わず、プライベートの時だけに使う呼び名で、幸子を呼んでしまった。
「ユキちゃん。」
それだけで、敏い康平君は、2人の関係を悟ってしまった。
「で、ユキちゃんは小林先生のことをなんて呼ぶの?」
「し…シンゴ。」
「ふうん。ふふっ。いいねぇ。」 
その日から、康平君は「ユキちゃん、シンゴ」と呼ぶようになってしまった。 







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その少年は康平君といった。出会った時の康平君は小学4年生だった。
幸子が研修医として着任したこの時はすでに、何度目かの入院だった。
顔なじみの看護婦たちの間ですでに、康平君は天使かアイドルのように愛されていた。
脳腫瘍だった。難しい位置に腫瘍があった。
ぜんそくもあり、小児科病棟に入院していた。

「学校で咳が出て、母さんが迎えに来てくれたんだ。
帰り道、歩けない僕を母さんはおんぶしてくれた。
そうしたら、通りすがりの人が言うんだよ。
『あら、甘えん坊ね』って。
僕、すごく腹が立った。
大人なんだから、少しは考えてしゃべるべきだよ。
4年生にもなって、理由もなくおんぶされるわけないじゃない。
思いやりも想像力もない大人なんて
まったく、大人になった意味がないと思うよ。」

幸子が初めて康平君の部屋に行った時、康平君は看護婦を相手にそんな話をしていた。
幸子はまったくその通りだと感心してしまった。

「僕も腹が立ったけど、母さんはもっと辛かったと思う。
だからね、僕は怒らないことにしたんだよ。
怒る分の体力を、病気を治すことに使おうと思って。
馬鹿な大人のために、もともと少ない体力を使うのは無駄だからね。」

もっと聞きたくなるような少年の主張を中断するのは申し訳なかったが、盗み聞きするのもどうかと思い、幸子はノックをして部屋に入ると自己紹介をした。
すると康平君は横になったまま小さな手を差し出して、握手を求めてくれた。
幸子がその手を握ると、意外なほど力強く握り返された。
黒目というより、深緑の湖のような色の瞳をして、康平君は言った。

「研修医か。それって、すごく大変なんでしょう。
佐川先生、患者が死ぬところ見たことある?
この病院は、そのへんの病院で診きれなくなった重症患者が来るでしょう?
僕はここに何度も入院しているけど、仲良くなった子が何人も死んでしまった。
僕だって、いつ死ぬのかなと思うと、怖いよ、すごく。
佐川先生は若いから、きっと自分の患者が死んだらショックだと思うんだ。
大丈夫?」

いきなりのカウンターパンチを食らって、幸子は何と答えていいかわからなかった。
とりあえず笑顔でその場を取り繕ろおうとしたが、それも失敗した。
大丈夫とは絶対に言えない。けど、それも勉強だからとも答えられない。
康平君が幸子をからかったり試したりしているるわけではないことは、まっすぐに伝わってきた。
まごまごしている幸子を見て、康平君が救いの手を伸ばしてくれた。

「まぁさ、辛いことはそれだけじゃないだろうし。
女だらけの職場だからね、人間関係とかさ、いろいろあるよ、きっと。
悩み事があったら、僕が聞いてあげるよ。
だから、がんばってね!」 

この子は本当に4年生か?と幸子は頭をひねった。
後でカルテをまじまじと見直したが、正真正銘の10歳だった。
出会った時から康平君は幸子の胸に深い印象を刻んだのだった。





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「佐川さんは何科を目指すの?」
「小児科にしようかと思ってる。小林君は?」
「僕は脳外。減ってきてはいるけど、日本人の死因の第一位は脳卒中だろ?僕は、そこに向き合いたい。佐川さんはどうして小児科?」

児童公園から真吾の下宿に向かって歩く途中に、こじんまりした喫茶店があった。珈琲と、生クリームをたっぷり使ったミルフィーユが美味い。二人で同じものを注文した後、真吾が何気なく尋ねた問いかけに、幸子は少し言い淀んだが、何か決意したように語り始めた。

「私ね、中学2年のときに手術を受けたの。子宮筋腫の摘出だった。わりと大きな筋腫でね、でも、なかなか原因が分からなかったの。お腹は固いし、おねしょはするし。そのうちひどい腰痛が出たのね。小児科から始まって、内科に泌尿器科、整形外科、いろいろ行ったけど、 全然原因が分からない。で、母がね、一生懸命調べてくれて、もしかしたら婦人科じゃないかって気がついて。そりゃ、お医者さんも中学に入ったばかりの子どもに子宮筋腫は疑わないわよね。でも、おねしょや腰痛は、筋腫が周囲を圧迫するから起きていたのよ。

原因が分かってからも悩んだわ。全摘手術となったら、中学生で子宮を失うのよ。将来の影響を考えたら、簡単に決断できることではないわ。両親も本当に苦しかったと思う。最初に夜尿が始まったのは小学校の時だから原因がわかるまで2年かかっていたし、 手術の話が出てからも半年近く決断できなくて。育ち盛りだから、身体も成長するし筋腫も成長する。半年後にはもう悩んでいる場合ではなくなっていたの。

母も私も、全摘しかないんだと思ってた。でも、違ったの。手術をしてくれた先生は、筋腫だけを取って、子宮は温存してくれたのよ。当時としてはあり得ない選択だってこと、あなたもわかるでしょう?大変な手術だったけど、成功した。おかげで私はおねしょからも腰痛からも解放され、中学生らしい健康を取り戻せたの。けど、妊娠・出産は、可能性は残っていると言われているけど、きっと難しい。

その時よ、医者になろうと決めたのは。手術をしてくれた先生にも感謝しているし、同じ仕事をと思ったこともあったけど、 勉強しているうちに考えが変わったの。もしも、最初に診察してくれた小児科の先生が私の病気の正体に気付いてくれていたら、もしかしたら薬で治せたんじゃないかって思った。そしたら、私の人生は別のものになっていたかもしれないって…

だからね、私、子どもたちの未来に希望をつなぐ、腕のいい小児科医になろうと思うんだ。」

深刻な話のはずだったのに、真吾はすんなりと受け取った。
話の途中で出てきた珈琲にミルクだけ入れて飲むのも同じなら、ミルフィーユにフォークを入れるタイミングも、フォークをたてる位置まで同じだった。 
個人的な話をするのは初めてのことなのに、互いに何でも話せてしまう。
相手の言葉がお互いを遮ることもない。
気がつけば、3時間も経っていたが、二人には30分ほどにしか感じなかった。

3月には二人とも無事、国家試験に合格し、附属病院で研修医生活が始まった。
巨大な組織、際限なく押し寄せる患者に圧倒され、翻弄される毎日だった。
そこで、幸子と真吾はふたりの将来を左右する少年に出会うことになる。


スミレに噛まれた腕の傷を消毒するために真吾の病院へと車を走らせながら、マリアンヌは「佐川幸子先生」と呼ばれていたころの自分と、その少年のことを思い出していた。









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マリアンヌの夫・真吾が勤める有田病院は、松本市にある総合病院だ。
院長は真吾の父で、病院は祖父の代から続いている。
当時はまだ珍しい、リハビリを得意とする病院だった。

真吾は、物心ついたときにはもう、自分は医者になるものだと思っていた。
祖父や父の仕事を見るにつけ、自分も同じ仕事ができるのを誇らしく思い、当然のように勉強もした。
能力にも恵まれ、傍から見る分には大した苦労もせず、東京大学理科稽爐妨縮鮃膤覆靴討い拭

真吾にとって、幸子との出会いは、いつどこでとも思い出せないくらい自然なものだった。
医学部に入った時からのような気もするし、もっと後のような気もする。
それでも、はっきりと女性として意識したのは、国家試験の少し前の出来事だった。
その日のことは、今も忘れず、何度も何度も思い出している。

勉強に疲れた日曜の昼下がり、真吾は参考書を片手にふらりと散歩に出た。
下宿から歩いて10分ほどのところに、児童公園がある。
一月末の東京は、乾燥した空気が喉を刺すようで、寒さだけなら故郷の長野の方がずっときついが、体調への影響は東京の方が大きいのかもしれないなどと考えながら、よく晴れた空を見上げながら歩いた。

体内に滞った二酸化炭素がちの血液が、冷たい空気に透析されて、浄化するような気がした。

児童公園では、セーターにマフラーの子どもたちが、季節などお構いなしに遊んでいる。
子どもが遊んでいる姿は、いつ見ても癒される。
真吾にはお気に入りのベンチがあった。
砂場の脇、ゆったりした二人掛けのベンチだった。

遠目に、先客がいるのがわかった。
多少気が引けたが、とりあえず行ってみるかと思い、近づくと、知人であることに気がついた。
それが幸子だった。

「あれ、小林君?」
先に声をかけてきたのは幸子のほうだった。
「佐川さん。君も休憩?そういえば、この近くが自宅だったね。」
「うん。なんだか、息詰まっちゃって。」
「あと2週間だもんな。」
「もっともっとやるべきことがあるような、もう全部やり尽くしたような…。」
「わかるわかる。模試の結果がどんなによくても、本番とは別物だからね。」
「なんだか、心の持ちようがわからなくなっちゃって。」

こんなふうに個人的に言葉を交わしたのは、この時が初めてだった。
けれども、真吾から、幸子は本当に悩んでいるように見え、力になってやりたいと思った。

幸子の悩みは有効期限付きだ。
あと2週間、国家試験が終わってしまえば、その悩みは悩みでなくなる。
そんなものに振り回されるのは合理的でないと思う。
そのままを、幸子に話して聞かせた。

「それはそうなんだけどさ…。まぁ、そうなんだよね。」
幸子は真吾の顔を覗きこみながら、ぶつぶつと文句を言い始めた。
「友達も、いろいろじゃない?
理靴帽膤覆靴浸点で燃え尽きちゃって、もう努力する気力は残ってませんってタイプも多いし、逆に自信満々で、鼻もちならないヤツも少なからずいるじゃない?実家が大病院で、ゆっくり受かってくれりゃいいからって言われて、悠々自適の人もけっこういるでしょう?」
真吾は内心ペロリと舌を出した。自分はその三つめだ。

「私なんか、普通のサラリーマン家庭で、ありきたりの家庭文化しかないのに、うかつにも東大なんて受かっちゃったから大変なのよ。おらが家系からお医者さまが出るだ〜みたいな感じ?期待が大きすぎて、重たい重たい。それに、東大だって現役で受かったんだから、国家試験も当然現役よね?なんて、このタイミングで母親から真顔で聞かれてごらんなさいよ。夕べなんか、国家試験に合格したら病院建てるのか?そんな金はないが、お前のためなら借金してでも建ててやる、やっぱり駅前か?なんて、父親が真顔で言うのよ。受かっても2年間は研修医よと言ったら、そうか、じゃ、資金作りに2年間使えるんだなって、手取り40万のサラリーマンが何を言うんだか…。そりゃ、6年間も学費出してもらっているんだから、ご恩には報いたいですよ、だけどね…」

話し出したら止まらなくなったらしい幸子のどこかファニーな話を聞いているうちに、真吾は自分の疲労感がすっかり消えていることに気がついた。
確かにちょっとズレてはいるけれど、温かな家庭で育った女性らしいことが、なんだか嬉しかった。
ふくれている横顔を改めて見ると、ユキコという名だけあって、肌が透き通るように白い。
長くて真っ直ぐの髪を後ろで無造作に束ねている。その髪からのぞいた白い耳が、冷気と興奮に赤く染まっている。
桜色の唇を尖らせて文句を言い続けている表情、その話し方も、文句のすぐ裏側に家族への愛情が滲んでいるようで、少しもイヤな気持ちがしない。

真吾が不意に幸子の左腕をとって、脈を測り始めた。
幸子は愚痴の続きを忘れて、真吾の目を覗きこんだ。
「バイタル120。このままでは危険です。何か、おいしいもの食べに行かない?」
「いいけど、お財布持ってないから、お金借りなきゃならないわ。」
「では、治療費は後日清算させていただきます。」

二人の恋の始まりだった。







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「あっ!」
思い切りブレーキを踏みつけた。
心臓からも脳からも鉛色の剣が飛び出したような衝撃を受けた。
その衝撃は身体が受けたものではなかったと分かり、マリアンヌは「ああああ。」と深く息を吐いた。

松本に向かう国道147号線を走っていた。
愛車の赤い軽自動車ホンダ・トゥデイは、目を細めたカモノハシのような顔をしている。
東京から長野に引っ越してきて、どうしても車が必要になった。
もともと赤など好きではなかったが、それでも赤を選んだのは、長い間真っ白な雪に包まれるこの街に、華を添えたくなったからかもしれない。

マリアンヌが絹を引き裂くようなブレーキ音とともに急停車したのは、横断歩道の真上だった。
右折の車が思い切りクラクションを鳴らして行く。
歩行者がいなかった幸運を思うと、全身が今更ガクガクと震えだし、そのまま運転し続ける自信がなくなった。
信号が青に変わるのをしつこいほどに確認すると、のろのろとトゥデイを発進させ、交差点を抜けるとすぐに路肩に寄せてエンジンを切った。

運転席を少し倒して深呼吸をする。
目を閉じて、さらに深呼吸を続けた。
思い切り息を吸っても、少しも肺が膨らまない気がする。
そんな深呼吸を繰り返しても落ち着かない。
かえって過呼吸を起こしそうな気がして、目を開けた。

9月の安曇野は空気に涼風が混ざっている。
路肩のすすきは穂を出し始めているし、コスモスはもう満開で、ゆらゆらと桃色の花を揺らしている。
脇をごうごうと過ぎて行くトラックに煽られて、小さなトゥデイが揺れる。

無性に、真吾に会いたかった。
消毒をするだけなら、家に帰ればいい。自分でできる。
けれども、今はどうしても真吾の顔を見て、声をかけてほしかった。
真吾なら、私自身言葉にできないこのもやもやした気持ちを、分かるようにしてくれて、なだめてくれそうな気がする。
この仲の良い夫婦は、辛い時も楽しい時も、真っ先に相手のことを思い出す。
そうやって、もう10年も波乱の生活を送ってきたのだ。

「迎えに来て。」
独り言を言ったら、涙があふれてきた。
この時間、診察中に決まっている真吾を呼び出すことができないことくらい、重々分かっている。
だから、独り言を言うだけだ。
しゃくりあげそうになって、マリアンヌはあわててバッグからハンカチを取り出した。

やはり家に帰ろうかとも考えたが、どうしても真吾に会いたい。
もう一度、大きく息を吐き出すと、座席を元にもどし、エンジンをかけた。
サイドミラーを見ながらタイミングをはかり、サイドブレーキを下ろそうとしたら、左腕がズキンと痛んだ。
あまりの痛みに、思わず腕を見つめる。
さっきまで紫色に見えていたスミレの噛み痕は、もう真っ黒くなっていた。







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「多分、フラッシュバックだと思います。」
校長室のソファーに腰をおろし、真理は数えきれないほどかかっている歴代校長の白黒写真を見上げながら答えた。 
丁度いい。
真理はここで、この小学校を守っているかのような人々全てに、伝えたいことがあった。

フラッシュバックとは、過去に強烈なトラウマを受けた場合、後にその記憶が、突然、それも極めて鮮明に思い出される心理現象をいう。実際にその鮮明さは、今まさに起きているとしか思えないほどで、当人にとっては「記憶の再生」とは思えない。つまり、フラッシュバックを起こすと言うことは、フラッシュバックを起こす原因となったような強いトラウマを再体験することに他ならない。

「スミレちゃんの体験は、ご存知だと思います。きっと、マリアンヌが…小林さんがトランポリンで跳ねているのを見ていた時に、天井に当たらないのかな?と思ったのがきっかけで、思い出したのでしょう。」
校長先生は、書きかけていた重要書類にサインを入れ終わると、仕事机から立ち上がり、真理の向いのソファーに座った。
「申し訳ないことをしました。スミレちゃんにも、小林さんにも。もう少し慎重になるべきでした。」

「いいえ。」
真理はきっぱりと否定した。そこは謝るところではありませんよ、というように。
 
「校長先生、それは違います。
それもこれもひっくるめて、スミレちゃんなんです。
あの子は心に大きな傷を抱えています。
一番愛されたい母親や父親に、愛された実感がない。
それがどれほど手痛いことか、校長先生にもおわかりになると思います。
私も、できればそんな傷は消してあげたい。
できることなら、今の楽しさに夢中になって、過去の痛みを全部忘れてほしい、忘れさせてやりたいとも思います。 
いつか、そんな痛みをはねのける強さを持ってほしいとも願っています。

けれど、今はまだ違います。
今、この瞬間も、あの子の心は痛み続けています。
日常の楽しさや、友達との交流や、ご飯の美味しさはもちろん喜べます。
けれど、それであの子の心の傷が癒えたわけではないんです。 
だから、私たちが注意してさえいれば、あの子は平気だなんて思うのは、傲慢なのではないでしょうか。
 
あの子はきっとこれからも、怖いことを思い出しては今日のように暴れることもあるでしょうし、私たちが想像もできないようなことをするかもしれません。
だって、それは、あの子が心の痛みを訴えているのと同じですから。
『これだけ痛いの、助けて』って言っているのですから、そんなこと言うなとは言えません。 
痛みも傷も含めて、まるごとスミレちゃんなんです。

それに、先日かっぽう着を探した時に、亡くなったおばあさまのことを思い出させたのは私です。
今日のことは、学校の出来事だけで起きたわけではないと思うのです。
 
あの子がどんなふうであっても、どうかあの子を見捨てないでやってください。
お願いします。」

真理はソファーの上で、膝につくほどに頭を下げた。
校長先生はその姿を、苦虫をかみつぶしたような表情で見つめている。
そっと顔をあげて、そんな校長先生の表情を見た真理は、思わず息を詰めた。
校長先生から、深いため息が漏れる。

「あの…」
真理は、自分がひどく不躾なことを言ってしまったと、この時になって気がついた。
きっと気分を害してしまったに違いない。相手は校長先生だ。教育のプロに大して、偉そうなことを…。

「長谷川さん。」
校長先生の、重たい声が名前を読んだ。
「は、はいっ。」
「おっしゃる通りだ。私は、いつの間にか考え違いをしていたようだ。
もみの木学園のお子さんをお引き受けするたびに、私は、ここでこそ、のびのびと成長してほしいと思ってきました。
けれど、それと同じくらいに、 どうかトラブルなく毎日を平穏に過ごしたいと思っていたのです。
学園のお子さんに何かあることで、他の保護者を刺激したくもありませんし…。」
「え?他の?」

真理の問いかけに、校長先生は余計なことを言ってしまったとばかりに、あからさまに話題を逸らした。
「長谷川さん。 スミレさんのことは、よくわかりました。
今後ともご一緒に、彼女の成長を守っていきましょう。
ですが、小林さんのことは、諦めていただかなくてはならないかもしれません。」

「どういうことですか?彼女はクビですか?」
「とんでもない。雇用関係を結んだわけではありませんから、クビもありません。
ですが、スミレさんに噛みつかれて怪我をされましたし、たいそうショックを受けた様子でしたから、きっともう来てくださらないと思います。それに、もう一度とお願いすることも、学校としては…。」

それを知ったら、スミレはどれほど傷つくだろうと思うと、真理は思わず八つ当たりに、聞えよがしの溜息をついてしまった。 

校長先生は校長先生で、ボランティアでありながら教員と同じかそれ以上の知識と実行力を持つ小林幸子という女性の扱いを誤った我が身の責任について追及される事態を恐れていた。
運よく、真理はスミレのことに夢中で、その点には気付いていないようだ。
しかし、マリアンヌがまたやってくることになった時、どの教員からも疑問の声があがらないとは考えにくかった。
いっそ当人から「続けられない」と申し出てくれれば円満解決なのだが…。

学校経営は政治だ。
校長先生は辞去する真理に笑顔を見せながら、肚の中でぐるぐると思案をめぐらせていた。




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