Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

2013年08月


「誰のせいでもないことは分かっているんです。けれど、辛くて寂しい気持ちがいつも身体の中に沈んでいて、どうしようもありませんでした。なんとか高校を卒業し、短大を終えて、介護の仕事に進んだのは、自分は人のお世話をするのが天職だと思いこんでいたからです。それしか誉められませんでしたからね。それに、ありがとう、ありがとうと言われるのは、正直嬉しかった。自分は必要とされているんだと、ダイレクトに感じることができました。

娘の心臓の病気も、弟のように、いつか元気になると思えました。私は両親に気にかけてもらえず寂しかったけど、そのあと、辛いこともたくさんあったけど、自分の家庭を持って、今度は一人っ子の娘に、誰に気兼ねもなく愛情を注いで、健康を取り戻してやろうと思ったんです。夫も賛成してくれて、二人で精一杯、娘を育てました。

けれど、娘の心臓は、本当に悪かったのです。たった1歳半でした。もう一度お誕生日を祝ってやりたい、歩かなくたって、しゃべらなくたっていい、ただ生きて、私たちに抱かれてくれたら、いいえ!抱けなくたっていいから、とにかく生きていてさえくれたら、それでよかったのに。神様は、私たちからあの子を取り上げてしまわれたんです。」

真理はもう、祖父をみつめることができなくなった。
祖父も、われ知らずこぼれてくる涙を抑えられなかった。
幼い時から弟に親の愛情を奪われ、今度は神様に子どもを奪われたこの女性には、どんな慰めの言葉も届かないような気がした。

「娘がいなくなってから、夫ともうまくいかなくなりました。夫には何の落ち度もありませんでしたけれど、お互い、何のために一緒にいるのか、わからなくなってしまいました。お互いに、相手の顔を見ると亡くなった娘を思い出して辛くなる、そういう繰り返しに耐えられなくなったということでしょうか。離婚して、それぞれ、ひとりで暮らすようになりました。

私は、罪深い女だと思っています。
娘の心臓病は、きっと私の方からの遺伝でしょう。
それを思うと、娘にも、夫にも、申し訳なくてどうしようもありません。
娘も夫もいなくなって、私の心には大きな大きな穴が空きました。
穴というより、もう空っぽでした。

死んでしまおうかとも思いましたけれど、そんな勇気もなくて、生きるには仕事を探さなくてはなりませんでした。
元の職場には夫がいましたから、戻ることはできません。
そんな時でした。もみの木学園の職員募集のことを知りました。
ダメでもともとと思い、応募してみたら合格したのです。

短大で養護教諭の二種免許を取りましたから、それもよかったのでしょう。
私はてっきり、学園の保健室の先生になるものと思っていました。
でも、始まってみたら仕事は、ご存知の通りです。

私はすぐに夢中になりました。
ここには、親に愛されたくて愛されたくて、一緒にいたくていたくてしかたがないのに、いられない子どもたちがいます。私は、私は…」
真理は、涙でぐちゃぐちゃになった顔をあげ、また祖父の目をみつめてから、言葉をつないだ。

「私には、子どもたちを手放す親の気持ちがわかりません。事情があるのはわかります。子どもたちに暴力を振るう親なんか論外ですが、ものすごく努力されて、それでもうまくいかなかった親御さんもいることはわかっています。けど、子どもを愛すること以上に大事なことなんて、あるんでしょうか?

だから、私は親でなければ本当は味わえない、子どもから信頼されて何もかも預けてもらえる立場を奪い取っているんです。奪って、私の心に空いた大きな穴を、子どもたちの体温と笑顔で埋めているんです。

だから、私は親御さんから、ありがとうって言われる資格はありません。
本当なら、みなさまが受け取れるはずだったものを、盗んでいるんですから!」







ポチッと応援お願いします


 


真理の話は続いた。

「幼くして重病を抱えた子どもや、その親がどんなに苦しく大変か、世間もマスコミも、そこにはいつも注目します。けど、その子のきょうだいがどれほど寂しいか、置き去りにされてしまうかには誰も気付きません。悩み事があっても、病気の子のことで忙しい親に面倒をかけてはいけないと相談すらできない子どもがいることに、大人は無関心なんです。

あんなにお手伝いができるお利口さんだから、なんでもひとりでできるわねなんて誉められても全然嬉しくなかった。私だって辛いことはたくさんあったのに。高校に入って少ししたころ、帰りのバスの中で突然気分が悪くなってしまったんです。同じ高校の人も何人も乗っていました。初めは我慢していたのだけど、どうしようもなくなって、吐いてしまいました。自分でも驚くほどたくさん、ごぼごぼと出てきて、止められなくて…。

立っていたから制服もカバンも汚れて、バスの床に吐いたものが広がって、周りの人の悲鳴が聞えました。恥ずかしくて、怖くて、でも、どうしたらいいかわからなくて。

運転手さんがバスを止めてくれました。 後はよく分かりません。
誰かが、病院に連れて行ってくれて、母に連絡してくれたそうです。
きっとすぐに迎えに来てくれるからねって、看護婦さんが言ったんです。
けど、母が来たのは、夜になってからでした。
弟がまた体調を崩して、病院に行っていたそうです。

水で拭いただけで、イヤな臭いのする制服で歩いて帰る時の気持ちは、今思い出しても言葉で説明できるものではありません。
その日から、バスに乗れなくなりました。
あんな姿を学校の人に見られてしまって、恥ずかしくて、学校にも行けなくなりました。
外に出ようとすると、心臓がバクバクと音を立てて、息ができなくなってしまうんです。」

「それは…」
祖父は何と言っていいかわからない。真理が受けた痛みは、20年近く前のことだろうに、今ここにあるかのように伝わってきた。もしも自分だったらと思う。背中に戦慄が走った。自分でも真理と同じように、学校に行けなくなったかもしれない。

「それでも、高校でしたから、通わなければ卒業できません。私は初めて、母にわがままを言いました。一緒にバスに乗ってほしいと頼んだのです。学校へも一緒に行ってほしいって。そして、それまで自分がどんなに寂しかったか、弟と同じくらい私のことも見てほしいと思ったかを、とうとう話してしまいました。」

「お母様はなんて?」
つい、祖父は先をせかしてしまった。聞かずにはいられなかった。
真理のことも気の毒だったが、祖父は真理の両親のことが気になった。自分と同じように、子どもをありのままに愛せない親が…理由はまったく違うけれども…ここにもいたと思ったからだ。

真理はほろ苦く笑った。
「ええ。母は話を聞き、一緒にバスに乗ってくれるようになりました。ただし、弟が元気な時だけでしたけどね。でも、私は、母に申し訳ないと思う気持ちだけが募って、素直に喜ぶことができませんでした。実際、母は疲れていましたし。弟がだんだんと体力をつけて、体調を崩すことがなくなったのは、その後からでしょうか。その頃には私はもう社会人になっていて、心の底には赤ん坊が母親を求めるような気持ちが残っているのに、それを母に求めるには大人になりすぎてしまいました。」


 




ポチッと応援お願いします

 


「娘には輝美と名づけました。太陽のように輝いて、心も身体も美しい女性に育ってほしいと、夫と話し合って決めたんです。いい名前でしょう?
娘に心臓疾患があると分かったのは、生まれて間もなくでした。本当は、お腹にいた時から言われてはいたのです。でも、きっと大丈夫だ、生まれてみたら間違いだったとわかるって、私は信じていました。生まれてから間違いないと分かっても、大きくなればきっとよくなる、私がよくしてみせるって。そう信じられたのには理由がありました。」

祖父は、だまって話を聞き続けた。真理の言葉が途切れたので、ふと視線をずらすと、グラスの麦茶の氷が解けて、びっしりと汗をかいている。コースターに沁みがつかないかと思ったが、そのままにして、真理に視線をもどした。

「私には弟がひとりいます。弟も、生まれつきの心臓疾患を持っていたのです。生きるか死ぬかで生まれてきて、すぐにお腹をこわしたり熱を出したり。ちょっと風邪をひくと肺炎になるし、喘息にはかかるしで、それはもう大変な子でした。病気で身体に負担がかかると心臓も弱ってしまって、両親は、弟が生まれてから、全ての力を弟に注いでいるようでした。

とはいえ、弟とは2歳しか違わないから、そんなに記憶があるわけではないのです。けど、記憶があるのは、入院している弟のところへ母が行ってしまって、私はいつもひとりで留守番していたこと。夏休みにも、他の子のように海や山に家族で遊びに行くなんてなかったし、遊園地なんて言葉さえ出ませんでした。弟はいつも病気で、母はいつも疲れていて、父はいつもイライラしていました。

私は弟が大好きなんです。元気になってほしいといつも思っていました。弟が家にいる時には、いつもだっこしたりおんぶしたりして、遊んでいました。なかなかおむつがとれなくて、幼稚園の私が、弟のおむつを替えていたんですよ。両親は、私が運動会で1等賞になっても、勉強を頑張っても全然関心がなさそうでした。ほめてもくれません。けど、家事を手伝ったり弟の世話をしていると、そのことは誉めてくれました。

母は、私自身ではなくて、母の役に立つ人としての私にしか関心がないのだろうと思いました。 家の中はすべてが弟中心でした。私はいてもいなくても同じだと感じていたんです。
さみしかったですよ。
でも、言えませんでした。だって、弟だって好き好んで病気になっているわけではないし、両親も必死なのは分かっていました。だから、もっと私を見てとか、私と話してとかいうのは、ひどいわがままのような気がしたんです。

弟は、小学校に上がる前に、何度目かの大きな手術を受けました。多分、父はその時大きな借金をしたのだと思います。輸血が必要だったから、母は違反すれすれなほど頻繁に献血を繰り返して、献血手帳を手に入れようとしていました。身体に血が足りなくなって体調を崩していました。同じように献血を繰り返していた父は、それでも足りないとわかると、職場の人に頭を下げて回って、献血手帳をもらったそうです。そうしないと、輸血にお金がかかり、それを支払うことができなかったのだと聞きました。

弟の手術は成功しました。成人を迎えるころには、弟はすっかり健康になったんです。今も元気に働いています。両親は頑張った甲斐があったと、今でも時々話しています。私も思うんです、本当に寂しい子ども時代だったけど、我慢してよかったって。でも、そんなふうに思えるようになったのは娘を授かった後のことで、思春期の頃は悩みました。常に親の役に立とうとするのに疲れて、高校の時は体調を崩しました。学校に通えなくなるほどに。」






ポチッと応援お願いします

 


コースターの上に冷えた麦茶を入れたグラスを置くと、真理は祖父の斜め脇の席に腰を下ろした。
祖父は改めて、スミレが世話になった礼を述べようとした。が、今度ははっきりと、真理に止められてしまった。
「頑張ったのは私ではありません。スミレさんです。辛かったのも私ではありません。スミレさんの方がずっと…。」
真理は穏やかな笑顔を浮かべている。

「スミレと話していると、まるで生まれ変わったようです。」
「ええ、本当に生まれ変わったのですよ。」
「と、おっしゃると?」
「スミレさんはここで、赤ちゃんから…というより、胎内から6年分の時間をやり直したのです。 」
「どういうことでしょう?」
「それはともかく…。」
真理は細かいことを話さなかった。
もし話していたら、出来事のひとつひとつに、きっと祖父は目を剥いたことだろう。 
祖父もまた、それ以上、問い詰めてまで聞き出そうとはしなかった。

「長谷川さんは、なぜこの仕事を?」
深い意味で聞いたわけではなかった。
この謙虚で底抜けに明るい女性に好意を感じたのは事実だが、祖父にとっては一般的な挨拶の延長程度の問いかけだった。
それが、無言で目を見開き、言葉を飲んだ真理を見て、祖父は何か大きな地雷を踏んだことを知った。
「今日子さんからは何も?」

「いや、何も聞いていません。すみません、何か立ち入ったことを聞いてしまったようだ。」
「いえ、そんなことはありませんが、今まで利用者さんのご家族からそんなふうに聞かれたことがなかったので。」
「そうですか。すみません、本当に。忘れてください!」

「いえ、聞いてください。星川さんには、お話ししていいような気がしますので。」
ああ、この人もまた、何か抱えているのだなと思う。

「娘を、亡くしました。」
そう切り出した真理を、祖父は見つめてよいものかどうか、わからなかった。
それでも、静かにまっすぐに見つめてくる真理の瞳から、祖父は目を離すことができなかった。

「元々私は、高齢者介護の仕事をしていました。夫とは職場結婚でした。忙しいのに安月給で、周囲にいるのはお年寄りばかりでしょう。でも忙しくって遊びに行く暇なんてないんです。だから出会いも何もないと思っていましたんですよ。でも他の施設から彼が異動してきたんです。同じ介護職同士、彼とは最初から気が合って。30歳を目前にウエディングドレスを着たんです。おじいちゃん、おばあちゃんたちが本当に祝福してくれて、嬉しくて。」
真理の唇が震える。

「幸運にも、私たちは1年も待たず、すぐに子どもを授かりました。 ヘルパーの仕事になんかならないのに、みなさんが来い来いって言ってくださるから、毎日のように職場に行って、たくさんの利用者さんにお腹を撫でていただいて。この子はきっと、すごく幸せな子になるだろうって思っていました。みんなに喜ばれて、祝われて、注目されて、私も夫も本当に待ち焦がれて。」
祖父の目に、せり出したお腹を抱えるように歩く真理に、あちこちからお腹に手を伸ばし話しかけるおじいちゃん、おばあちゃんたちの姿、それに笑顔で答える真理が見えるような気がした。

「小さく生んで大きく育てると言いますけれど、 生まれた娘は本当に小さかった。それでも、大きな産声を聞いて…。」
真理の言葉が途切れた。
今も祖父を見つめる瞳はうるんで、今にも大粒の涙がこぼれ落ちそうになっていた。






ポチッと応援お願いします
 


スミレがもみの木学園に戻る時間になった。
学園の門前で、隆三と握手をしてまたね!と言ったスミレに今日子と祖父が付き添った。
今日子が先に入り、真理を呼ぶよう言ったようだ。
そのまま、施設長室に入ってしまった。

祖父は、この敷地に入ると、いつもハッとする。
今日子が仕事の顔になるのだ。
さっきまで一緒に飯を食っていた、幼なじみ(?)の同級生・シスター今日子が、孫を預かってくれている巨大な養護施設の施設長の顔になる。姿勢や歩き方、話し方、声のトーンまで変化する。それは、ニコニコと穏やかにふわりとした印象だった高校生とは違う、自分の知らない今日子なのだ。 

ふと、「妻も、こんなふうに別の顔を持っていたのかな。」と祖父は思った。

スミレは慣れた様子で靴を履き替えると、「じゃあ、またね!」と手を振って、自分の部屋があるらしい方向へと走って行ってしまった。
その後姿には、微塵の未練もない。
べそをかきながらキティちゃんを抱えていた日のことを思い出すと、わずか4ヶ月ほどで、ずいぶん大人になったものだと、改めて驚かされた。

施設の玄関を見まわす。
子どもたちの手書きだと一目で分かるポスターが貼ってある。
「夏祭りにきてね!」
もう期日は過ぎている。
お兄さんやお姉さんがお店をしたの。
焼きそばやお好み焼き作ってくれた。
金魚すくいもしたんだよと、スミレが話してくれた縁日とは、この施設内でのお祭りだったようだ。

「来てやりたかったな。」
独り言を言った時、真理が向こうから小走りにやってきた。
「星川さん。わざわざ!」
祖父が礼を言う前に声をかけられ、祖父は少ししまったという気がして、目を泳がせた。
「とんでもありません。このたびは、スミレが…」
祖父が頭を下げる前にサッとスリッパを差し出すと、「あちらでお話ししましょう。」と、真理は祖父に礼を言わせなかった。

小さくて静かな部屋だった。
刑事ドラマで見る取調室程度の大きさなのだろう。
中庭に面した通常サイズのサッシ窓の向こうに、サンダルが置いてあるようだ。
大きな会議テーブル1つに、折りたたみではない椅子が6つ。
祖父が来るのを待ち構えていたように、ゆるく冷房がかかっており、除湿された部屋は快適で、思わずふぅと大きく息を吐き出した。

祖父を部屋に案内して、わずかに席を外した真理は、お盆にいかにも冷えた麦茶を用意して戻ってきた。
テーブルにまず置かれたコースターを、祖父は覗きこんだ。
細い紺と白の糸が、きれいな幾何学模様を浮き上がらせている。しかし、どこか手作りの雰囲気が漂っているのは均一というわけではない織り目から感じるようだ。

祖父がコースターに見入っているのに気付いた真理は、どこか自慢そうに説明した。
「ああ、これは、高等部の子どもたちが学校で織ってきたものですよ。」
「織って?織るって、ぱったん、ぱったんというあの機織りですか?」
「そうです。こんなに真っ直ぐに同じ幅で織れるようになるには、それなりの集中力と技術が必要なんです。私も一度やらせてもらったことがあるのですが、2〜3センチでもグネグネと幅が変わったり、詰まったり緩んだり。邪念がそのまま出ているようだと笑われてしまいましたよ。」
真理が明るく笑い飛ばす。

「ん?今、高等部と言われた?どこかの私学に機織り部があるんですか?」
「ああ。いえ、違います。高等部とは、養護学校の高等部ということです。」
「養護学校?」
「はい。もみの木学園には障害のあるお子さんたちも入所していることをご存知ですか?」
「聞いています。」
「このコースターは、知的障害があってご家庭では生活が困難なのでこちらに入所している16歳の男の子が織ったのですよ。」
祖父は目をみはった。






ポチッと応援お願いします



なんとも言えない屈託のない笑顔を浮かべるスミレを見て、祖父は自分の選択が正しかったと保証をもらったような気になった。
隆三や今日子には説明しなかったが、新規事業の責任者になったときの経緯は、祖父が言葉にした範囲で済むような単純なものではなかった。祖父も決断までにはあれこれと迷った。 

松重コンツェルンの中核を担うのは、まず松重物産と松重銀行のふたつ。かつての松重鉱山は、今では松重化学となって、三本柱の一翼を担っている。 もとが日本橋の豪商だった松重屋からきているので、あちらの製品をほしがるこちらに売ることで利益を上げる、欲しがる人がいれば商品は何でも扱うという柔軟かつエネルギッシュな体質はそのまま今でも松重物産の気質となっている。

三本柱から、電機や建設、観光などなど様々に分社して、世界に広がっている松重グループは「人の松重」と呼ばれ、代々優れた経営者を輩出してきた。顧客第一主義は徹底されていて、人格者の経営のもと、大した無理もなく拡張してきた。

だから物産は、ザ松重といっても過言ではない。学閥にこだわらず、できる人間を採用する方針は、他の財閥と一線を画していた。だから祖父の時代、就職できたというだけで、村を挙げて祝いの酒宴が設けられたなどという同期がいくらもいた。

とはいえ、大企業の宿命、生き残るのに熾烈な競争があるのは必定だ。採用される人数に対し、ポストはそう多くはない。そして、ポストに関心がない者が、生き残れる職場でもない。年々採用されるキレ者たちとしのぎを削り、自分の仕事と居場所を確保して行くのは並大抵のことではない。

言うまでもなく、経営者が人格者だからといって、社員がすべて人格者なわけでもない。いや、どんな人格者でも、どこかに虎や狼を飼っているものだ。使えないと思えば枯れた花より簡単に切り捨てるし、邪魔だと思えば容赦なく蹴落とす。顧客獲得の前に、各部署との過酷なほどの闘争がある。誰が仲間で誰が敵かわからないような巨大な渦の中で、視野とバランス感覚を失わずにポストを上げていけるのは、一握りの人間だけだ。

そうやって部長になった。先に行っている同期もいることを思えば、決して早いとは言えないが、遅いわけでもない。よくやってきたと思っている。次のポストは、取締役に限りなく近づく。
祖父もそれがどういう意味かはわかっている。部長で止まっていて取締役に登って行く気持ちがないということは、次の異動は出向だ。このまま本社で終わりたかったら、家庭や家族のことよりも、次のポストをめがけて権謀術数の中に身を投じていなくてはならない。

今回部下が成し遂げた大きな契約も、「部下が育った、よかったよかった」などと隠居のようなことを言っているようでは、この会社ではのし上がることはできないのだ。部下の成功は俺の腕、というくらい当たり前のことだ。

ほんの少し前まで、祖父…いや、新吉も、そのつもりでいた。同期から出遅れた分だけ一発逆転の大ばくちを打つつもりだったのだ。今回の契約は、その前提で動き始めたものだった。部を挙げての大成功を収めることがどうしても必要だった。しかし、同じ時期に、「部長・星川新吉」としてでは決して観ることのない世界を覗きこんでしまった。自分が出世競争に明け暮れている間に、家族に起きていたこと、世間に広がっているものを知ってしまった。

妻を亡くしたことも重なって、思い切り長期の休暇を取ってしまった。
そうして、知ってしまった。
知ってしまったら、もうこれ以上、それまでの暮らしを続ける気持ちになれなくなってしまったのだ。
燃え尽きたというのとも少し違う。
しかし、一度湿った導線に火がつくことはもうないだろう。
それは、出世レースの敗北を意味していた。
そもそも、家族にスキャンダルを抱えた時点で、自分の部長以後のレースは消えたのだ。

出向となったら、今と同じ仕事を続けるのは無理なことだった。
新吉は、物産の仕事をこよなく愛していた。国境などないかのように、あちらでほしがるものを、世界中で探してきて売る。優秀な部下を従え、黒のアタッシュケースひとつで国際線に飛び乗る自分を、仕事を、契約が成立した時の顧客の笑顔を、この上なく愛してきたのだ。役職についてからも、新吉は自ら動いて契約の席に立った。そこから離れて、モチベーションを維持できるとは思えなかった。

スミレを育てることでさえ、物産での仕事の魅力には勝てなかったのだ。

しかし、スミレが長野に行ってしまってから、祖父の心は大きく揺らいだ。
仲間内で出世にしのぎを削ることに何の意味があるのだろうか。
そこに意義を見いだせなくなったことは認められる。
ただ、だからといって出向先での仕事に意義が見出せるとは思えない。
しかし、食っていかなくてはならないのだ。

逡巡の時だったのだ、新規事業を任せたいとの話が来たのは。
しかも、なぜかわからないが、会長のお声がかりだという。
なにもかも、あまりにも都合のよい話だった。
失敗したらトップとしての自分の責任かと思うと、門外漢だけにしり込みしたくなる。
やめたほうがいいんじゃないかと、自分の中の誰かが言いもする。
しかし、飛び込んでみるしかあるまい、と思った。
今度は、もう少し人間らしく、ゆっくり周りの風景を見まわしながら、お日様の温度を感じながら働こう。

これまで血が流れても離さなかった空中ブランコの横棒を手放した。
ストンと着地した。
「部長・星川新吉」ではなく、「祖父」であることも一緒に生きてみよう。
今度は、重力に負けないように背中を伸ばして、地を踏みしめて歩くのだ。のんびりね。
力を抜いたら、骨と骨の継ぎ目に、隙間ができてそよ風が吹き抜けたような気がした。

時はまさにバブルの絶頂期。
祖父が物産に別れを告げたわずか後に、この物産にも狂風が吹き荒れることなど、誰も思いもしなかった頃だった。







ポチッと応援お願いします


 


「異動って?」
隆三はスミレと半分に分けたエビ一貫を前に置き、箸でつまもうとしたまま、祖父に詰め寄った。
「それが、奇跡のような話で。」
「もったいぶるな!早く言えって。」
「あのなぁ、安曇野に、異動になったんだよ。」
「はぁ?!だってお前、ブッサンには長野支店はないから、異動のしようがないって言っていたじゃないか。下請けがある会社でもなし、可能性はないって。」
「そうなんだ。だいたい、本社が一部長の家庭の事情を、年度末でもないのにあれこれするはずもなし、辞めるしかないと思っていたんだよ。ところが…」

「だから、早く言え!」
「今説明してるだろ。それが、会長のお声掛かりでなぁ。」
「会長?会長って、松重誠一郎氏のことか?」
「そうだ。先代がお亡くなりになってもう10年になるか、神と言われた先代に劣らず、現会長もお若いのに優れた人でなぁ。経営センスは先代以上かもしれないともっぱらの評判で。」
「その会長と知り合いなのか?」
「とんでもない。年始のパーティーで遠くから姿を見るくらいなものさ。松重コンツェルンに連なる企業がいくつあると思う?そりゃ、ブッサンは中心企業の一つだが、一部長がお知り合いなど、あり得んな。」
「じゃ、なんでそんな天上人のお声掛かりなんだ?」
「そこが分からない。分からんが、突然社長に呼ばれて言われたんだよ。会長が新規事業をお考えでいらっしゃる。君はその責任者に選ばれたって。」

「何だ?その新規事業って。」
「介護だ。具体的なことはまだ話せないが、松重ホームを立ち上げるんだ。」
「松重ホーム?」
「ああ。俺は会長からの名指しで、この新規事業の責任者になってしまった。あまりにも専門外、経験外、重責すぎるからお断りしようと思ったのだが・・・。」
「だが?」
「この安曇野で試験的にスタートする、ついては安曇野に引越せと言うんだよ。社宅として、隆ちゃんたちが住んでいるあの住宅街な、あそこに家を借りてくれるそうだ。」

「おい、新ちゃん、どんな魔法使った?」
「いや、皆目見当がつかん。こんな好都合な偶然があっていいものだろうか?」
「で、受けたんだな?」
「ああ。やってみようと思う。今の部署ではもう俺がいなくても大丈夫だしな。最後にひと花咲かせるのも面白い。それに、介護の世界にはスミレや今日子さんを通じて興味を持ったところだし、ミドリにも、この自然の中で過ごすのはとてもいいように思うんだ。」
「何しろ、俺たちの故郷だしな。」
「ああ。」

今日子がしみじみと言った。
「私たちは、本当に神様に愛されているのね。スミレちゃん、聞いていた?おじいちゃん、ここに引っ越してくるんだって!」

レーンに流れてくる皿を捕まえることに慣れてきたスミレは、厚焼き卵を捕まえたところだった。
大きな口をあけて、パクリと行く寸前に今日子に話しかけられ、そのまま動作が止まった。
「おじいちゃんが、引っ越し?」
「そうよ。おばちゃんちのそばのおうちに住むんだって。」

厚焼き卵が箸からスローモーションで落ちた。
真横に座っている祖父をのそりと見る。
「ほんと!」
祖父を見上げたスミレの顔が満面の笑みに包まれた。 






ポチッと応援お願いします 


9月。
スミレはもみの木学園からほど近い、松葉が丘小学校に転入、通学を始めることにした。
正確に言うと、転入の手続きは一学期中に済んでいた。
しかし、転学にあたってのカンファレンスで、学園と学校の担当者、養護教諭や学園に常駐している精神科医、心理士が一堂に会しての話し合いの結果、通学よりも学園での暮らしに慣れることが最優先されたのだ。

夏休みの終わりには、今日子から許可をもらった祖父が会いに来た。
その日、スミレは今日子にも久しぶりに会った。
隆三おじさんに会うのも、学園に入って以来だった。

今日子は以前のように家に行きましょうとは言わず、4人で回転寿司を食べに行くことにした。
海がない長野でどうしてお寿司?と祖父は笑ったが、隆三のたっての希望だった。

スミレの反応を見る方法を知ってしまった祖父は、スミレの一挙手一投足をじっと見つめた。
松本駅に現れた祖父を見ると、先に駅で待っていたスミレは今日子たちのそばを自分から離れて祖父に駆け寄った。
「おじいちゃん!!!」
抱きついてはこなかったが、祖父が抱き寄せると、じわりとしがみついてきた。
「スミレ、元気だったか?」
祖父が尋ねると、
「うん、元気!いろいろあったけどね。」
まるで大人のようなことを言う。その声が別人のようにはっきりと大きいことで、祖父はすぐに、この幼子が何かとても大きなものを乗り越えたのだと悟った。

隆三が回転寿司にこだわったのは、メニューに写真が必ずついているからだと、店に着いてからわかった。
スミレは写真を見ながら、これは何?こっちは何?と尋ねる。
しかし、せっかくの写真でマグロだハマチだコハダだと教えても、少しもピンと来ないらしい。
卵焼きだとか唐揚げだとかを食べたがるので、それがレーンを流れてくるのを待つのだと教えると、靴を脱ぎ、椅子の上に膝立ちになってレーンを覗いている。

「今日子さん。ありがとう。スミレがすごく変わったこと、よくわかるよ。」
祖父は頭を下げた。
カウンターではなく、テーブル席だったので、目の前に座っている今日子に、白髪が目立つようになった祖父のつむじが見えた。

「私ではなくてね、スミレちゃんが頑張ったの。それから、真理さん。」
「ああ、後でお礼を言えるだろうか。」
「ええ。スミレちゃんを送っていく時に、ゆっくり話せるわよ。」
スミレは外出許可をもらって出てきただけで、夕食前には園に帰る。

「あ、タコだ!あれ、タコでしょう?」
スミレの相手は隆三がしている。
「そうそう、あの白と紫が一緒についているのがタコだな。」
「おいしい?」
「う〜ん、おじさんは、いつ飲み込んでいいか分からないから、あまり好きじゃない。」
「へぇ。あ!あれは知ってる。エビだ!」
「正解。大きなエビだね。食べる?」
「うん、食べる!」
「じゃ、2つ乗っているから半分こにしようね。ほら、お皿を取って!」

「異動がね、決まったんだよ。」
祖父の言葉に、今日子と隆三が同時に祖父を覗きこんだ。
エビに夢中のスミレは、祖父の話が耳に入らなかった。






ポチッと応援お願いします 
 


その夜、かあさんは、暮らしている家に帰ってから、いつものようにすぐには部屋に引き取らず、リビングで人を待った。

「花亜様。お待たせをいたしました。」
「後藤。申し訳ありませんね、仕事があるのに呼びたてて。」
「なんの。ここは私の家でございますから、時間がくれば帰ってまいります。」
「それはそうだけれど…。」

後藤と呼ばれた男性は、かあさんと同じほどの年齢に見える。
いかにもフットワークの軽そうな、誠実そうな容貌をしている。 
かあさんの向かいのソファーに座った女性は、この男性にとてもよく似ている。
母親のようだ。

「それで、調べてくれましたか?」
「はい、花亜様。確かに、松重物産に長野支社はございません。本社の部長さんを異動させるような部署も見あたりません。そうでなくても出向は、本社の人間にとって致命的な話です。どちらにしても降格同様になってしまいます。」
「そうなのだけど。あれほどの人物を、残念だわ。」

「ただ…」
「何か?」
「はい。このたび旦那様は、新規事業をお考えのようで。」
「新規事業?また拡大するのね…。」
「拡大になりますかどうか。」
「今度は何を?」
「はい。旦那様は介護事業をお考えのようなのです。」
「介護?高齢者の?」

「今のところ、高齢者と限ってはいないようです。昨今の核家族化を考えれば、高齢者はもちろん、さまざまな事情で家族と暮らせない、しかし一人暮らしもままならないという人は増える一方だろうから、そういう方々に安心できるお住まいを提供する事業ということだそうで。」
「なるほど。お優しいお兄様らしいお考えね。」

「はい。それで、本格的に立ち上げる前に、どこか地方都市で実験的に着手したいとお考えの由。その中に…」
「その中に?」
「土地代、設置基準となる様々な法律、条例、行政のフットワークなどを勘案して、いくつかの候補地があるようですが、その中に安曇野市が入っているそうです。」
「まぁ!」
かあさんは膝を打った。
 
「では、お兄様に伝えて。新規事業の責任者にうってつけの人物をご推薦申し上げますと。」
「承知いたしました。」

「それから、後藤、これまで世話をかけました。家を出てからもう10年になるかしら。私も28になりました。」
「はい。私も同い年ですから存じ上げておりますとも。同じお屋敷の敷地内とは申せ、ご心配申し上げました。」
「後藤にもばあやにも本当に面倒をかけましたね。お母様もまさか私が今もこの家にいるとはご存知ないでしょう。」
「それはもう。お言葉通り、花亜様はここをお出になって行方が知れないと、奥様には申し上げております。胸が痛みますが…。」
「ふふふ。大してご心配の様子もなく、海外ですものね。」
「それは…。でも花亜様、突然何をおっしゃいます?」
 
「私、昨日結婚いたしました。」
「はあ?」
後藤親子の大声が音声多重で響く。

「ですから、私、昨日結婚いたしましたの。明日、その方の許へ引っ越します。今まで本当にありがとう。ばあや、あなたのことは一生忘れないわ!」
「あわ、あわ、あわわわ…」
ばあや、と呼ばれるには若すぎる女性は、口を漫画のようにパクパク動かすばかりで言葉が出てこない。
 
「か、花亜様、そのようなこと、旦那様にご相談もなく…」
「後藤。憲法第24条をご存じ?婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、と書いてあるわ。それに、お兄様は私の覚悟に反対なさったりはしないわ。」
「あの、それで、お相手は、やはり、あの?」
「そう。あの方。」

それまで、あわ、あわわを続けていた後藤の母が、かあさんに駆け寄り、椅子の前に膝をつくと、その白い両手を包むように握って言った。
「よくぞなさいました。花亜様。あなた様は必ずお幸せな家庭をお築きになります。ばあやが受け合いますよ。これからは、奥様としてしっかりとなさいませ!」

「か、母さん…」
自分が仕える令嬢と母とが同時に振り向いた
「ああ、女性とは、なんといつも思い切ったことを…」
ぐちぐちと言い続ける後藤を無視して、ばあやに向き直ると、かあさんは明るい声を出した。
「ね、ばあや。お屋敷最後の夜だから、今夜は一緒のベッドで寝てもいいでしょう?」 






ポチッと応援お願いします 


祖父とかあさん、オーナーの3人は、祖父が持参したお祝いのシャンパンをあけて、乾杯した。
細かな気泡が、グラスの底の中心から幾筋も立ち上る。
よく磨かれたグラスが、シャンパンの味を極上のものにした。
 
かあさんは、ミドリよりもさらに若く見える。
ここのオーナーは哲也のようにはならないだろうが、人間、途中でどうなるかは分かった物ではないと思う。
それだけに、祝える時に祝えることを大切にしてやりたいと、心から思った。
なんといっても、プロポーズの瞬間の立会人だからな。祖父は思い出し笑いにうごめく頬を微妙に引き締めた。

かあさんが、祖父の仕事のことをそれとなく尋ねるので、祖父は、今日部下が結んできた大きな契約があったこと、それがどれほど大変な道のりだったか、自分が仕事に没頭できる状況でなかったにも関わらず、それぞれが力を出し合ってくれたこと、部下たちが立派に成長したことを誇らしげに語った。そんな祖父を、かあさんは目を細めて見ている。

「若奥様がこんな話に興味を持つなんてね。」
祖父がからかうと、かあさんはコロコロと鈴が鳴るように笑って、
「からかわないでください。だって、ドキュメンタリードラマを観ているようで。いくらでも伺いたいくらいですわ!」
「でも、そろそろ失礼しないと。新婚さんの夜を邪魔するような野暮はしたくないからね。」
お互いの顔を見合わせている2人の前に、そっと1万円札を置く。

「あ、今、お釣りを!」
素早く立ち上がった祖父は、もう扉に手をかけている。
「釣りはとっておいてと言いたいところだが、君たちは受け取ってくれなさそうだから、次回の食事代にしてもらおうか。かあさん、スミレみたいに特別チケットをくれるか?

いや、本当は長野のスミレのそばにミドリと共に引っ越して、一緒に暮らしたいのだが、今の会社ではなかなかそんなわがままも言えない。あと何年かで定年だから、それまで辛抱するしかない。だからまた、寄せてもらうよ。じゃ!」
祖父はカッコよく手を振って、店を出ていくつもりだった。

ガチャッ。ドンッ。
扉が大きな音を立てる。開く前提で一歩踏み出した祖父は、派手な音を立てて、閉まったままの扉に額から激突した。
「うわっ!」
 
オーナーが両手を前に突き出しながら駆けよった。
「す、すみません!もう他のお客様はお断りしようと、先程鍵を閉めたんです!」
「な、そうだったのか。なんと…みっともないことは何ひとつしたくない主義なんですがね。」
額をさすりながら言う祖父が笑いだすと、見ていた二人もつられてしまった。
3人は盛大に笑い合った。

血が出ていないか額を撫でた指を確認するのに気をとられている祖父はこの時、まさかこのシャンパンの夜が自分の人生の流れを変えるとは知る由もなかった。 






ポチッと応援お願いします 

このページのトップヘ