Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

2013年07月


入学式から1週間が過ぎた。
今日から給食が始まる。
祖父は給食開始を機に、仕事復帰することにした。

いまやスミレはまったく手がかからなかった。
着るものも持ち物も、祖父がそろえたものに文句ひとつ言わない。
食べるものも同じだ。

学校の様子を聞くのは一緒に風呂に入る時だ。
まだ授業らしい授業は始まっていないようだ。
学校の中を探検したとか、体育館へ行ったとか、体操着に着替える時のやりかたを教わったとか、そんなことばかりだ。

登校は近所の子どもたちが集まって、集団登校する。
何軒か向こうに住んでいる6年生の女の子は面倒見がよいと評判らしい。
生前の妻からの情報だ。

帰宅はスミレひとりになるが、複雑な道のりでもないし、人気の少ない場所を通るわけでもない。
早く友達を作って、一緒に帰って来てくれればより安心だが…。

おやつを戸棚にしまったと説明しながら、祖父は明日が来なければよいのにと思っている。
これ以上会社を休むわけにもいかない。
しかし、手がかからない子だからといって、手をかけなくてもよいということにはならない。
それが、妻が亡くなって以来、スミレとふたりで過ごしてきた彼なりの結論だった。

スミレはとなりの布団ですやすやと寝息を立てているが、祖父は少しも寝付けない。

この子は幼いときから…今だって十分幼いのだが…傷つき続けてきている。
人一倍、愛情が必要な子どもなのだ。
小学校も安心できない。大勢の中にはいじめっ子もいるだろうし、苦手な勉強もあるだろう。 
そんな時に、この子が頼るのは俺しかいないじゃないか。

その俺が、会社だ仕事だと忙しくしていたら、この子はどうしたらよいのだろう。
父親に死に別れ、母親は病んで入院、祖母も亡くなって、その上、最後の頼みの綱である俺まで自分を大事に思ってくれないのかと感じたら、この子はどうなってしまうのだろう。

けれども、祖父の思考はそこでいつも止まってしまう。
分かっているのだ。しかし、だからといって俺は、仕事をやめ、家庭人として孫娘を育てることだけに専念して生きていけるのだろうか?

何度も想像してみるのだが、それはとても重要ではあるけれども味気なく、物足りない生活に感じた。
仕事に情熱を傾けてきた女性が、家庭に入ってくれとプロポーズされた時もこんな気持ちを味わうのだろうかと思い当たって、苦笑いを浮かべる。

仮に、家庭人になったとしてだ。
スミレがだんだん大きくなったら、一緒にブラジャーを買いに行けるのか?生理の手当てなど知らないぞ。そんなこともできないで、家庭人になろうと言う方がおこがましいのではないか?

祖父がどれほど悩んでも、時計は止まってくれない。
一夜はあっけなく明けてしまった。
久しぶりにビジネスバッグを持った祖父は、まだ朝食をとっている最中のスミレに、もう何十回目かの注意事項を言って聞かせて家を出た。






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待つというほどもなく、スミレのプレートが先にやってきた。
白い皿はオムレツの皿ではない。大きめのグラタン皿だ。
なるほど、これなら縁が持ち上がっているので、子どもでもこぼさずにすくいやすい。
その真ん中に、プリンほどの大きさのオムレツが載っている。
カラメルに見立てたようなケチャップがかわいらしい。

「あ!かたつむり!!」
スミレが珍しく大きな声を出した。
オムレツの隣に、どう細工したものか、トマトの背中にキュウリの体をしたカタツムリが添えられていた。
「さ、どうぞ。召しあがってみてください。」
「いただきます!」
祖父は、スミレの眼がこんなにキラキラするのを初めて見るような気がした。

「おいしい〜!おじいちゃん、オムレツ、おいしいねぇ!!」
「そうか。よかったね。」
皿の上からプリンもカタツムリもいなくなるのを見計らっていたかのように、かあさんが近づいてきた。
「スミレさん、いかがでしたか?」
「おいしい!すごく。もう食べちゃった!」
「あら、本当ですね。お口に合ってよかったです。ところでスミレさん、入学式のお祝いに、これを差し上げます。」
かあさんがスミレに手渡したのは、ワインのコルクだ。
祖父は意外な展開を怪訝な思いで見守った。
この女性は何をするのだろう? 

「これ、何?」
「これは、スミレさんだけが使える特別チケットです。」
「特別チケット?」
「はい。これをあのお兄さんに渡すと、オムレツをもう一つ作ってくれます。今すぐ使ってもいいし、また今度いらした時に使ってもいいです。ほら、ここにスミレさんのお名前を書いておきましたから。」
「そうなの?ありがとう、お姉さん。」

コルクを受け取ったスミレはコトンと音を立てて席を立つと、厨房に向かって歩き出した。
祖父とかあさんは、その後ろ姿を黙って見ていた。
「あの、お兄さん…」
すみれが背伸びをして厨房を覗いている。
「はい、なんでしょう、お客様。」
「あのね、これ!もうひとつ、オムレツ食べたいんだけど…」
「はい、はい。かしこまりました。私からもひとつ、うかがってもいいですか?」
「?」
「お客様は、スヌーピーとキティちゃん、どちらがお好きですか?」
「キティちゃん!」
「わかりました。では、お待ちください。」

預かったばかりのコルクを、一生懸命腕を伸ばしてオーナーに手渡すと、スミレはスキップでもするのではないかと思うような足取りで席にもどってきた。
「今、使っちゃった。」
「はい。ご利用ありがとうございます。」
かあさんはスミレを席に座らせると、静かに下がっていった。

間もなく戻ってきた手には、新たな白いグラタン皿が載っている。
「お待たせいたしました。」
テーブルに置かれた皿を、祖父とスミレが同時に覗きこむ。
そこには、先ほどよりひと回り小さなオムレツと、トマトを上手にカットして、マヨネーズで絵を描いて作ったキティちゃんが添えられていた。
「おじいちゃん、キティちゃんだ!かわいい!かわいいねぇ。」
はしゃいでいるが、笑い声はやはり聞えない。

促されもせずにスプーンを握り、やわらかな湯気の立つオムレツを頬張り始めた孫娘を見て、祖父は考えた。
世間には、この苦しみ深い子どもを、いとも簡単に喜ばせることができる人たちがいるのだ。
自分が抱え込んでしまうことの方が、この子にとって不幸なのかもしれない。

「おじいちゃん。あのね…。」
2皿目のオムレツもきれいに平らげ、ミルクを飲み干し、デザートのアイスクリームを食べながら、珍しくスミレから話しかけてきた。
祖父は、声を出さずにスミレの顔を見た。
なんだい?と答えてしまったら、きっとこの子は言葉を飲み込んでしまう。
しばらくためらった後、スミレは小さな小さな声で言った。
「あのね…おいしかった。ありがとう。」
「また、来ような。」
「うん。」

俺がこの子にしてやれることは何なのか。
不幸の原因を究明する命題よりも重要な課題に、今すぐ取り組まねばならないと、祖父は切実に思った。






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その洋食屋は「やじろべえ」といった。
居酒屋のような名前だが、実際はオムレツだのビーフシチューだのハンバーグだのが売りの店だ。
まだ30にもならないような若いオーナーがひとりで店を切りまわしていたが、不器用そうな接客とは裏腹に、料理がたいそううまい。
それほど客が押しかけるわけでもないが、枯れてもいない。
静かで手頃な店だった。

祖父の家からはゆっくり歩くと30分ほどかかるが、小学校からのほうが近い。
祖父はその店を、散歩の途中で偶然みつけた。
喉が渇いたし、腹も減ったし、何かちょっとと思ってふらりと立ち寄ったのが始まりだった。

食が細いスミレのことも、ちょっと相談したら、きっと喜ぶように拵えてくれるだろう。
「いらっしゃい!」
明るい声が今日はハモっている。

見ると、若くてとびきりの美人が笑顔でこちらを見ている。
どうやらアルバイトでも雇ったようだ。
「かあさん、注文をとってください。」
は?
祖父は首をかしげた。自分より年下のアルバイトに母さん?丁寧語?
「はい。お席はどちらになさいますか?お嬢さんはこちらの椅子のほうが座りやすいかもしれませんね。」
当たり前のようにスミレを先に座らせてくれた配慮に、祖父は感心した。

「今日はこの子の入学式でして。何か祝いの食事をと思ったのだが、この子は食が細い。あまり食べたいものも言わない子で。みつくろってやってほしいのだが…。」
祖父が小声で説明すると、笑顔で頷いたかあさんと呼ばれた女性は、スミレの脇に片膝をついた。

「かわいいお洋服ですね。とても似合っています。かわいいです。お名前は?」
「スミレです。」
スミレがためらいなく答えたことに、祖父は小さな意外を感じた。

「スミレさんはハンバーグとオムレツ、どちらがお好きですか?」
「オムレツって…?」
「ちょっと写りの悪い写真ですが、これです。この黄色いのは玉子焼きですよ。ハンバーグはこっち。」
「…オムレツ、きれい。」
「そうですよね。きれいな黄色ですよね。この膨らんだところには、ケチャップ味のご飯が入っているのですよ。」
「へぇ。食べたことない…」
「では、どうでしょう。スミレさんはオムレツが初めてのようなので、小さな小さなオムレツを作ってもらうというのは。お口に合わなかったら、無理に食べなくても大丈夫ですよ。」
「うん。」
「では、トマトとキュウリはどちらがお好きですか?」
「どっちも、食べられる。」
「そうですか!それはステキですね。あとは、飲み物です。ミルクとオレンジジュース、どちらがいいですか?」
「ミルク!」
「コーラもありますが、ミルクの方がいいですか?」
「うん、ミルクがいい!」
「承知いたしました。しばらくお待ちくださいね!」
かあさんは、祖父に目配せをする。祖父の注文もさっととると、厨房へ戻って行った。

祖父は感心を深くした。
亡き妻はいつも、スミレが何を食べたいか言えないと嘆いていた。
しかし、この初対面の女性は、見事にスミレの食べたいものを聞き出した。
何食べたい?と丸投げにするのでは出てこない要望も、選択肢を用意すれば答えやすくなる。
分からないなら写真を見せる。
そして、選択に慣れると次第に積極性が出てくる。
こんなこと、営業の世界では当たり前ではないか。
当たり前すぎて、孫にも当てはまるとは考えたことがなかった。







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答えが出せぬまま、祖父はスミレの入学式を迎えた。
この日に着せるもの、持たせるものは、急死した妻がすでに準備万端そろえていた。
不安でしかたがない。
幼稚園にすら通わなかったのだ。
意思表示も、感情表現もうまくできないこの子が、集団の中でやっていけるとはどうしても思えない。
しかし、その不安を誰にどう相談すればよいのか、仕事一辺倒で生きてきた彼は思いつきもしなかった。

「スミレ。小学校、行きたいか?」
祖父は尋ねてみた。尋ねて、どんな答えを期待するのかと、自問自答した。けれども、聞かずにはいられない。
スミレは祖父の顔をチラリと見上げ、視線を逸らすと小首をかしげて何か考えている。
「いく。」
小さな声で最小限の答え。
それでも、救われる気がする。

いや、これは自分勝手な甘えではないか。
ミドリのアパートの時もそうだった。
自分に都合がよいことを言われて飛びついた。
その結果はどうだった?
同じ過ちを繰り返すわけにはいかない。

とはいえ、他に選択肢があるわけでもない。
義務教育のスタートなのだ。
せめて無理強いして行かせるのはやめようと思ったに過ぎない。
スミレの「行く」という結論にすがるように、二人は手をつないで家を出た。

小学校が近づくにつれ、スミレの小さな手が、祖父の手に食い込むように強く握りしめてくる。
緊張しているのだ。
結局、幼稚園にも通わせられなかった。それが今になってこんなに重たく感じるなんて。
海外の大企業だろうと、業界の重鎮だろうと、必要であれば対等に渡り合えると自負している生え抜きの営業マンである祖父も、息苦しいほど緊張していた。

紹介されたスミレの担任教師は、まだ24歳だという。
この若い女性に、孫娘の複雑な状況を理解し支えることができるのだろうかと、心底不安に思う。
思った途端に気付いた。
ミドリと、同い年ではないか。
大学を出て、資格を持って、試験に受かった教師でさえ、預けるのにこれほど不安なのだ。
高2の終わりに不意に母親になり、そのまま育児を始めたミドリがどれほど頼りなかったか、今こそ分かった。
できるはずがなかったのだ。
本人が、いくらやろうと思っても。

体育館での入学式はつつがなく終わった。
教室とはこんなに小さかったか?と思う。
祖父はミドリの教室に入ったのも、入学式の時だけだったのを思い出す。
小さな机だと思った。小さな椅子だと思った。
そんなに昔の話ではない。記憶に曖昧さはなかった。

なのに、その机が、同級生たちよりふたまわり小さいスミレの前では大きく見える。椅子は高すぎるようだ。
小学校生活の初日はすべて保護者の前で進んでいく。
たちまち「さようなら」の時間になり、スミレは一目散に祖父にとりすがった。

周囲の若い保護者たちは、祖父を祖父だとは思わなかった。
ちょっと遅くに出来たお子さんなのですね、かわいくてしかたがないでしょうねと、実際に話しかけられもした。
事情を説明してもしかたがない。
曖昧に頷いて、学校を後にした。
正門に立てかけられた「入学式」の看板脇で写真を撮ることだけは忘れなかった。

とにかく、初日が終わった。
もうすぐ、会社に願い出た休暇も終わる。
まだ、男性に育児休暇は認められていない。介護休暇もない。
仮に認められたとしても、最大で子どもが6歳までのことだ。
小学校に入学した時点で、終わると言っていい。
それに、スミレは彼の子どもではない。孫だ。
有給は使い果たした。これ以上の休暇は、いくら一目置かれている職場といっても、わがままでしかなかった。

近所に頼りにできる親類もないし、あってもこの状況では頼りにくかった。
祖父は、途方に暮れる思いを隠して、スミレと入学祝いのご飯を食べに、小さな洋食屋を目指した。






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ミドリも哀れだが、それ以上に哀れなのはスミレだ。
物心も付かないうちから、両親の暴力を見続けたのだ。
この子自身は殴られなかったとミドリは言う。
しかし、実際に体に被害が及ばなければよいという問題ではない。
そうして、父親の死、母親の狂気を目の当たりにした。
さらにネグレクトだ。
それだけで終わらず、最後の頼みの綱だったろう祖母まで亡くしてしまった。

スミレは年齢の割に体が小さい。
女の子だから小柄なのだろうとこれまで気にもしなかった。
しかし、哲也も哲也の家族も、我が家も、みな背が高い。
小柄な遺伝子がそれほどあるとも思えない。

祖父がこの小柄な体に気付いたのは賢明だったと言える。
今ならば「愛情遮断性症候群」…虐待やネグレクト(育児放棄)が原因で、不安から成長ホルモンの分泌がスムーズに行なわれず、低身長、低体重になることは、どこの医師も保健師も知っている。が、比較的最近広く知られることになったものだ。

成長障害かと思ったらまず、この愛情遮断性症候群の可能性を疑ってみるようになったということは、それだけ世間に虐待やネグレクトが増えたということだろう。

そして、この子は声を出さずに笑うだけでなく、声を出さずに泣くのだ。
それに気付いたのは、この子にとっての祖母の葬儀の時だった。
棺にすがって、じっと祖母の顔を見つめている。
幼子に、人の死顔など見せてよいものかと、祖父は迷った。
しかし、この子にとって、大切な肉親であることにかわりはない。
最期の別れぐらいさせてやりたいと、妻のためにも思った。

あまり長いこと動かないので、葬儀の参列者は、その小さな背中に涙を禁じえない。
この家庭の秘密を、ひそひそと語り合う者もいる。
祖父は、スミレの背中にそっと手のひらを沿わせ、小さく声をかけた。
「さあ、おばあちゃんとお別れだよ。」
振り向いたスミレの顔は、涙でぐしょぐしょになっていた。
祖父が驚くほどに、ずっと前からスミレは泣いていたのだ。

祖父はスミレを片手に抱きあげた。
スミレは泣き続けている。
しかし、嗚咽一つあげない。

なんと悲しい泣き方をするのだろう。
前からこんなだったろうか…
いや、違う。
彼は思い出していた。ミドリが暴れるようになった頃から、この子はよく腹痛を訴えるようになった。痛いと言わずに丸まっているから、祖母はずいぶん心配した。けれども、祖母に気付いてもらい、抱きしめられるとワンワン泣きだした。「ごめんね、すぐに気付かなくて。痛かったね。」妻が声をかければかけるほど、泣きに泣いた。
そうだ、あの時は声を出して泣いていたではないか。

来月には小学校に行かせるのだ。
こんなに小さな、傷ついた子供に集団生活などできるのだろうか。
不安が黒雲のように押し寄せる。
しかし、この子だけは守らねば。

そのためにも、早く答えを出さなくてはならない。
いったい、なぜ、こんなことになってしまったのだ。
祖父は考え続けた。






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あまりにもあっけない最期だった。
祖母は居間の扉の外で、突然命の炎が燃え尽きた。
心筋梗塞だった。
平穏をこよなく愛し、あらゆる不穏からできるだけ逃げてきた彼女の心臓は度重なる衝撃に、もはや耐えることができなかったのだろうか。 

テレビに夢中になっていたスミレは、廊下で音もなく崩れ落ちた祖母の命が途切れたことに気付きもしなかった。
気付いたのは定時に帰ってきた祖父だった。
救急車を呼んだが、すでに遅いことは祖父にもわかっていた。
彼が愛した妻の死顔は、人生の最後に感じたものが痛みや苦しみではなかったろうかと心配する夫に話しかけるように、静かな安らぎを湛えていた。
「苦労をかけたな。」
つめたくなった額にそっと手を置くと、妻の唇が微笑んだようだった。


どこで、何を間違えたのだろう。
妻の葬儀を終え、さまざまな手続きを終え、遅れてやってくる弔問の人も途絶えたころ、祖父はスミレとふたりだけになった家の中で考え込むばかりだった。

幸せな家庭を築いたはずだった。
穏やかな毎日を送っていたはずだった。
何の不足もないと思っていた。
自分はよくやっている、妻もよくやっていると思っていた。
かわいい娘は頭もよく、進学校に進んで皆にうらやましがられた。
順風満帆を形にしたら我が家だろうと本気で思っていた。
それが、どうだ。

論理的思考をこよなく愛する祖父は、この命題に明快な解答をつけたいと思った。
人生、幸せと不幸せは半々だよなどという情緒的な結論は断じて受け入れられない。
どこかに、誰かの落ち度があったはずだ。

祖父の頭には、すぐに哲也が浮かんだ。
ひとり娘しか持たなかったから、サッカー部の主将だという哲也は好ましい息子になってくれるはずの青年だった。
娘との「間違い」は許しがたかったが、許そうと思った。
あいつが悪魔のように我が家に呪いをかけたのか。

だとしたら。
祖父はこの時に及んで、初めて気付いた。
だとしたら、ミドリはなぜ、その悪魔に好意を抱いたのだろうか。
愚かな娘ではなかったはずだ。なぜ、子どもができるような行為に及んだのか。
なぜ、それほどに溺れたのだろう。
襲われて仕方なく、とは聞いていない。

なぜ、その男の子どもを産もうと思ったのだろうか。
自分が高校すら卒業できなくなるというのに、なぜ。

どうして悪魔に殴られていると、言ってこなかったのだろうか。
何が彼女に相談をさせなかったのか。
俺たちは、それほど頼りない親だったのだろうか。

ふと耳に届いたテレビの中の笑い声に、彼は頭を上げた。
スミレがテレビの真正面に陣取って、その画面を見ている。
「スミレ」
なんとなく、呼んでみた。
声を出さずに笑っていたスミレが、その笑顔だけのまま振り向いた。






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スミレが退院したのは、2月の半ばを過ぎてからのことだった。
ひと月あまりも病院にいたことになる。 
体の元気を取り戻すにも少し時間がかかったが、それ以上に時間を要したのは、心の健康を取り戻すためだった。

ミドリは救急車で運ばれ、体調を確認された後、主治医がいる精神病院へ移送され、そのまま入院した。
主治医が激怒したのは言うまでもない。
自分が怒ったところでどうなるものでもないことは、医師もよくよく分かっていた。
しかし、この場合の怒りは消しようもなかった。
ミドリに対してではない。
祖父母に対する怒りだ。

離脱症状の危険性に対しては、繰り返し説明し、理解を得たと思っていた。
レボトミンは興奮が強いケースによく効く。
しかし、決められた分量を決められた時間にきちんきちんと飲んでいくことが大前提だ。
他の薬でも同じことだが、抗精神病薬は勝手に薬を減らしたりやめたりすると、強い反作用が出ることがある。
それを離脱症状という。
吐き気や不眠程度で済めばよいが、中には投薬前より激しい興奮や知覚障害を伴うこともある。
最も気がかりなのは、治療が進んでいた病気が再発することだ。

一時落ちついたらかといって、このような病状の娘に子どもを預けて二人暮らしをさせるとは何事か。
まして、言いなりになって1週間も連絡を絶つとは、どれほど愚かなのだろう。
この親は、娘や孫がかわいくはないのか。
よくしてやろう、また健康で幸せな時間を取り戻してやろうという気はないのだろうか。
なぜ一言、主治医の意見を聞こうと患者に言うことができなかったのか。

それでも、主治医の心に怒りの嵐が吹き荒れたのは、知らせを聞いたごく最初の、短い時間だけだった。
彼は思考のスイッチを切り替えた。
今と未来とに対処すること。それが自分の仕事だ。過去を裁くのは私の仕事ではない。
ミドリは、よい主治医を持っていたと言える。

祖父母の家にもどったスミレは、以前よりずっと口数が減っていた。
もともとおしゃべりな子どもではなかったが、無口というほとでもなかった。
それが、話しかけなければ自分から声を出すことがなくなっていた。

退院した翌日のことだった。
夕方のテレビは、少女が好きそうなアニメが流れている。
スミレはテレビの真正面に陣取って、じっと画面を見つめている。
祖母は晩ご飯のしたくをしながら、静かにテレビを見ているスミレの背中を見た。
ふと思い立ち、祖母は包丁を置くと、そっと廊下に出て、今の入り口のドアにはまったガラスから、気付かれないようにスミレの顔を見た。

スミレは笑っていた。
声を立てずに表情だけで笑っていた。

祖母は胸が潰れそうになった。
知らず知らずのうちに胸の前で、右の握りこぶしを左手で強く包んだ。
涙がこぼれてきて、頬を濡らし、顎を伝う。
息ができないほど、悲しかった。






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サイレンが聞えると、祖父はスミレを抱いたまま、はだしで外に飛び出した。
「スミレ、死なないでくれ。頼む、生きていてくれ。」
いくら揺さぶっても意識は戻らない。

救急隊員に簡単に事情を説明する。
運転席に戻った隊員は搬送先の病院を探し始める。
スミレにつきそう隊員は、テキパキと呼吸を確かめ、脈をはかり、応急処置を始めた。

祖父はスミレと一緒に救急車に乗り込んでから、ふとミドリはどうしようかと思った。あいつも、もう5日も飯を食っていないんだ。
「もうひとり、飢えている者がいます。乗せてください。」
救急車は、3人を乗せて病院に向い走りだした。


スミレは一命をとりとめた。
ミドリは危うく殺人犯になるところだったのだ。
しかし、責任能力があるかどうか。
ミドリも衰弱しており、入院となった。

病院には、警察がやってきた。
スミレの体のあざは、隠しようがなかった。
救急隊の証言もあり、捜査されることになったのは当然だった。
一歩間違えればスミレは命を落とすところだったのだ。

警察はスミレの意識が回復するのを待って、問いかけた。
「ママになにかされたのかな?」
「ううん。なにもないよ。ママは何もしてない。」
これで警察は確信した。
病院に付き添った祖父も、母親自身も否定している。
幼児虐待は、最初必ずこうして秘匿される。
時に子ども自身が、加害者である親を庇うことさえある。
警察はそれを知っていた。
だから、スミレや祖父が隠せば隠すほど、母親であるミドリは疑われることになった。

しかし、ミドリが抗精神病薬を飲んでいる状態であり、それが唐突に断薬され、離脱症状を呈していたことが予想された。
正当な判断が下せなかった可能性が指摘され、祖父母がスミレを引き取ることで、今回のことは立件されなかった。
それでも、ミドリとスミレの名は、児童相談所が知るところとなった。

祖父にとってそんなことはどうでもよかった。
否定したものの、ミドリがしたことは明らかだった。
罰せられてもしかたがないし、罰せられる状態でないことも事実だ。
「スミレ、生きていてくれて本当にありがとう。」
祖父は1週間ですっかりしぼんでしまった小さな手を両手で包み、深く下げた額に当てた。







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救急車の手配が終わると、祖父は腰が抜けたように立てなくなった。
しかし、スミレは決して手放さなかった。

「おまえ、そのテーブルの弁当、いつ買ったものだ?」
「………。」
「おまえもその弁当以来、何も食ってないのか?」
「………。」
「何をやっているんだ!なぜ連絡してこなかったんだ!!」

「スミレがお弁当食べないっていうからここに置いておいたのに、気がついたらなくなってた。」
ミドリの説明は答えになっていない。
しかし、スミレがここまで体調を崩した理由がわかった。
多分、生活環境が変わった疲れと緊張から、スミレは腹を壊したのだろう。夜中にトイレの場所がわからなかったのかもしれない。間に合わず、粗相をしてしまった。自分のところにいるときにも、時々あったと妻から聞いていた。

それを厳しく咎められ、飯を抜かれたものの、腹が減ったに違いない。
いくら真冬でも、暖房がきいた部屋の中に弁当を出しっぱなしにしておけば、腐るのは当然のことだ。
その弁当を、腹が空いたスミレは食べたのだろう。
そうして、また腹を壊した。
今度は本当に腹が痛くて痛くて、苦しみぬいたことだろう。
大人だってそんなことをしたら、トイレから出てこられなくなるに決まっている。
ミドリが言った、おもらしが止まらないとはそのことだったのだろう。
だからといって……

祖父はふと、恐ろしい考えにとらわれて、裸にバスタオルを巻いただけのスミレの、そのバスタオルをはがした。
スミレの腕とわき腹と腿に、青黒いあざが浮いていた。
「おまえ……。」
祖父は言葉を失った。
後悔しかない。己の愚かさを呪うしかできない。

救急車のサイレンが聞こえなければ、祖父は正気を保てなかったかもしれない。
ふと眼を転じると、妻がカレンダー式のポケットにきれいに整理したと言っていた薬が、引っ越しの日から一度も飲まれずに壁にかかっていた。






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祖父の眼に、この部屋を最後に出た時と同じように、こたつが映っている。
ミドリは玄関に向く方向からコタツに入ったまま、 頭をテーブルにつけている。
ドアを開けた音がしたろうに、動く様子はない。
スミレは、こたつの脇の座布団の上に、うつ伏せに横たわっていた。
こちらも、動く気配がない。

「ミドリ!スミレ!!」
叫びながら彼は靴をぬぐのももどかしく、部屋に飛び込んだ。
そのまま真っ直ぐ突き当たりの窓を思い切り開ける。
ふり向いて、ミドリの肩を揺さぶった。
「う、う…」
どうやら生きてはいるようだ。

「スミレ!スミレ!!」
うつ伏せのスミレを抱き起こした時、祖父は異臭の原因を理解した。
スミレの服が、体が、下の座布団が、汚物で汚れきっている。

祖父は抱きあげたスミレをそのまま風呂場に運んだ。
意識は戻らない。
シャワーを握り、自分が濡れるのも、出てくるのが水であることも構わずに、服を脱がせて…というより破るようにして、スミレを洗った。
風呂の床に胡坐をかいて座り、その膝の中にスミレを入れて、自分もろとも水をかぶった。
「スミレ、スミレ…すまない、すまない。」
祖父は泣きながらスミレを洗い続けた。

「だって、おもらしが止まらないんだもの。」
背後でミドリの声がした。
祖父がふり向くと、いつの間にかミドリが風呂の入り口にぐったりとだらしなく座っていた。
ミドリからも汗臭い異臭がする。

「何を言っているんだお前は!スミレは腹を壊したのだろう。お前、何をしていたんだ!」
落ちつかなくてはならない、と考える余裕はなかった。

「買い物に行って、お弁当を買ったのよ。」
どうやら1週間前のことのようだ。
「作ろうと思っていたんだけど、何だか疲れてしまったから、その日はいいかと思って。」
祖父はシャワーの水を止めた。
スミレの体が温かくて、水が冷たいことに気付いたのだ。

「そしたらこの子、お弁当を食べようとしないの。
だったら食べなくていいって言ったの。
腹が立って。
そのまま寝転んでいたらいつの間にか眠ってしまって。」
祖父は風呂の扉の脇に手を伸ばした。
祖母がすぐに使えるようにと置いたバスタオルがそのまま置かれていたからだ。

乾いて柔らかい薄桃色のバスタオルでスミレを包み、髪をごしごしと拭いた。
「朝になったら、この子、粗相をしていた。パンツの中にウンチしたの。お腹痛いとか言ったけど、もう小学校に行くのに、おもらしなんて恥ずかしいから叱ったの。シャワー浴びさせて、着換えさせた。罰として、ご飯は抜きにした。」
狂っている、と祖父は思った。
しかし、娘に構っている場合ではない。
自分の体から水が滴り落ちるのも忘れて、祖父はスミレを抱いたまま、電話に飛びつき、救急車を呼んだ。






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