Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

2013年07月


祖父は、シスター今日子の話しにじっと耳を傾けるしかなかった。
ああ、あの人はこのタイプかも知れないと思い当たる人はいくらでもいた。
何より、自分自身が当てはまる気がした。

「新ちゃん。子どもの心はね、6歳までの間はとても柔らかいの。
何でも吸い取るの。よいものも、そうでないものも。
だから、どこかで間違っても、どこかでそれを補うようなものを受け取れたら、比較的簡単に修正できるの。
臨界期って言葉、聞いたことないかな。
歩いたり、言葉を覚えたりするのには、もっとも適当な時期があるの。
それを越えても、できないわけじゃない。
でも、臨界期を越えた後はその前に比べると、ものすごく大きなエネルギーが必要なの。

スミレちゃんは、もう5歳と何ヶ月かでしょう?
すでに臨界期を迎えていると考えた方がいいわ。
ということはね、これまでに彼女が見たり聞いたり、体験したりしたことが彼女の心に巨大な穴を作ってしまっていると思った方がいいんじゃないかなって、私は思う。

心に穴を抱えたということはね、このまま成長していけば、さっき言ったみたいな、自分の心の穴埋めだけのために生きて行く、常に不安で緊張して、擦り切れるほど頑張って、なのに報われた気がしない、生きづらい人生を送る可能性が極めて高いってことなのよ。

新ちゃんはスミレちゃんを守ってあげたいと言う。
それはとても大事なことなの。
スミレちゃんにとってあなたは、最後の愛情の綱なんだから。
ずっとね、とことん愛してあげて。

でもね、そのあなたが仕事をしていて、スミレちゃんの思うようには傍にいられないのでしょう?
それに、既にスミレちゃんは、あなたに遠慮しているんじゃないかしら?」

シスター今日子の言う通りだった。
声を出して泣いたり笑ったりできなくなっているスミレ。
わがままひとつ言わず、手がかからないスミレ。
いつも家にじっといて、心配をかけないスミレ。
よく考えるまでもなく、5歳児なんてもっと落ち着かなくて身勝手で物知らずで傍若無人なものだろう。
そう、スミレをいじめた子どもたちのように。
 
「言ってくれ。シスター。俺はどうしたらいい?俺にできることは何だ?」
「まず、学校と話し合うことね。」
「話し合う?学校と!?」
「そう。今日起きたことを学校は知る義務がある。いじめの証拠となるものは全部見せた方がいいわ。それから、スミレちゃんの言葉も日時をつけてメモして。ひらがなが書けない話くらいからでいいから。」
「学校と話し合う気はなかったが…。わ、わかった。書類にまとめるのはお手の物だ。明日、担任に連絡するよ。」
「転校するにしたって、学校から書類もらわないといけないんだから、ここは冷静に対処するのよ。」
「え、転校?!」
「だって、スミレちゃんを今の場所から離れさせたいって言ったのはあなたでしょう?」
「転校、させてくれるのか!?本当か!??」

「おいおい、焦るな。勝手に喜ぶな。」
二人のやりとりをずっと聞いていた隆三が代わって話し出した。
「おまえ、今日、何曜日か気付いているか?」
「は?何だよ。水曜日だが。」
「じゃ、学校との話し合いは木・金の期間限定だ。がんばれよ。」
「お、おう。」
「で、土曜日は、こっちに遊びに来いよ。泊りがけで。」
「え?いいのか?」

「だって、スミレちゃんに会いたいじゃないの!」
受話器の少し離れたところから言ったらしい、シスター今日子の声がした。
「焦らない、焦らない。でも、手は抜くな。」と隆三。
「そうそう。こういうことは、冷静に、戦略的に、可及的速やかに!」と今日子。

祖父は、持つべきは友だと、心から思った。
小説のように非現実的な話を突然しても聞いてくれた。
言いにくいことでも、誤魔化さずに伝えてくれた。
言うだけでなく、今度は会いに来いと手を差し伸べてくれる。
このところ、自分ほど寂しくツイていない人間はいないのではないかと、肚の底が冷たくなるような気持ちでいたのだが、そう捨てたものではないのかもしれないと、力が湧いてくる気がしていた。






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それからね、こういうのはどう?
何でもしゃしゃり出てきて、自分の思い通りにしてしまう人。
一見、リーダーシップをとっているようだけれど、本物のリーダーと違うのは、自分の意見と違うことに決まってしまうと拗ねて、腹を立てること。
意地でも自分の意見に持っていこうとする。 
本物のリーダーなら、みんなで決めたことを自分の意思として統率できるんだけどね。
このタイプも、不幸な子ども時代を過ごしている可能性が高いわ。

さっき話した、親密な人間関係を回避する人の延長上にいると思えばわかりやすいかもしれないわね。
何かの都合で、どうしても一人ではできないことをしていると思ってみて。
そういう人が会議に出るとするでしょう?
すると、もう天性の才能を発揮して、ここぞという時に意見を出すの。そういう間合いを測るのは天才的!
そうすると、会議が雪崩をうつようにその人の意見通りになっていく。
それでいい時もあるんだけど、他の人がその意見に口を挟もうものならもう大変。

このタイプは、結果を自分でコントロールしておかないと安心できないのね。
相手はちょっとした感想とか、もっとよくなる可能性とかで発言しただけなのに、言われた本人は「批判された」「欠点を指摘された」と捉えてしまうの。そうして、心が波立って、平常心ではいられなくなってしまう。

とにかく、否定されて生きてきたことの証ね。
否定されていない時まで「否定されている」と感じて、なんとか批判を避けようと必死になってしまうの。
それで、結局ゴリ押しでも、相手を黙らせると、ようやく安心するの。
この人はね、状況を成り行きに任せるのが怖いのよ。
無抵抗に傷つけられた子ども時代の経験から、知らないうちに二度とあんな痛い経験はしないよう、状況をコントロールしておこうと動いてしまうのね。

問題は周囲の接し方ではないから、まわりが接し方を変えてくれても結果は同じ。
だんだん、周囲の人はこの人に意見を言わなくなるわ。
するとますますその人は調子に乗って、コントロールを強める。

このタイプが決定的に失敗するのは、責任をとらなければならない事態が起きた時よ。
状況をコントロールしておくことで、自分が認められていると安心するために頑張っているだけだから、結果に責任を持とうという気持ちが薄いの。
責任を取るときって失敗した時でしょう?
失敗が許せないのよ。失敗したら周囲に拒絶されると思うから、そんな原因は許せない。
だから、責任逃れをするの。

見え透いた嘘でも平気でつくわ。
人の手柄を盗むのも平気だけど、人に責任を押しつけるのも平気。
誰だって一緒に働きたくないでしょう?こういう人。
だから、いつの間にか煙たがられて、あんなに頑張ったのに窓際族?とかね。
でもね、この人も、発端を探ったら、この人のせいではないのよ。
そう思うと、簡単に責められないと思わない?


これだけではないわ。
子どもの頃に愛されるはずの人から愛されなかった期間が長ければ長いほど、ひどい仕打ちを受けていればいるほど、事態は深刻になる。

不安で不安で、愛情がほしいのに、人といるのが怖い。一緒にいられない。
一緒にいられないけど、さびしくてさびしくて、振り向いてほしくて、意地悪をする、盗む、嘘をつく、叱られようとする。どんな手でも使って、注目を引けるように状況をコントロールするの。
でも、叱られると愛されていないんだと思うから、また傷つく。
まるで自分で自分の傷をほじくり返すみたいに。
相手が優しくしてくれても信じられない。
今優しくても、いずれは捨てて行くんだろうと思うから、気を許せない。
不安すぎて、自分から相手を利用するような、傷つけるようなことをしてしまうの。
何度もしつこく愛情を確認しようとしたり、ビクついているくせにわがまま言ったり。
心はもう大混乱よ。
恋人ができたら普通ハッピーでしょ?
でも、ここまで混乱してしまうと、恋人ができることは最大のハッピーで最大の不幸なの。
だって、最も愛しい人に、いつ裏切られるかカウントダウンしてしまうんだもの、心が、勝手に!
相手のイヤなところばかり探してしまうんだもの、心が、勝手に!!
そんなグチャグチャした自分が嫌になって、最後は死にたくなってしまうのよ。」






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「いい?よく聞いて。
人生最大の不幸はね、生まれた瞬間から6歳までの間に親から愛されなかった記憶を持つことなの。
もしも事情で最初から親がいないなら、他の誰でもいい。
とにかく、この人と思う誰か1人でいい。
徹底的に愛されて、その愛を伝えられていれば、その子は人生何があっても強く生きていけるようになるの。
その時もらった愛・・・安心感とか、守られているという実感とか、注目されているという自信とか、失敗しても嫌われないという保証とか、自分って好かれるんだなという経験のことなんだけどね・・・それが、原動力になって、人は成長して、強くなれるものなの。

でも、この6年間で親からも誰からも愛されなかったり、愛してくれる人が次々に変わったりする経験をしてしまうと、その子は心に大きな穴が空いてしまうのよ。
その穴からは不安や不信や疑惑や、自信のなさや、自暴自棄しか生まれない。
そういう子はね、残りの人生をその穴を埋めることだけのために生きなければならなくなるの。

新ちゃんの周りにいない?とにかく不安だらけの人。
何をするにしてもしないにしても、どうしよう、どうしようって悪いことばかり考えてしまって何もできない。
人目を気にして、自分が人からどう思われているか、そればかり気になって、一番よく思われるにはどうしたらいいかとばかり考えて、前に進めないの。
必死で人に気に入られようとするから、自分はいつも努力しているんですって強く主張したり、だからいろいろ配慮してもらって当たり前ですって言ったり、思っていたりしてしまうの。頑張りすぎた結果ね。
その人のそばにいると何だかこっちが悪いからその人がうまくいかないような気持ちにさせられてしまうわ。
罪悪感を持たされちゃう。
このタイプの人はね、心に空いた穴を、誰かに埋めてもらいたくて、距離が近くなるとまとわりついてしまうのね。
何かしてもらうために、本当に必死に尽くすのよ。なのに、やればやるほど鬱陶しがられて嫌われてしまうの。
切ないわね。

もしも思い当たる人がいたら、今度、子どもの頃のことを聞いてごらんなさい。
親御さんとの関係、きっとうまくいっていないから。親の夫婦仲が悪かったとか、しつけに厳しすぎたとか、そういう話が出てくるわよ。


それから、人間関係を避ける人っていないかしら?
どちらかというと、上司を思い浮かべた方が見つけやすいかもしれないわね。
家庭より仕事って人が多いから、出世するのよ、途中までは。

このタイプの人が上司になると、部下とか取引先の欠点ばかり目について、厳しいことばかり言うの。
自分は人一倍仕事に努力してきたという自負が強いから、なおさらなんだけど、そんなことを言われたら相手がどう思うか?って想像する力が乏しい面があるの。

ともかく、充分な距離を保って、趣味とかでたまに会う程度ならとてもうまくやれるのに、上司部下とか、あれこれ綿密な相談が必要な取引とか、とりわけ恋人とか家族とかいう親密な関係になると、もう全然うまくいかない。
思い当たる人がいたら、その人にも子どもの頃のことを聞いてごらんなさい。

こういうタイプの人はね、子どもの頃の傷が痛すぎて、もう誰も信じることができなくなってしまっているの。
また捨てられる、どうせ裏切られるとしか考えられないから、親密にはなれないの。
いえ、考えると言うのは違うわね。人とはそういうものだとしか見えないの。

だからね、自分の心理構造の特性に自覚がないのね。頭のいい人が多い気がする。人間関係が人とどうも違う自分を分析して、自分は孤独を愛するのだとか、自由が好きなのだとか理解していることが多いわ。それで、大切な孤独や自由を守るために、自分の側で負荷をかけてくる人を遠ざけようとするのは当然だって思うのね。

実際、こういう人の目には、近寄ってきた相手って、自分にまた穴を空けるかもしれない危険人物なわけだから、よく見えるはずがないの。
「だらしない」「いい加減だ」「こちらの気持ちがわからない人だ」というふうにしか、相手が見えないのね。第三者が見ると、ぜんぜんそんなでなくても。かえって思いやりにあふれていればいるほど、ひどいひとに見えてしまうの!
言われる方は、自分の誠意が伝わらないばかりか、ひどいヤツだと言われるんだから、たまったもんじゃないわ。離れて行くのは当然よね。

それに、このタイプの人は、自分の感情を感じるのが怖いの。
そりゃそうよ。感じてしまうと、孤独とか寂しさとか切なさとかやりきれなさとか恨みとか憎悪とか、そんなものが穴の中から吹き出してきて止まらなくなるのよ。
だから、最初から感じないように、感情に蓋をするの。
結果として、理屈っぽくなる上に、自分の意見だけが正しいと主張して譲ってくれない。
そうなると、上司として部下をまとめるには、難しい面があるの、わかるでしょう?

織田信長みたいに、ある時部下たちが結託して追い落としを謀られるみたいな下剋上を起こされるのは、こういうタイプなんじゃないかしら。
でも、遡って考えると、そんな目に合うような言動をしてしまうのは、その人自身のせいではないのよ。
ほんと、切ないわね。






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「すまなかったな。妻が死んだ時も知らせなかった。何か、必死でな。」
そう話を締めくくった祖父は、佐々木夫妻のどちらかが声を出す前に、もう一度大きく息を吸い込んでから話し出した。

「隆ちゃん、シスター、たのむ。助けてくれ。俺はいま、どうしたらいいか分からないんだ。でも、これだけは決まっている。スミレにはもう二度と悲しい思いはさせたくない。そのためなら、俺は何だってす…」
するつもりだよと祖父が言う前に、その言葉をさえぎるようにシスターの声が受話器から響いた。

「それは違うわ!」
人の話の腰を折るなど、珍しいこともあるものだと、隆三は今日子の思いつめたような厳しい横顔を見つめた。家では見せない顔だった。今日子は仕事の顔になったと、隆三は思った。

「あのね、新ちゃん。思い違いをしてはいけないわ。スミレちゃんはね、これから一生悲しい思いをするのよ。それは防げないの。」
「いや、俺が何としてでも守ってやりたい。」
「気持ちはわかるわ。でも、考えてみて。スミレちゃんだってもう少し大きくなれば、必ずなぜ父親は自殺したのかと考えるわ。なぜ母親は病んだのかと考えるに決まっている。それだけだって、十分に悲しいでしょう?自分が生まれたせいなのか?って疑問はぬぐい去ることはできないのよ。ちがう?」
「それは…。でも、だからといって、今いじめられるなら、そこから逃がしてやりたい。周りの子が成長するのを待つなんて、できないよ。」
「それもわかるわ。いじめられろと言っているのではないの。でもね、守ってあげるだけではダメなの。逃げるだけでもダメなのよ。」
「じゃぁ、どうしたらいいんだ?」

シスター今日子は次の答えを言う前に、ゆっくりと息を吐き出すと、受話器を持ったまま姿勢を正した。
「私は、スミレちゃんをただ守るためだとか逃がすためだとかには、何も協力できないわ。でもね、彼女がどんな悲しみにも負けない強さを身につけていくための協力なら、できるかもしれない。」

祖父は考え込んだ。
どんな悲しみにも負けない強さ。
スミレは一生悲しみ続ける。
ただ守られるだけではダメ?逃げてはダメ?
それはもっと大人になってからでもいいのではないか?

「強さを身につけるなんて、もっと大人になってからでもいいんじゃないかって考えているんじゃない?だとしたら、それって大間違いよ。」
大間違い?シスター今日子って、こんなにビシバシと物事を突きつけてくるような人だっけ?
「どうして大間違いなんだ?」

シスター今日子は、とても大切なことを教えてくれた。






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佐々木夫妻から転居のハガキをもらった時、すでにミドリの家庭が崩壊していたにもかかわらず、祖父は「児童養護施設」という単語に何の感慨も持たなかった。結婚後も長く小学校で先生をしていたはずのシスター今日子は、数年前に県教育委員会に異動したと聞いた気がする。

児童養護施設が何をしているところか、実際のところ、祖父は何も分かってはいなかった。でも、何か子どものことを守ってくれそうな、そういうプロが集まっているような印象だけが頼りだった。

「よし、よし。」
ハガキに電話番号が書いてあることを確認し、祖父は思わず声を出した。
壁時計に目をやると、20時を指している。
一瞬ためらったが、祖父はスミレの寝顔をもう一度覗き、すぐには起きそうにないことを確かめてから、玄関脇に置いてある電話へと歩いて行った。


いくつかのコールの後、電話に出たのは、自分と同年代の男性の声だった。
「佐々木さんのお宅ですか?」
自分の声を聞きながら、祖父はぎこちなく尋ねる。
「はい。佐々木です。」
「あの、東京の星川ですが。」
「え?星川?新ちゃんか?」
「そうだよ、隆ちゃん。」
「いやぁ、驚いた。どうした?久しぶりだなぁ!何年ぶりだ?」
「そうだな、あの同窓会以来だから、7年か、8年か…」

ひとしきり挨拶を交わした後、祖父は用件を切り出した。
「隆ちゃん、今、時間あるか?聞いてほしいことがあるんだ。今日子さんは傍にいるか?」
「いるいる。晩飯の片づけをしてるが、呼ぶか?」
「ああ、頼む。」
おおい、シスター、隆ちゃんから電話だよと、ふざけた声が聞こえてくる。
「今来るよ。」
「おまえの家の電話は、新しいのか?」
「ほ?ああ、新築だからな。買い替えてやったばかりだ。」
「では、俺の声をオープンにしてくれ。できるか?今日子さんと一緒に聞いてほしい。」
「あ、ああ。わかった。」
「長くなるぞ。いいか?」
「いいに決まってるだろう。好きなだけ話せよ。」

祖父は語り始めた。
ミドリが高校在学中に妊娠したこと。
父親であった哲也とはちゃんと結婚し、子育てをしたこと。
何が理由かわからないが、哲也が家庭内暴力をふるったこと。
それを自分たちは気付けなかったこと。
哲也の自殺。
哲也の両親の失踪。
ミドリの精神錯乱とネグレクト。
妻の死。
スミレの小学校入学といじめ。

最初は相槌を打ちながら聞いていた佐々木夫妻は、途中から無言になった。
それでも、全身を耳にして、受話器から流れ出る声に聞き入った。






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シスター今日子は、祖父の高校時代の同級生だ。
シスターといっても聖職者なのではない。あだ名だ。
祖父は少し前に読んだはずのハガキを探した。
あれは、ええっと…そうだ。書斎だ。

食べかけの玉子サンドを口に押し込み、祖父は書斎に向かった。

机の上に投げ出したままだったので、そのハガキはすぐに見つかった。
差出人は佐々木隆三となっている。隆三とも高校の同級生だ。消印を見ると、妻が亡くなる1週間ほど前だ。
裏返すと、ごく近くだが引っ越して住所が変わったとの挨拶が印字してある。在宅で仕事ができるようになったので、思い切って広い仕事部屋を手に入れたと、手書きが添えてある。

手書きは、こう締めくくられている。
「妻は昨年春から児童養護施設の施設長になった。忙しそうだが、元気にしているよ。」


ハガキを手に、祖父はスミレの傍にもどった。
長野県安曇野市と書いた住所を見ていると、祖父は遠い思い出に引き込まれていった。

詰襟とセーラー服の高校生だった自分を、隆三は「新ちゃん」と呼んだ。新吉という、時代劇に出てきそうな名前がいまひとつ好きになれずにいたが、隆三はおかまいなしだった。お返しに、祖父は隆三を「隆ちゃん」と呼んだ。家が隣同士だったこともあり、新ちゃん・隆ちゃんは小学校から高校までずっと同じだった。典型的な幼馴染だ。

大正時代に創立された高校は緑に囲まれ、静かで活気に溢れていた。
勉学に友情にスポーツに明け暮れた毎日に、ある日チョウチョが舞い込んできた。
それがシスター今日子だ。

2年の春、父親の転勤で東京から転校してきた彼女を、新吉と隆三の担任はこう言って紹介した。「転校生を紹介する。伊那今日子さんだ。転入試験をすべて100点で突破した秀才だぞ。少しは見習え!」

可憐な見た目に似ず、ガリ勉の嫌味なヤツかとクラスの空気は一気に反抗の風をはらんだが、そんなものは3日と吹き続けることができなかった。今日子は、とにかく優しくつつましやかで、どこかそそっかしく愛嬌があって、男だろうと女だろうと、好きにならずにはいられないような女の子だった。

長い髪をおさげにして、教室にあった鉢植えに水をやって、葉っぱに何事か話しかけながらクスクスと笑う彼女に、いつの間にか「シスター」とあだ名がついた。シスター今日子は転入生であったことなど忘れられたかのように皆の中に溶け込んでいった。

新吉も隆三も、マドンナならぬシスターに恋をした。
とはいえ、高校2年から後など、猛ダッシュで過ぎて行く。シスターは誰の手にも落ちることなく高校を卒業し、東京の教員養成系国立大学に進学した。
新吉・隆三もそれぞれ東京の大学に進んだ。上京した当初は何かと言えば二人寄ってはああだこうだと話してもいたが、それぞれの仲間と居場所ができるにつれ、少しずつ会うまでの時間が延び、一人立ちしていった。

就職してからはなおさら、忘れているわけではないけれども、連絡をとることもない期間が続いた。

そんなある日、封書が届いた。
いつもと違う切手と厚みから一目でわかる結婚式の招待状だ。
封書を裏返して、目が瞬きを忘れた。
認めたくはないが、どう考えても新郎新婦の名前を書く場所に、こう書かれていたからだ。
「佐々木隆三・伊那今日子」

えええええっ!
あいつら、いつの間にぃ!
思わず本気で大声を出し、玄関で腰を抜かしたことを、今でも忘れない。






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スミレは泣き寝入りしてしまった。
晩ご飯だよと起こすべきか、祖父は迷ったが、そのまま寝かしておくことにした。
でも、目覚めたらすぐ食べられるように、何か作っておこう。
祖父は夕食には不似合いだが、玉子サンドを作り始めた。

ひと組の布団をリビングに敷いた。
これなら、キッチンからもスミレの寝顔が見える。
彼女が目覚めた時にすぐ、おじいちゃんがいると安心してほしかった。
今夜は添い寝のつもりだ。

考えることが山ほどある。
学校へはもう行かなくていい。
これは本心だ。
小学校入学10日でこのいじめだ。
しかも、スミレの言うことを聞くと、単なる「いじめ」で片づけるわけにはいかない。

本来ならば、スミレと周囲の子どもたちの成長を待ち、他の保護者の理解を得ていくのがよいのだろう。
しかし、周囲の子どもも大人も、この子の周囲で起きたゴシップを、スミレに同情的に理解できるようになるまで、どれほど待てばよいのだろう。
待つ間、スミレの安全は保障されないのだ。

余分に作った玉子サンドを食べながら、祖父の思考はフル回転する。
ひと際小柄なスミレが「チビ」と言われたら、どれほど傷つくだろう。
スミレは母親と過ごした1週間のアパート生活を、実はよく覚えている。クサイと言われて、悲しまないはずはない。
字が書けない、数字を知らないと気にしているところに「バカ」と言われたら、さらに自信を失うだろう。

人殺し!?
噂に尾ヒレは付き物だ。
それに、哲也がしていたことは、確かに一歩間違えは人殺しになりかねなかったし、それはミドリも同じだ。
根も葉もない、と切り捨てられないのが痛い。
スミレの真新し上履きにマジックでいたずら書きされた内容も、同級生に言われたらしい言葉も、どれも根拠があるではないか!

子どもとは残酷なものだ。
分かっているけど言わずにおく、というような含みのある判断を覚えるのはずっと先のことだろう。
覚えないままに大人になった人もけっこういるではないか。
だとしたら…

いや、もう起きたことをとやかく考えている場合ではない。
明日どうする?
あの若い担任教師に事情を説明したところで何になろうか。
もう行かないなら、担任と話し合う必要もなかろう。

しかし、小学校教育をゼロにするわけにはいかない。
亡き妻は、次に何か起きたら児童相談所に連絡するよう言われている、と言っていた。
連絡してみるか…。いや、ダメだ。
この地域にいたら、選択肢は同じなのだ。
隣の小学校に転校しても、事態は大して変わらないだろう。

この子に起きた様々なことを何もしらない土地に、この子を移してやりたい。
マイナスからのスタートではなくて、せめてゼロからのスタートにしてやりたい。
でも、いったいどうやってそんなことを…?

あ!!
突然大声を出した祖父の口から、玉子サンドの玉子の白身が飛んだ。
「そうだ!シスター今日子だ!!シスター今日子がいるじゃないか!!!」






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そして、祖父が仕事に復帰して、3日目のことだった。
前2日と同じように、祖父は5時きっかりを待ちかねるように会社を飛び出し帰宅した。
ただいま!と言っても、スミレの返事がない。

ドキリとする。
急いで居間のドアを開けると、スミレが絨毯に座っていた。
スミレのまわりに、教科書やうわばきなどが散らばっている。
ランドセルも投げ出されたままだ。

「どうした!?」
言いながら、祖父は散らばったものを見やって、息を飲んだ。
これは………

教科書は、踏みつけられたように足跡がついている。
マジックで、いたずら書きもされている。
あいうえおと、ぎこちなく、なぞり書きしてあるノートには、鉛筆でぐちゃぐちゃと線が引いてある。

まだ真新しい上履きに、幼いけれども悪意にまみれた文字が散らばっている。
バカ しね くさい ひとごろし チビ

「スミレ!」
スミレを抱きよせようとすると、スミレも何かを抱いていた。
筆箱だった。
亡き祖母が買いそろえた、スミレの大好きなキティちゃんがついた筆箱だ。
誰かが思い切り踏みつけたのだろう。
無残にふたがへこみ、磁石のところが折れている。
それだけではない。
スミレの小さな手に握りしめられていたのは、祖母が一本一本丁寧に名前をつけてくれた鉛筆だった。
真っ二つに折れ、ぎざぎざと尖った折れ目が小さな手の外に出ている。

スミレは、例によって声を立てずに泣いていた。
帰って来てから何時間も、こうしてずっと泣いていたのかと思うと、言葉にならない怒りと申し訳なさが肚の底からこみあげてきた。
「おじいちゃん…」
スミレがとぎれとぎれに言葉を絞り出した。
「パパはママを殺そうとして自殺したの?ママは私を殺そうとして病気になったの?おばあちゃんは私のせいで疲れて死んじゃったの?みんな、私のせいなの?私がいるから、みんなが不幸になったの?」
「誰がそんなこと言ったんだ!」

体がガタガタと震えて止まらない。
大声を出し過ぎた。
これではスミレが怯えてしまう。
しかし、声の調節などできようはずがない。

「そんなことはない。そんなのは嘘だ。」
「みんなが、ひとごろしの子どもはひとごろしだって…。」

子どもの言葉とは思えない。それを教えた大人がいるのだ。
その言葉を吐いたヤツが大人でも子どもでも、皆殺しにしてやって構わないとさえ思う。
担任教師は何をしているのか。この子がこんな目に合ったことに気付いていないのか。
無知な子どものおふざけ、いたずらかもしれない。
しかし、その子は知っているのだろうか、自分が何をしでかしたのかを。
様々な思いが頭を駆け巡る。

その中でひとつだけ、祖父は神の配慮に感謝した。
この子はまだ文字が読めない。
もしも文字が読めるようになっていて、この上履きのいたずら書きを読み、意味を知ったら、どれほど傷ついたことだろうか。

「おじいちゃん…」
祖父は黙って、筆箱を抱いたスミレを抱きあげた。
ただの筆箱ではない。この子にとっては、かけがえのない祖母の形見なのだ。

警戒水位を超えた心から、涙は洪水となって溢れてくる。
こらえても、こらえても、嗚咽がこぼれる。
両親が他界した時も、妻を亡くした日も、これほどには泣かなかった。
一緒に泣いてやる意外、俺に何ができるのだろうか。
俺が間違っていた。また、間違えた。また、大切なことを選び間違えたのだ。
それが、今最も傷つけたくない大事なものを傷つけてしまった。

「おじいちゃん…私、学校、いきたくない。」
「ああ、行かなくていい。」
祖父は、即答した。






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その日も飛ぶように帰って学校の様子を聞いた祖父は、予想通り、胸が痛む展開を耳にした。
「きょうは、さんすう。せんせいが、ひゃくまで かぞえましょうって。みんな いえるのに、私だけ いえない…」

大丈夫だよとは、もう言えなかった。
大丈夫じゃないから、スミレはこんな顔をしている。
「勉強することが、いっぱいあるね。こういうのを『やりがいがある』って言うんだよ。」
「やりがい?」
「そう。がんばるぞ、ってこと。」
「そう…」
スミレは小さな体をなおさら小さくして、膝を抱えてうつむいている。

祖父は、そんなスミレをヒョイと抱きあげて、膝の中に座らせた。
お風呂に入るとき、テレビを見ている時、一日に一度は、そうやってスミレを抱くことにしていた。
ミドリはもう5歳だから、と言っていたが、まだ5歳なのだ。

この時ばかりは、自分の丸く突き出た腹や、肉付きの良い胸や腕を神様に感謝する気持ちになれる。
ギスギスと痩せていたら、きっと抱かれ心地も悪かろう。
「おじいちゃん…」

なんだ?という言葉をいつものように飲み込んで、黙って待っていると、スミレは
「私ね、がんばって、みるね。」
「ああ、ゆっくり、ほどほどにね。何度もやっているうちに、すぐに覚えてしまうから、あせることはないよ。」
「うん。」
「今日からお風呂の中で、100まで数えるぞ!」
「うん。」
日中の疲れなのだろうか、スミレは早くもウトウトし始めた。
抱いてやってよかったと思う。

これでいいのか?こんなことで、本当にいいのか?
祖父はまた不安に襲われる。
以前の自分なら「気合だ、根性だ、ヤル気だ、それいけ!」とばかりに励まし、けしかけただろう。
「痛みから学べ!」「同じ過ちは二度繰り返すな!!」仕事はそれでいいかもしれない。よかったはずだ。
だが…。

勉強のことばかりではない。
この子は、帰宅してから自分が戻るまでの間、何をして過ごしているのだろう。
今朝、電車の中で読んだ新聞に、宅配業者を装って押し込み、幼女にけしからぬことをして逮捕された男のことが載っていた。
そうだ。後でよく言って聞かせなければ。
鍵だけでは心もとないな。チェーンのかけかたをスミレに教えよう。

懊悩は無限のように思われた。






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これほど、会社から早く帰りたいと思ったことは、かつて一度もなかったのではないだろうか。
久しぶりの出勤、それも妻を亡くした後とあって、祖父の仕事はあちらこちらへ挨拶に出向くことから始まった。
しかし、少しも集中できない。

今と違って、まだ携帯電話など持っていない時代だ。
5時になったらすぐ退勤しようと時計を見上げる。
まだ5分しかたっていない。また見上げる。まだ5分進んだだけだ。それを何度も何度も繰り返す。

落ちつかない上司を、部下は見て見ぬふりをしている。
いろいろあるのだろう。
そんなふうに思いやられていることに、今日の祖父は気付きもしない。

5時きっかりに会社を飛び出すと、祖父は空を駆けるような思いで帰宅した。
「スミレ!ただいま!!」
「おじいちゃん、おかえりなさい。」
「学校、どうだった?」
「うん、あのね…」

どうも、スミレの様子がおかしい。
こういう時は、せかしてはいけないのだ。
大事なのは自分の好奇心でも不安でもない。この子の気持ちだ。

祖父はネクタイを外しながらスミレの前に座った。
黙って、スミレの次の言葉を待った。
「あのね、こくご、やったの。」
「うん。」
「みんな、きょうかしょ、よめるの。」
「うん。」
「私だけ、よめない。」
「…」
「それからね…みんな、ひらがな、かけるの。私だけ、かけない…」
スミレの声がだんだん小さくなって、最後は聞き取れなくなってしまった。

ズキンと心臓が音を立てて鳴った気がする。 しまったと、祖父は思った。
幼稚園にもやらなかったが、大した問題ではないと思っていた。
問題があるとしたら、集団生活に慣れるチャンスを失うことだと思っていた。
家にいて、母親の様子をうかがいながら、でも祖母と仲良くやっていた。
それで充分だと思っていた。
友達も、学校に通えばできる。だから今はいなくてもかまわないと思った。
ミドリの時はどうだったっけ?
思い出せない。

「そうか。驚いたか?」
「うん。」
「大丈夫だよ、スミレ。これから覚えればいいじゃないか。スミレは賢いから、すぐに覚えられるよ。おじいちゃんも教えてあげよう。」
「うん…」
「誰でも、最初は書けないし、読めないんだよ。おじいちゃんも、誰も教えてくれなかったら書けなかった。学校で勉強したんだよ。」
「そうなの?」
「そうだよ。だから、心配いらない。」
「そう…。」
「ほら、晩ご飯の買い物に行くぞ。一緒に行くか?」
「うん。」

心配いらないと言った端から、大丈夫だろうかと自分が不安でいっぱいになっていく。
まさか周囲の子どもたちが小学校に上がる前に読み書きを覚えていたとは!最近はそんなふうになっているのか?そんなことは亡き妻も何も言っていなかったではないか。

子育てとは、こんなに不安なものなのか。
祖父は今になって思い知った。
妻は、ミドリは、こんな思いでいたのだろうか。
俺は外で必死に働くから、家と子どものことは任せたぞと、日ごろから妻に言っていたことが今更ながら悔やまれた。

翌日は、算数だった。







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