Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

2013年06月


「学校に呼ばれたんだってな。何だった?」
ヒデ君が隣の部屋で眠っているので、パパの声は心持ち低い。 
学校から呼ばれたことはパパに内緒にしていた。
それなのに、帰宅一番この話題が出たのは、きっとおばあちゃんが告げ口したからだわ。

「ヒデ君がなんだかいろいろと怖がって、泣いてばかりいるらしいの。それで、先生が家での様子とか、これまでのこととかを聞きたいって。」
「ヒデは相変わらず弱々しいな。つまりそれは、先生がヒデの現状を家庭のせいだと思っているってことか?」
「違う。そうじゃないと思う。先生もいろいろと悩んでくれているんだと思う。」
「たかが26の小娘に、家庭のせいだとかなんだとか言われたくないな。」
「だから、違うって。」
「じゃ、なんでお前は呼ばれるんだ。自分のやり方が悪いんだから、自分で責任持って考えるのが筋だろうに。」

いつものことだ。
この人とは「相談」というものが成り立たない。
誰の責任、誰が悪い、誰が正しい。
そればかりだ。
誰もに責任があるとか、誰ひとり悪くないとか、誰が正しいかわからないとか、そういう世界もあるのだということが、この人には理解できないらしい。 
共に生活を始めるまでは、彼のそういう考え方を頼もしいと思ったものだった。
職場の上司として、その揺るぎなさは魅力だった。
けれども、暮らしの中では、時間が立つにつれ腹立たしく感じることが増えた。

夫の好きなこと、したいこと、知っていることだけが正しいことだった。
お前がそこまで言うなら好きにしろよ!という言い方も気に食わないが、「いえ、いいの。あなたの言うようにしましょう。」と言い出すのを待っているのがありありとしているのもがっかりだ。卑怯な男。
友達がご主人とあーでもない、こーでもない、と揉めながら車を買った、家を建てたという話を聞くたびに、我が家ではそんな揉め事は起きないわと笑ってきた。
だって、何でも勝手に決めるんだもの。私の意見など最初からないもの同然。

そして、都合が悪いことが起きると、いつも私のせいなんだわ。

「先生はお若いからこそ、ヒデについて一番知っている私に相談してくださったのだと思うわ。それに…」
「おまえの育て方が悪いんじゃないのか?」

人の話を最後まで聞きもせず何を言っているの?あなたの子供でもあるのよ!という言葉を、喉の途中でなんとか飲み込んだ。
腕の外側の皮膚がつぶつぶと泡立ってくるような感覚が襲う。

「おふくろが心配してたぞ。ちゃんとやってくれ。」

まるで会議資料のコピーをミスした部下に文句を言うような口調に、もはや会話を続ける気力が湧かなかった。






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「そう、誤学習。勘違いってこともあるわけよね。」
「ああっ!」

スミレ先生には思い当たることがあった。
ヒデ君を強引にサッカーに誘った時、初めは抵抗していたものの、後ろから抱え込んで体を支え、ボールを一緒に蹴ろうとした時、何か、こう、寄りかかられているような、先ほどまでの抵抗をやめて、体を委ねられているような感覚を持ったのだ。スミレ先生はその時、抵抗するのに疲れて、やってみても悪くない気持ちになったのだろうと思っていたのだが。

「もしかして、座っていたら、また私に抱えてもらえると思っちゃったかな?」
「わからないけど、体罰を拒否しているというよりはスジが通る気がするよ。」
「あちゃ〜。やっちゃったかな?私!」
「ヒデ君のお母さんって、どんな人?」
「そうね、気が小さくて真面目な感じ。ヒデ君のこと一生懸命に育てているんだけど、努力が実を結ばなくて苦しそうな印象を受けたな。それに、はっきりしないというか、近くにいると、こちらが罪悪感を感じるんだよね。」
「ははぁ、不器用そうな感じだね。」
「そうそう。不器用そうってピッタリな表現。愛情はあるのだけど、うまく伝えられない。ヒデ君も不器用そうでしょう?うまく伝えられてないものをキャッチするほどの力もない。でも、本当は甘えたくてうずうずしている。」
「ってことは、スミレちゃんはママの代わりかもね〜」
「ひゃ〜〜!」

「だからさ。悩むのは止めて、できることをしながら、彼らの成長を気長に待ちましょうよ。」
「そうだねぇ。それしかできないもんねぇ。」
「合い言葉は?」
「放っておいても子は育つ!」

小学生とはそういうものだ。何かしてもしなくても、どんどん大きくなっていく。
成長しないなどということはあり得ないのだ。
放っておいても育つ中で、どこか、なにか善きものを渡したい。
その一心で勤めるのがこの仕事だ。

「はぁ。お腹はいっぱい、胸はスッキリ。ありがとう、チョコちゃん。」
「なんの、なんの。お互いさまよ。」
「しかしさぁ、チョコちゃんって、男前だよねぇ。かっこよすぎる。」
「ほほっ。何をイマサラ。」
「けど、縁遠そう。」
「なに〜っ






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「そうでしたか。では、ジュン君はお父さんに会うことはないのですね。」
「会うもなにも、彼は自分に子どもがいることすら、知らないのですから。」

「ところで、先生は息子にいつも『ジュン君は何でもできる』って、言ってくださるそうですね。」
「ああ、はい。だって、本当ですから。」
「先生は息子を本当に信じてくださっているのですね。」
「いえ、ジュン君だけではありません。子供たちは可能性の塊ですから。」
「あの子は人生の初めに、あなたのような先生に見守られて育つ幸運を手にしているのですね。なんて幸せなことでしょう。先生、いつもいつも、ありがとうございます。あの子はきっと、私たちの信頼を裏切らないと、私は信じています。もっとも、裏切られても、やっぱり私はジュンが大好きなんですけれどね。」

チヨコ先生は感動した。
全ての秘密を聞いた気がした。
ジュン君の出生の秘密などではなく、この親子がなぜこのように明るく健やかなのか、その秘密だ。 

しかし、その話を、今ここで、自分の口からスミレ先生に聞かせてはならない気がした。
それは、ジュン君のお母さんに対する、裏切り行為のような気がしたからだ。

「ちょっと!どうだったのよ、ジュン君のお母さんは。」
「あれは、貴族だね。」
「キゾク?」
「そう。精神的貴族。私ら何ぞは足元にも及ばない。お金も、境遇も、何もあの二人を不幸にすることなんかできない。すごいと思わない?」
「なんだかわからないけど、確かにそれがホントならすごいね…。」

それに比べてみると、ヒデ君のお母さんは…。
スミレ先生は思い出していた。
授業参観を待ち切れず、スミレ先生はお母さんを学校に呼んだのだ。
ヒデ君の様子を聞いたお母さんは、ひどく恐縮して涙を浮かべた。
どうしてなんでしょう、どうしたらいいんでしょう、を繰り返していた。
スミレ先生は自分の実力のなさをお母さんにぶつけていじめているような気がしてきて、いたたまれなくなった…

「つまり、子どもの状態は、教師の私たちの影響よりも、お母さんのほうが大きいって言いたいの?」
スミレ先生は頭を整理しようとしていた。
「う〜ん、ちょっとニュアンスが違うかな。乳幼児の頃ならそうなんだと思う。お母さんの影響をダイレクトに受ける。でも、5歳とか6歳とかになると、その域を脱して、お母さんに反応するようになる。」
「反応?」
「そう。乳幼児期が『順応』で、その次が『反応』、それから『自立』。」
「わからない。どういう意味?」
「つまりね、それまで言いなりに受け取っていたことに、自分で判断を加えて工夫するようになるんじゃないかってこと。例えば、あなたはダメね、って言われて、ああダメなんだと素直に思うのが順応。そこから、ではどうしたらダメだと言われないんだろうって考えて、自分なりのやり方で行動してみるのが反応。そのうち、人は人、自分は自分の道を行くぞ!というのが自立ってこと。」
「ああ、なるほど。なんとなくわかった。」

「だとすると、ヒデ君の状態は、単にスミレちゃんがどうしたから、お母さんがこうしたから、というものではないってことよ。子供だからね、誤学習ってこともある。」
「誤学習………」






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ジュン君のお母さんの話は続いた。
チヨコ先生は、黙って聞き続けた。

「夢を追っている人でした。優しくて強い。心から愛していました。」

チヨコ先生は胸を突かれた。
それほど親しくもない他人に、本心を語れる。心から愛していたと言える。これは、どういう心理なのだろう。

「私は一文無しでしたし、彼もまだ若く、二人で暮らす力はありませんでした。
だから、彼のアパートに転がり込んだものの、結婚しようなどという考えはお互い持っていませんでした。
彼は何があっても、夢を追うことを諦めませんでした。
そういう彼を、私は心から応援したいと思っていました。

私はアルバイトを転々としていました。
そんな時です。彼に大きなチャンスが舞い込んできました。
彼は夢の実現に夢中になりました。
そして、さらに大きなチャレンジをすることに決めたのです。

それは、海外へ行かなければ叶わないことでした。
彼は私に、一緒に行こうと言ってくれました。
しかし、私はその時、ジュンを授かったことに気付いていました。
彼には言い出せませんでした。
なぜなら、彼は収入など度外視して、夢を追いかける決心をしていたからです。

私は嘘をつきました。
もうあなたのことは愛していない、付き合いきれないと言いました。
彼は心底驚いて、何度も真意を確かめてきました。
嘘をつきとおすのは難しいことでしたが、やり遂げました。
だって、彼の夢の実現は、私の夢でもあるんですもの。

彼はひとりで旅立っていきました。
私は小さな部屋を借り、今のスーパーで働き始めました。
ジュンは、ありがたいことに、五体満足、健康いっぱいで生まれてくれました。
それだけで十分です。

私はジュンと暮らすことで、彼ともまた、共に暮らしているのです。
そして、ジュンの幸せを願うことは、彼の幸せを祈ることにも通じます。
だから、私は幸せでなくてはなりません。
なぜなら、ジュンも、彼も、私の幸せを願っていてくれるからです。
私が不幸でいる限り、彼らに幸せはないのですから。」






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「それでね、今日、来てくれたの。」
「ああ、教室で話していたのがジュン君のお母さんだったのね。」
「そう。今日もスーパーの制服でね。でも、今日はもう仕事はないからって、ちょっとゆっくりお話しできたわけ。」
「へぇ。どうだった?」

チヨコ先生は、ジュン君のお母さんに、ジュン君の性質はどうやって育まれたものかを教えてほしいと尋ねた。
するとお母さんは微笑んで、「何も特別なことは…」と答えてくれない。
普段、家でどのような話をするのかと聞いてみると、お母さんが話していることはあまりなくて、 もっぱらジュン君が話しているのを聞いているようだ。お母さんは学校で起きていることにとても詳しかった。

お父さんとは、会うことがあるのですか?
触れてはいけないことは重々承知していたが、聞かずにはいられなかった。聞いたとたんに申し訳ありませんと頭を下げたチヨコ先生に、お母さんはにっこりと微笑み返すと、こんな話をした。

「私の両親は、私が短大を出てすぐ、交通事故で亡くなりました。
ひとり娘で、贅沢をしていたわけではありませんが、なに不自由ない毎日でした。
両親とも穏やかな人で、静かで温かな家庭でした。

両親はとても仲が良く、週末になると二人で買い物にでかけて行きました。
その日もそうでした。
まさかそのまま帰って来なくなるなどとは、思いもしませんでした。

この事故には、被害者がおられました。
中学生の女の子でした。
お友達が悪ふざけをして、その子を車道に突き飛ばしたのだそうです。
父が運転していた車は、その子を避けようとして急ハンドルを切りました。
ですが、避けきれず、女の子を跳ね飛ばしたあと、側壁に激突したのです。
横断歩道もなにもない国道のこと、スピードを落とす間もなかったのでしょう。

両親は即死でしたが、女の子は命に別条ありませんでした。
しかし、足が少し不自由になってしまいました。
そして、事故の過失は父の前方不注意にあるということになりました。
運転席の父から、ふざけあっている集団が見えたはず、とのことでした。

私は腹を立てました。
誰がそのようなところから人が飛び出してくると予測するでしょうか。
突き飛ばした子どもたちが殺人未遂を問われるほうが正当だと思いました。
両親は命を落とし、それ以上に償う方法などありません。
なのに、まだ罪に問うのかと、怒り狂いました。

しばらく混乱し、泣くばかりの毎日を送りましたが、
ある日ふと、思いました。
両親は、私がこうして泣いているのを喜ぶはずがないと。
そして、悔しいけれども、両親はもういない。
けれども、あの女の子はこれからも生きて行かなくてはならないのです。
自分を突き飛ばした友達とも、向き合わなくてはなりません。
私の両親が死んだことを、私と同じように苦しく思っているかもしれません。

私はその女の子が入院していた病院へ会いに行きました。
すると、その子はベッドから転がり落ちました。
私は驚きました。
また骨が折れてしまったらどうしたらいいのでしょう。

女の子は、そのまま這うようにやってきて、叫びました。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!!」
やはり、この子は苦しんでいたのです。
その瞬間、明らかに加害者は彼女で、私は被害者遺族でした。

しかし、その子のご両親は違いました。
私に向かって、この子の将来を返せ言い募りました。
その時の、女の子の暗く沈みきった表情は、今も忘れることができません。

私は、手離せる一切合財を売り払い、賠償することにしました。
先方も、それで納得したのでしょう。
それ以上、何か要求してくることはありませんでした。
もし法律が父の過失を問わなくても、多分私は同じことをしたでしょう。
だって、私の何倍も、あの女の子は生き難い人生を生きて行くことになったのですから。

私はひとりきりになりました。
そんな私を支えてくれたのは、高校の時からお付き合いしていた男性でした。






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「それに比べてさぁ。うちのクラスのジュン君、わかる?」
「わかる、わかる。あの子は明るくて活発で、将来が楽しみよね。」
「そうなの。彼のところは母子家庭でね、兄弟もいないから二人暮らしなのね。」
「へぇ。そうだったんだ。」
「お母さんはスーパーでフルタイムで働いているの。それだけが収入源みたい。」
「そりゃ大変だ。スーパーって日給月給制が多いから、休めないね。」
「それがね、先週、授業参観があったでしょう?」

そうなのだ。
いつもはこんな時期に授業参観などないのだが、体罰騒ぎがあった影響で、急きょ授業参観が設定された。通常以上に参加者の多い授業参観となった。
地域柄、お母さんたちは大変にオシャレだ。教室の後ろはブランド物のスーツやワンピースで埋め尽くされている。美容院でセットして、そのまま来たかと思われるお母さんも一人ではない。夫婦で参観しているところは、父親も品のよいスーツ姿ばかりだ。

子どもたちは一様に小さな緊張感を湛えている。
そわそわ、ぴりり。
いつものことだ。

授業が始まった。チヨコ先生のクラスは、算数の時間だった。
説明をする、問題を解く、子供たちが手を上げる。
授業が半分終わったところだった。

教室の後ろに駆けこんできたお母さんがいた。
それがジュン君のお母さんだった。
仕事場から走ってきたのだろう。
お母さんはスーパーの制服を着ていた。
胸には名札もついたままだった。中身が見えるように職場で統一されている、透明のビニールバッグからタオルハンカチを出すと、額の汗をぬぐった。それほど暑い日でもなかったが、必死に走ってきたことがこれだけでも分かった。

先に授業を見ていたオシャレなお母さんたちは、気付かれない程度に眉をしかめた。チヨコ先生は緊張した。ジュン君のお母さんが周囲の様子に気兼ねをして、小さくなるのではないかと想像したからだ。

しかし、想像は見事に破られた。
ジュン君のお母さんは、汗をふいたタオルハンカチをバッグにもどすと、スッと背筋を伸ばし、ジュン君に向かって笑顔を見せた。特に目配せをしたわけでも何でもないのだが、チヨコ先生にははっきりと、「遅れてごめんね。ママ、見ているからね!」と言っているように見えた。

すぐにジュン君に目を移すと、ジュン君の笑顔がキラキラと輝いていた。
二人とも、服装などなんとも思っていないのだ。
鈍感なのでも、ふてぶてしいのでもない。
本当に、この親子にとって、服装のことなど瑣末なことなのだろう。

チヨコ先生はハッとして、何もなかったように授業を続けた。
他の子どもたちが、いつも以上にいいところを見せようと張り切る中、ジュン君だけはいつもと何一つ変わることなく授業に参加した。というよりも、いつもならば手を上げて真っ先に答えるようなところを、他の友達に譲ってあげるようなそぶりさえ見せた。

そんなジュン君を、おかあさんはニコニコと嬉しげに眺めていた。

授業が終わると、おかあさんはそっとジュン君に手を振り、急いで教室を飛び出した。
きっとスーパーに戻るに違いない。
「ジュン君のおかあさん!」
チヨコ先生は廊下に飛び出して呼びとめた。
「少しだけ、お話しできませんか?」
「ごめんなさい、先生。今日はお休みの人がいて手が足りないのに、みんなが授業参観なら行っておいでと出してくれたんです。戻るのが遅れるとみんなに申し訳ないので、別の日にお伺いしてもいいですか?」
「はい、もちろん。いつでもご連絡ください。」
「では。先生、いつもありがとうございます。

そう言って丁寧にお辞儀をすると、お母さんはバタバタと走り去って行った。
うちの子をよろしくお願いします、とよく言われる。
でも、ジュン君のお母さんは「いつもありがとうございます」と言った。
何も特別なことはしていないのに。
どうしても、あのお母さんと話がしたいという思いがますます強くなった。






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ADHD。注意欠陥多動性障害。発達障害のひとつだ。
脳の器質の加減で、ひとつのことに集中し続けたり、じっとしていることが難しい。
物を整然と片付けたり、物事を順序立てるのも苦手だ。
ルールを意識することも難しい場合があり、言葉でわかったと言っても、行動が伴わないことも多い。
同じミスを繰り返す傾向も強い。
中には、相手の気持ちを察する力が弱く、あえて嫌がらせをしているのか?と思うような言動が絶えないケースもある。

「そう。だとしたら、言葉で何回注意したって行動が変わることは期待できない。だから静江先生は注意するんじゃなくて、あの子が興味を持つような教材を用意して、惹きつけて落ちつけるよう工夫していたのよ。」
「そうだったの。知らなかった。そのこと、次の担任に引き継がなかったのかな?」
「引き継ぐに決まっているじゃない!静江先生はあの子がADHDだとしたら、専門家の支援が必要だから、是非受診をするよう、お母さんに再三勧めてきていたの。そのことも、当然引き継いだ。だけど…。」

なるほど、とスミレ先生は思った。
ほとんどの小学校には支援級があり、障害をもった子どもたちが学んでいる。
しかし、小学校教師がすべて、そういった子どもたちのことを理解しているかと言うと、残念だがそうではない。
支援級の担任をやりたい教師はそれほどいないし、交流級として、支援級のこどもたちが授業によってやってくることでさえ、面倒に思っている教師も少なくない。
まして、通常級にいるこどもたちの行動が定まらない時、それを発達障害と気付かず、親のしつけのせいだとか、教師の教え方のせいだとしか考えられず、苦しむことが結構あるのだ。

スミレ先生は高校生の時、保健の授業で聞いた言葉を鮮明に覚えている。

幼いうちに障害に気付いて、特別支援学校で学んでいる人たちの数はどんどん増えている。普通級の中にも発達障害と呼ばれる障害をもった人たちが学んでいることがある。その数は6.3%と言われているから、だいたいクラスに1人か2人ずついる計算だ。もし、このクラスにいないとしたら、どこかの学校、どこかのクラスに4人とか5人とかいるのかもしれない。そして、忘れてはならないのは、子供ひとりには必ず、親がふたりいるということだ。君たちの中の2人から10人ほどは、将来、障害をもった子どもたちの親になるのかもしれない。ということは、もはや、障害を持った子どもや、その親であるということは、何も特別なことではないね。

何も特別なことではない。
なのに、 あまり理解は進んでいなさそうだ。

「だけどね。お母さんは断固拒絶したらしいの。」
「受診を?」
「そう。うちの子は健常だ、活発すぎるだけだって。そうこうしているうちに、あの子の行動はどんどんエスカレートしていったらしい。落ち着いて座っていないから、勉強も身につかなくて遅れがちになるでしょう?」
「そうね。確か、ADHDは今、いい薬が開発されて、義務教育中くらいは服薬で落ちつけるようにして勉強に遅れが出ないようにしたり、行動面の課題をクリアしたりして、それからだんだん薬を抜いていくような方法があると習った気がする。」
「多動は成人すると治まってくるらしいしね。」
「なのにお母さんは受診すら拒否した。だから、そういう知識を得るチャンスを逃し、子供は荒れ放題ってわけね。でも、自分の子供に障害があるとは思いたくないものね。当然の心理よね。」
「だから、静江先生も無理強いはしなかったんだって。だけど、今回のトラブルで、あのお母さん、静江先生にウチの子を障害者扱いされた、人権侵害だから訴えると騒いだらしいのね。」

障害者だとなぜ人権侵害なんだ?その発想の方がよほど人権侵害だと、スミレ先生は腹が立ってきた。
「ほんと、とんでもないモンスターだね。」
「静江先生が療休に入られたのは、校長先生が静江先生を守ろうとなさったからよ。」
「そうなの?」
「確かに今回のことで精神的な負担が大きくて、うつの診断書が出たのは事実。でも、あんなに早く結論が出たのは、これ以上不毛な議論に立ちあわせるのを止めさせるために、校長先生が配慮してくださったんだって、静江先生から直接聞いたのだから、間違いないわ。」
「へぇぇ。」
「静江先生、言っていた。あの子も辛かったし、それ以上にお母さんは辛かっただろうって。だけど、やっぱり、あの子の現状は、お母さんの影響が大きいって。」






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「ねぇ、スミレちゃん。子供の性格って、どうやってできあがると思う?」
3杯目の生ビールを飲みほしたチヨコ先生は、顔色ひとつ変えずに尋ねてきた。

「何よ、試験みたいに。質問はいいから、先に話してよ。」
「いいから。はいはい、答えて。正解したら、このレバーを焼いてあげます!」
「いいよ、自分で焼くから。」
「ほら、子供の性格。どうやってできあがる?」

チヨコ先生は酔っても顔色が変わらない。
だから、酔っていないと思われてしまう。
けれども、スミレ先生は知っていた。
チヨコ先生は酔うと議論をしたくなるタイプだ。
自分で答えを持っていることについて、どう思う?と質問してくる。

「はい、はい。ええっと、子供の性格は、持って生まれた気質プラス環境ね。」
「では、その環境要因を具体的にあげてください。」
「めんどくさいなぁ。環境要因と言えば、両親、兄弟姉妹の性格や関係でしょう、家とか生活習慣、経済的環境、 周囲の住人、友達関係、通った保育園や学校、見たテレビや本、その他体験全般…。」
「そうよね。では、その中で、ダントツ子どもの性格形成に影響を与えるものはどれでしょう?」 
「ダントツ?そりゃもう、お母さんでしょう。」
「正解!」

何をいまさら言い出すのかと、スミレ先生は首をかしげた。
チヨコ先生は、スミレ先生の、ヒマワリの種を両手で持って齧っている小動物を思わせるような黒目がちの目を見返しながら言った。

「静江先生がね…」
静江先生というのは、チヨコ先生が大学を出て初めて教壇に立った時、指導をしてくれたベテラン教師だ。先日学校を大騒ぎに巻き込んだ体罰事件で、授業中に教室を立ち歩く子どもに注意をした男性教師が英雄のように支持を得たのに対し、1年から4年まで担任をもった静江先生は、それまで注意をしなかった指導力不足教員であるかのように責められ、今は療養休暇を取っている。多分、今年度の復帰はないだろう。

「静江先生はもともと、乳児院で働いていたんだって。それから児童養護施設に異動になって、 けっこう長く働いたみたい。そのあと、思うところあって小学校の教員になったって言ってた。」
「そうだったんだ。いい先生だよね。子供心に寄り添って。私、尊敬してるよ。」
「私も。静江先生は、あの子のこと、ADHDなんじゃないかなって言ってた。」
「ADHD?そうなの!?」
「いや、お医者さんじゃないから診断はできないわよ。でも、静江先生はいろいろな子どもたちを山ほど見てきているでしょう。それでそう思うんだから、間違いともいいきれないんじゃないかな。」
「だとしたら…」








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「焼肉龍龍」はロンロンと読む。
二人が「焼肉食べたい」と言った時は、この店に来ることを指している。
職場からほどよく離れ、ふたりの家の丁度中間にあるのも都合がよい。
さらに都合がよいのは、この焼肉屋さんはすべて個室になっていることだ。
個室といっても小さなブースのようなものだが、扉を閉めてしまえば、中でどんな話をしても人に聞かれる心配はない。

教育公務員は守秘義務を負っている。
職務上知りえたことを校外で話してはならない。
だから、酒食の席で子どもたちのことを話題にするなどもってのほかだ。

しかし、寛いで腹を割った席だからこそ、思ってみなかったようなアイディアが浮かんだり、相談がまとまったりするのもよくあることなのだ。
職業がばれないように、校外では「○○先生」と呼び合わないように決まっていたり、校長のことを社長、副校長のことを副社長、教頭は専務などと呼ぶ習慣になっていたりする。
しかし、酔えば酔うほど忘れられる習慣だ。
だから、二人のように、子どもの話題が中心になると分かっているなら、個室があるのはありがたい。

腰を落ち着けると、あっという間に届いた生ビールで乾杯して、ふぅぅ、と二人同時にため息をついた。
「今週は疲れたなぁ。」
スミレ先生がうんざりしたような声をあげた。
「ヒデ君のことでしょ?」
チヨコ先生はダイレクトに切り込んだ。
「そうだよねぇ。わかってるよねぇ。」
「大分、手を焼いているみたいだね?」
「見ていたでしょう?今日の体育で3回目よ。座ったままで何もしてくれない。何を言ってもだめなんだもの。」

ノックのあと、ドアが開いて、カルビだの塩タンだの山もりのチョレギサラダだのの皿が届いた。
この二人は本当によく食べる。そして、飲む。
本当によくしゃべり、笑う。
つまり、この上なく健康なのだ。

「最初の、あれきり?」
チヨコ先生は早くも2杯目の生ビールを手にしている。
「うん。やっぱり、あれはまずかったのかなぁ。体罰だったのかな。」
「スミレちゃん、体罰だと思っているの? 」
「ううん。そうじゃないけど、ヒデ君には体罰だと思われたかなって。だから、私、ああいうことはもう二度としたくないんだ。」
「ヒデ君がサッカーをしないのは、スミレちゃんに体罰を受けたから拒否しているんだと思ってるの?」
「わからない。でも、可能性はあると思ってる。私ね、あの後、すごくすごくイヤな気分だったんだ。最初からやらなくていいよ、みたいな流れにしたくなくて、ちょっと無理強いでも、やってもらえば分かってくれる気がして、ある意味冷静にやったことだけど、すごく後味悪かった。ヒデ君に『タイバツだ!』って言われた時は、ドキッとしたしね。」

カルビが丁度焼けたところだ。
チヨコ先生は手早くふたつの取り皿にカルビを取り分けた。
これもいつもの習慣で、最初のお肉だけは、チヨコ先生がこうして取り分けてくれる。
あとは自分のペースで、食べたいものを食べたいだけ焼くのだ。

「あのさぁ。私、あれは体罰なんかじゃないと思うよ。だって、罰を与えるために引っ張ったり押したりしたんじゃないでしょう?」
熱っ、と小さくつぶやきながら、スミレ先生は小首をかしげた。
その様子を見ながら、チヨコ先生は言葉をつないだ。

「自分のイライラを子どもにぶつけて殴るなんていうのは言語道断。体罰なんて言葉を使っていないで、傷害罪と呼ぶべきよ。犯罪者なんだから教壇に立たせるのはおかしい。痛い目をみせれば根性がついて、強くなるとか上手くなるとか思っているのも勘違いだと思う。そういう発想の人はサーカスの調教師にでもなればいいのよ。人を人として扱えないなら、殺人と同じ。でも、スミレちゃんは違う。」

「違うかな。自信なくなった。だって、体罰ってセクハラと同じで、やった側が決めることじゃなくて、受けた方がそうだと思ったらダメなわけでしょ?」
「まあね。こっちの体力を使わないで伝えた方がいい、ってことには賛成するけどね。」
「そうだね。そうするよ。」
スミレ先生はチョレギサラダを頬張った。

「それより、問題はヒデ君がどうして座り込んだままかってことでしょう?」
「それそれ。さらにですね、どうすれば立ちあがってくれるのか、ってこと。私のせいなのかなぁ。」
スミレ先生はまたため息をついた。






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2013年5月に読んだ本は15冊でした。

 
Hikariの読書記録 - 2013年05月 (15作品)
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