Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

2013年06月


ミドリより早く意識を取り戻していたスミレは別室で、優しく若い看護師がつきっきりになってくれていた。
看護師がそれとなく尋ねてみたが、スミレは倒れる直前に見たものを記憶していなかった。
お泊りに行ったの、新しいパジャマを買ってもらったんだよ、あれ?ママは?

ママは疲れてしまったので、別のお部屋で眠っているから、もうしばらく寝かせてあげましょうねと看護師が言うと、スミレは素直に頷いた。
あのね、これ、ママが買ってくれたの。スミレはポケットに入ったままになっていたキティちゃんのハンカチを広げて、看護師の目の前に差し出した。

何も知らない4歳児がこれまで見たであろう光景について、看護師はすでに理解していた。その後に続いた、父親の死亡についても聞かされていた。かわいそうに。この子は、これからもっと厳しい現実にぶち当たるのだ。
看護師が不意にふわりとスミレの小さな体を抱きしめた。

コロコロとふくよかな子どもが増えたというのに、スミレはあまりに細く、その名の通り、指先でつまめば折れてしまいそうな体をしていた。
突然抱きしめられて驚いたスミレは、無意識のうちにもがいて逃れようとしたが、看護師がそのまま髪をゆっくりと撫で始めると、体から力が抜けた。シクシクと泣きだしたのだった。

きっとこの子はずっと前から、こうして泣きたかったのだろう。
でも、泣けなかったのだ。

大好きなものに夢中になっている間、他のことを覚えていないというのは、「健全な物忘れ」だ。しかし、思い出すのがあまりに辛い出来事を、思い出せないようにロックをかけた現象を解離性健忘といい、精神性疾患の一症状だ。その出来事を体験した自分が、現実の自分と別々になっているのだ。別になった自分が別人格を持った状態を、解離性同一性障害という。いわゆる多重人格だ。スミレは、その入口に立っている。

神様、どうかこの幼子に幸せを。看護師は髪をなでながら祈った。ふと、戴帽式のときに見たロウソクの明かりを思い出した。看護師である自分には、この子にしてあげられることと言えば、母親が目覚めるまでの短い時間、この子の安らぎになることくらいしかない。けれども、これから将来、ほんのひとつ、小さくでいい。この子の心に明かりがともり続けますように。






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ミドリが意識を取り戻したのは、哲也の訃報が飛び込んできた日の夕方だった。
窓の外は、血を流したような夕焼けに染まっていた。
ミドリの両親と、警察から戻ったばかりの哲也の両親がミドリのベッドを囲んでいた。

「ミドリ、何があったの?!」
ミドリの母が問いかけた。
ミドリはぼんやりと母の声を聞いた。

まわりが白い。
ここはどこだろう。
首から下に力が入らない。

だけど、ここはどうやら安全なようだ。
何もわからないながら、何か大きなことが終わったような気がした。
それにしても、なぜ母がいるのだろう。

「ミドリ!いったい、何があったというのよ!」
何を騒いでいるのだろう。
「あなたをこんなにしたのは、哲ちゃんなの?そうなのね!」
ああ、そうか。
とうとうバレてしまったのか。

「よさないか。ミドリはやっと気がついたばかりじゃないか!」
父の声もする。

「ミドリさん。ごめんなさい。許して下さい。」
あ、お義母さん。
お義母さんにまで知れてしまったのか。

「私たち、本当は知っていたの。哲也が相談に来たのよ。どうしても、あなたを殴ってしまうって。でも、反省しているから自分でなんとかしてみると言うから、信じていたのだけど…。」

なんてこと。
お義母さんは知っていたのか。
私が必死で隠していたことを、前から知っていたんだ。
知っていて、何も、してくれなかったのか。

「でも、哲也は命がけで償ったの。許してちょうだい。許して…」
「おい!やめろ!」
お義父さん?なぜ止めるの?
お義母さんは今、なんて言った?なぜそんなに泣くの?
何か変なこと、言われた気がする。

「いま、なんて?命がけで、償った?」
「そうよ。哲也は亡くなったの。電車にとびこんで、自殺してしまった!」

ミドリは頭の中に空白が広がっていくのを感じるしかなかった。






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26歳になったスミレに思い出せるのは、いろいろなことが起きた後の風景だ。
ミドリの実家で、おばあちゃんが作ってくれた朝ご飯を食べているところのような気がする。
ピントの合わない白黒写真のような記憶で、そこには動くものがない。

お泊りに行くときに、ママが新しいパジャマを買ってくれたことは覚えている。
でも、どんなものだったのかは思い出せない。
ただ、そのパジャマが嬉しくて大喜びしている女の子を見たような気がするだけだ。
まるで他人事のように感じる。

玄関で倒れているミドリを見つけ、一緒にいた幼稚園教諭が通報したため、救急車がやってきて、意識が戻らないミドリを担架に乗せて運んで行った時に、スミレも意識を失った。

スミレはミドリと同じ救急車に乗せられ、病院へと運ばれた。

ミドリは頭を強く打ち、脳しんとうを起こしたまま、長い疲労から意識を失っただけで、命に別条はなかった。
しかし、体のあちこちに怪我があり、誰かに暴行を受けたことは疑いようがない状態だったため、病院から知らせを受けた警察が、行方のわからない哲也を探した。

病院には、ミドリと哲也のそれぞれの両親がかけつけていた。
ミドリの意識が戻らぬまま翌朝になった。
スミレも眠ったままだ。
そこへ、哲也の情報が寄せられたのだ。

哲也は、その朝の始発電車にとびこんだ。
あとかたもなく破片となった哲也がすぐに哲也だとわかったのは、 彼が最後に立っていた場所に遺書が残っていたからだ。

すまなかった。疲れた。もう終わりにしたい。

ミドリに宛てた走り書きは、『パンダのマンボ』の箱で押さえられていた。 






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お友達はみな、ママがお迎えに来て、家に帰って行った。
残っているのはスミレだけだ。
お泊りの翌日は、お昼ごはん前に家に帰ることになっている。
ママだってわかっていたはずだ。

スミレは不安でならなかった。
ママがお迎えにこないのは、何かあったからだ。
家までの道はわかっている。ひとりでも帰れる。
スミレは幼稚園を飛び出そうとした。

その手を、先生が引きとめる。
「ママ、きっと忙しいのよ。もう少し待ちましょう。」
「いや!帰る!帰るの!」
お迎えの時間を1時間過ぎていた。
泣きながら訴えるスミレを、先生も引きとめかねた。
「じゃ、先生が送っていくね。もしママがお留守だったら、幼稚園に帰ってくるよ。」
「はい。」

スミレは先生の手を引っ張って、急いで帰った。
「先生、スミレんち、あそこ!」
駆けだしたスミレが目指したのは、いかにも安そうなアパートの1階だった。
玄関のカギはかかっていなかったようだ。
スミレはすんなりとドアを開けた。

「ママ!」
ドアを半開きにしたまま、スミレが動かない。
先生は不審に思いながら、ドアノブに手をかけた。
「どうしたの?スミレちゃん。」

先生は、スミレと同じ光景を目にして悲鳴をあげた。
小さな玄関の左がキッチン、そのままリビングになっている。
その床に、ミドリが倒れていた。
頭を玄関の方に向けているが、顔が下になっていて表情が見えない。
周囲にはいろいろなものが散乱している。
一目で事件だとわかる状況だった。

「きゅ、救急車!」
先生は家に飛び込み、119番に電話をかけた。
間もなく到着した救急隊は、そのまま警察を呼んだ。
アパートの周りは二種類のサイレンで大騒ぎになった。

「ママ、ママ!」
スミレがいくらママを揺さぶっても、ママは目を覚まさなかった。
ママは担架に乗せられ、救急車に運ばれた。
スミレは不意に意識を失い、その場に倒れ込んだ。






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哲也は頭の中が真っ白になった。
いつものように殴りかかろうとミドリの胸倉を鷲づかみにしたが、殴れなかった。
いつもは怖がって小さく身をかがめるミドリが、この日は真っ直ぐに自分を見返してきたからだ。
その目には、燃えるような決意が見て取れた。

「殴るんでしょう?殴ればいいわ。でも、今日で最後よ。私はもう二度と、誰にも私を殴らせないと決めたの。あなたが今から一発でも私を殴ったら、私は家を出る。あなたがどんなに謝っても、二度と帰らないわ。そうして、警察に行く。あなたを更生させてくれるよう、今までのことを全部話して助けてもらうわ!」

振り上げたこぶしを、哲也は振りおろせなかった。
「私、働きに出たいの。スミレが幼稚園に行っている間なら働けるから。わずかかもしれないけど、家計の足しにする。私とスミレふたりぐらい、生きていけるでしょう。だから私たちのことは気にせず、あなたは大学にでもサッカーにでも戻って。やりたいことをやって。」

「ふざけるな。」
哲也が初めて口を開いた。
「今更ふざけたことを言うな。4年もブランクがあるんだぞ。今更戻れるわけないだろう。簡単に言うな。」
「簡単じゃないことはわかってる。でも、始めてもみないでできないと決めつけることもないでしょう。」
「おまえなんかに何がわかる。サッカーはそんな簡単なものじゃない。」
「簡単なものじゃないことは、私も分かってると思う。でも、」
「でももへったくれもあるか!やり直してどうにもならなかったら、俺の人生は二重に無駄になるじゃないか!そんな馬鹿らしいことやってられるか!」
「どうして無駄になると決めつけるの?サッカーをもう一度始めることに無駄なんてあるの?」

「そこらで趣味のサッカーやれってのか?この俺に!?」
「趣味のサッカーから始めればいいって言っているの。いつまでも趣味で留まるのがいやだったら、どんどんあなたのいたい場所へ登っていけばいいんじゃないの?」
「ふざけるな。」
「ふざけてなんかないわよ。だいたい、あなた、最初からプロになんかなる気はなかったでしょう?だから社会人を断って、大学目指したんじゃなかったの?」

その年、日本サッカー界は大きな転機を迎えていた。
Jリーグが発足したのだ。
長く社会の注目を浴びぬまま努力を重ねてきたサッカー選手たちは、ここにきて、一躍ヒーローへの道を歩き出した。
ブラジルから、スーパースターのジーコがやってきたことも大きかった。
サッカーを知らない人たちも、すごいと噂のジーコを一目見ようとサッカー場に押し寄せていた。

哲也はミドリとの生活を選んだこと以前に、社会人リーグでサッカーを続けることを軽視した自分の選択が誤っていたことを、実に分かりやすく突きつけられた。
その痛手から、ずっと目を逸らし続けてきた。
それをズケズケと無神経に、いや、攻撃的に突きつけてくるミドリに、怒りを越えた何かを感じ始めていた。






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ミドリは、体の底から得体の知れないエネルギーが湧き出てくるのを、もう止めようがなかった。
今まで言いたくて言いたくて言えなかった言葉が、堰を切ったように溢れてくる。
それも、理路整然と。
ミドリは、哲也を論破したいと思った。
やりこめてやりたい。
今までされたことを思ったら、このくらいの仕返しは当たり前でしょう?

「あなたは逃げているだけよ。もう一度輝いていたころに戻るための努力が面倒だから、逃げているだけ。私やスミレのせいにして。」
「何だと!」
「卑怯なのよ。スミレができたことは、私ひとりの責任じゃない。進路が変わったのだって、私も同じよ。高校を卒業できただけ、あなたはいいじゃない。私なんか中退よ!なのにあなたは、自分一人悲劇にあったみたいに思ってる!」
「違う!」
「違わないわよ。お酒飲んで、暴力振るって、誰のおかげで食べて行けるんだって恩着せがましく言って!!」
「恩着せがましいだと?」

「あのまま大学行ってたら、輝かしい未来が待っていたのにとでも思っているんでしょう?サッカー選手として注目浴びて、Jリーグ入って、モテまくって、ヒーローになれたはずなのにとかって。」
「そんなこと、考えていない!」
むきになって否定することで、哲也は自分の考えを見抜かれたと証明してしまった。

「あのね、あなた、勘違いしている。あなたは私たちのせいで輝かしい未来が失われてしまったと思っているんでしょうけど、それは違うわ。

輝かしい未来は可能性があるだけ。
努力して、行動して、実現させた時だけ、存在するの。
何もしなで夢見ている時には、何もないのよ。
最初から何もないものは、失うこともできない。
失えるのは、既に持っているものだけよ。

手に入れてもいないものを、失ったと考えるなんてどうかしている。
あなたは今から、今持っている「家族」を失おうとしているのよ。
その代わり、どうぞほしいものを手に入れてください。
それで、気が済むでしょう!」

バシンと頬が鳴った。






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スミレがお泊りに行った夜、ミドリは哲也の帰りを何年振りかで待ち受ける気分で過ごした。
今夜こそ、しっかりと話し合うのだ。
何が問題なのか、どうやって解決したらいいのか。
あらゆる覚悟はできていた。
スミレさえ手元に残れば、私は何もいらない。

とうとう哲也が帰宅した。
少し酔っているようだった。
帰宅時間もいつもより遅い。
このところ、時々あることだったので、ミドリは気にしかなった。

「晩ご飯の支度ができているけど。」
「食べてきた。」
「そう。それなら連絡くれたら嬉しいんだけど。」
「何だと?」

ほら、始まった。
でも、今夜の私はひるまない。スミレがいなんだ。気にしなければならないことは何もない。

「外でご飯を食べるときは連絡してほしいの。そうしたら、私、食費を無駄にしなくて済むわ。」
「俺の飯が無駄だというのか!」
論理も何もないことに、哲也は気付いているのだろうか。

「話したいことがあるの。あなた、私と結婚したことを後悔しているんでしょう?だったら別れて。あなたはあなたの生きたいように生きてほしい。」
遠回しに言っても聞いてもらえないことは分かっていた。だから、一番言いたいことだけを伝えた。

哲也は一瞬戸惑ったように見えたが、すぐに顔を真っ赤にして硬直した。
暴力を振るい始める前兆だ。
いつもは、この表情を見ると体がすくんで動かなくなった。いつの頃からか、意識もぼんやりするようになっていた。殴られている間の記憶はあまり残らない。痛すぎて覚えていないのだろうとミドリは思っていた。
これが「解離」と呼ばれる精神症状の一つであることを、ミドリは知らなかった。
しかし、この夜のミドリは少しもひるまなかった。

「殴るの?殴ったら何か解決するの?大学に行きたいなら行けばいい。サッカーをしたいならすればいい。あなたほどの実力なら、やりたいと思った時からやり始めたら、休んでいた期間のことなんか、すぐに取り戻せるでしょう。」

ひるんだのは、哲也の方だった。
いつもと違うミドリに、哲也は驚きを隠せなかった。
「お金のことだってそう。両方の家が助けてくれると言っているんだから、お願いすればいいじゃない。それを意地を張って拒否するから、あなたは仕事を辞められないと思っている。でも、それって身勝手。自己満足でしかないと思う。」

哲也の握りこぶしがブルブルと震えだした。
「まだ23歳じゃない。人生いくらだってやり直せる。あなた、サッカーから何を教わったの?」

哲也は答えない。唇が震えている。
「サッカーは思い通りにならないことばかり。思い通りにパスは通らない。ロングボールも期待した位置には落ちない。どんなに一緒に過ごしても、仲間がすべてあなたの意思どおりに動く日なんか来やしない。監督には気持ちが通じないこともある。相手が自分より何倍も上手いことだって、珍しくなかったじゃない。

それでも、腐らず、諦めず、何度も何度もやり直すのがサッカーでしょう?キックして、セカンドボールを競って、足元で止めて、気持ちを込めてパス出して。相手に1対1で立ち向かって、ミスを誘って、攻めてきたら防いで。シュートが決まるまで、それを何度でも繰り返すのがサッカーでしょう?

何度でも、自分ならやり直せると信じて、今できることに向き合うのがサッカー選手でしょう?1回怪我しても、またピッチに立とうと地道にリハビリして、仲間に応援してもらって、支えてもらって、再起するのがサッカー選手でしょう?

あなたがキャプテンでいられたのはね、あなたよりサッカーが下手なたくさんの部員たちに支えられていたからよ。気が利かないマネージャーたちにも。サッカーなんかやったことないのに顧問を引き受けてくださった先生にもね。あなたの才能は、たくさんの無能な人たちに支えられていたのよ。 

サッカーは、生きるのに必要なことを、全部教えてくれたじゃない!」






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スミレが、殴られている母親を以前は庇っていたのに、途中から押し入れに隠れて見ないようになり、今では部屋の隅で膝を抱えて見ているようになったのには、当然理由がある。

スミレはママが大好きだった。
何も特別なことではない。
子どもがママを好きなのは当たり前、といっていいだろう。

いくつかの先天性脳機能障害は、人生で最初に出会う、最も愛着を示してよいはずの母親に愛着を示せない。
眼で追うことも、抱かれて安心することもできない。
母親を嫌っているのではなく、脳のはたらきが愛情を表現することを許さないのだ。

しかし、母親といえども、生みさえすれば何もなしに海より深い愛情が無条件で湧いてくるものでもない。
目は見えているはずなのに、自分の方を見ようともしない、
名前を呼んでも反応がない、
抱きあげれば嫌がり、泣き叫ぶ、
そんな赤ん坊を見ていると、愛情を感じられなくなってしまっても無理はない。

育てにくい、と感じる。
つらい、と感じる。
努力すればするだけ焦りとストレスが募る。
何かの拍子につい、手が出る。
つい、きつい言葉で叱ってしまう。
こうして始まる幼児虐待はかなりの数に上るようだ。

幸運にもスミレはこのサイクルにははまっていない。
パパに殴られるママはかわいそうだった。
パパはあんなふうに怒らなければいいのに。

でも、真っ赤な顔をして、暴れる父親を見ているのは本当に怖い。
今度は自分が叩かれるのではないかと思うと、怖くてたまらない。
だから、押し入れに隠れることにした。
最初のうちは、押し入れは安全地帯で、ここなら大丈夫という気がした。

けれども、あっという間に安全地帯は消えた。
なぜなら、小さなアパートの一室のこと、両親が殴り殴られる音や声は押し入れにも届くからだ。
スミレは、暗がりの中で、押し入れの戸が思い切り引き開けられ、父親に引きずり出され、無残に殴り蹴られる自分を想像するようになった。
今来るか、もう来るかと思うと、全身が震えて止まらない。
母親の悲鳴を聞きながら、想像の中でスミレは何千回と殴られた。
子どもを壊すには、これで十分だった。

スミレは見えない恐怖に負けた。
押し入れを出て、両親を見ているようになった。
見ていれば、いつ自分の方に来るか、ちゃんと気付ける。

しかし、氷のように冷たい目が見ていたものは、もうかわいそうな母親ではなかった。
スミレの目の前で繰り広げられる光景は、だんだんと現実感を失い、単なる風景になった。
スミレの神経が侵され始めた証拠だったのだが、両親たちはそんなことに気付きもしなかった。

スミレ自身にとってもそうだった。
このころの記憶は、後に続く事件をきっかけに、スミレから失われることになる。






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「お泊りの日」を、珍しいことにスミレは楽しみにしているようだった。
やはり、この娘は家が嫌いなのだろうと、ミドリは心が痛んだ。
しかし、ミドリにとってもチャンスだった。 哲也とじっくり話し合わねばならない。

哲也の給料は、3人で暮らしていくにはギリギリのものだった。
両方の実家からは、何度も援助を申し出てくれていた。
ミドリはありがたく助けてもらいたいと、何度も哲也に頼んだ。
しかし、哲也は頑なに拒絶した。
決して親の世話にはならないと言う。

それでも、ミドリの両親は、ミドリがたまに実家に顔を見せた時などに、そっと小遣いを持たせてくれた。
「哲ちゃんにバレなければいいでしょう。あなただって、たまには欲しいものもあるでしょうし、スミレにもね。でも、あなたは嘘をつくのがヘタだから、やましくない程度にほんの少しだから。気にしないで持ってらっしゃい。」
ありがたくて、涙がこぼれた。

ミドリはそんな小遣いを、お守りの中に仕舞い込んだ。
神社からもらったお守りではない。
サッカー部のマネージャーをしていたころ、必勝祈願といって他のマネージャーたちと手縫いしたお守りだ。
哲也の分をミドリが縫った。
それを手渡した時、付き合わないかと哲也から言われたのだ。

お守りは毎年作りかえられる。
哲也が3年になった時、負けたら引退の試合を控え、マネージャーたち全員で少しずつ縫った新しいお守りが渡された時に、去年ミドリが縫ったものを引き換えた。
ミドリはその拙い縫いとりのお守りを、大事に大事に持っていた。

スミレのお泊りリュックを支度しようと、ミドリはお守りを取り出した。
中からそっとお札を出す。
そのお札で、新しいパジャマと下着を揃えた。
スミレが大好きなキティちゃんのハンカチも新しくした。

帰宅して、それらのお泊りグッズを見たスミレは狂喜乱舞した。
この子にはまだ、こんなに喜ぶ力が残っていたのか。
1時間、2時間。スミレはまだ喜んでいる。かわいいね、きれいだね。
ミドリは嬉しかった。嬉しすぎて涙がこぼれた。
スミレには気付かれまいとしたが、とうとう見つかってしまった。

「ママ、どうして泣いているの?どこか痛いの?」
「ううん。スミレが喜んでくれてよかったなぁって思ったら、なんだか泣きたくなっちゃった。」
「ママ、大丈夫?スミレがお泊りに行っても大丈夫?」
「うん。大丈夫。だってね、ママもおばあちゃんちにお泊りに行くんだよ。」
「ホント!?」

嘘だった。
けれども、自分がいない間に、哲也に殴られる自分を心配している娘に、安心してお泊りを楽しませてやるには、嘘くらいどうということはない。お母さんには嘘が苦手と言われたけど、私だってもう子供じゃないのよ。

「さ、パパが帰ってくる前に、リュックに仕舞っちゃおうね。」
「うん!」

片付け終えたところで、哲也が帰宅した。
スミレにとって、その夜が哲也を見た最後になった。






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ミドリも同じ勘違いをした。
何と言っても、高校を中退してまで愛した男だ。
この人の子どもなら、絶対に生んで育てようと決心した相手だ。
不都合が起きたからと言って諦めたら、自分の人生はなんだったというのだ。
なんとかこれをうまく乗り切ること。
それしか選択肢はないと思われた。
哲也が立ち直るためになら、何でもしようと思った。 

二人の両親には、このことは秘密にされた。
哲也からも黙っていてくれと懇願されたし、言われなくても口外する気はなかった。
そんなことをしたら、両親は別れろというに決まっている。

ミドリは、なぜ哲也がこんなに変わってしまったのか、うすうす気づいていることがあった。
初めて暴力を振るわれてから2年がたっている。
スミレは幼稚園に通うようになっていた。
日中、スミレから手を離せるようになり、ミドリは何か行動を起こさなければならないという気になっていた。

もっと早く保育園に預けようと考え、ずいぶん調べもしたし、申し込みもした。
しかし、働いていない母親と、近所に住む祖母たちの存在は、ミドリとスミレを保育園に近づけてくれなかった。
預けなければ働けません、というミドリに、担当者は「働き始めたら申し込みに来てください。みなさん、そうなさっているのですよ。」と答えるばかりだった。

祖母たちに預けて働きに出たいと言うためには、なぜ働きたいか説明しなくてはならない。
うまく説明する自信がなかった。

スミレはすっかり大きくなっている。
毎日のように母親が殴られる姿を見て、平気なはずはない。
哲也がスミレに手を上げないことだけが、ミドリの救いだった。
しかし、直接殴られなくても、受動喫煙と同じように、痛みは娘にも及んでいるのだろう。
もはや猶予はないと思われた。

その日は、ミドリが指折り数えて待った、スミレの「お泊りの日」だ。
家からも近い公民館に、年少さんがそろって一泊する。
スミレはおとなしい子に育った。
わがままも言わず、ふざけることもない。感情を表に出さない子だ。
時々、大人のような目をしてミドリと哲也を見つめる。
その目を見ると、哲也が激昂するので、ミドリにとっては脅威だった。

哲也が暴力を振るい出すと、初めの頃は「やめて、ママを叩かないで」と叫び泣いていたスミレだったが、いつしか押し入れの中に隠れてしまうようになった。
ところが、幼稚園に入ってから、スミレは隠れない。
部屋の隅に膝を抱えて、じっと親の姿を見ている。
じっと、黙って見ている。
その目は、氷のように冷たかった。






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