Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

2012年10月


病室の会話が途切れて、頭を深く下げた自分に視線が注がれているのを感じながら、私は声をかけられるのを待つしかありません。でも、沈黙はとても長く感じて、いたたまれなくなった時でした。二人分の笑い声が聞えました。

「おやおや、話題の主が飛び込んできた。お嬢さん、こちらをちゃんとご覧なさい。」
おばあちゃんの声がして、私は恐る恐る、顔をあげました。
きっと大きなベッドだろうという予想に反して、おばあちゃんが寝ていたのは、普通のサイズの、病院のベッドでした。背中のあたりが斜めに持ち上げてあります。

ベッドの脇に向かい合うように、これは普通病室にはないような椅子がありました。そこに腰かけている、黒いスーツ姿の男性を見て、私は凍りつきました。目が吸い寄せられるようで、身動きがとれません。声なんか、どこに行ったかわかりません。

「後藤は今日、家の方にいるのですよ。まったく、粗忽なお嬢さんだ。」
おばあちゃんは笑いをこらえられないような明るさです。でも、そんなことはどうでもいいほど、私は衝撃を受けていました。

「弓子さんですね。初めまして。お話は後藤さんからたびたびうかがっています。」
黒いスーツが立ちあがって話しかけてくれたのです。テレビで、テノールのオペラ歌手が歌っているのを聴いたことがあります。そうだ、まるであんな声だ。それにしても…

「これ、お嬢さん。いい歳をして挨拶もできないとは情けないね。」おばあちゃんの容赦ない声がします。お嬢さんというかと思えばいい歳だという。まったく勝手ねぇと、今ならば思えるけれど、その時はそんな余裕はありませんでした。

「あ、かあさんのお店で働かせていただいています、嵯峨弓子と申します。」
「私は大奥様のもとで執事をさせていただいています、安住です。」
安住さんはそう言うと、歩み寄ってきて握手をしたのです。安住さんの大きな温かい手を感じると、私は先ほどまで以上に呆然となってしまいました。







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こうまで大きいと、病院というよりもはやホテルを思わせます。エントランスのオレンジ色の光も、心穏やかでなくてはいられないよう作られているとしか思えません。大学病院では、外来受診も会計も、びっくりするほど長い時間待たされるのが普通だからだと、私は勝手に思いました。でも、実際のところは、それほどでもないのかもしれません。

「どちらにしろ、おばあちゃんはファストパスを持っているんだろうなぁ。」
変な想像をしながら、キョロキョロと受付を探しました。事務員というよりはコンパニオンのように美しい女性が、慣れた手つきで受話器を手にしました。「どうぞ最上階へお上がりください。」

ますますホテルだわと驚きながら、エレベーターに乗りました。ストレッチャーがそのまま乗れる大きさのエレベーターに一人で乗ると、どうしても入口の隅にへばりついてしまいます。エレベーターの高度があがるにつれ、心拍も上がって、私は全身の脈がドクドクと音を立てるのを聞いていました。

ここは、何?
廊下にじゅうたんがないことを除けば、本当にリゾートホテルのようです。とはいえ、私はリゾートホテルの最上階に上がったことなんか当然ありません。全て映画やテレビからの知識です。目指す部屋はすぐにわかりました。

ドアが少し開いていて、中の様子が見えました。シャンデリアが下がっている!!大きなソファーに孔雀のように美しいクッションがいくつも!!ベッドは見えませんでしたが、おばあちゃんのよく通る声が聞えました。
「まあ、そんなことを言われたの?それで、あなたはどうしたの?」

答えている人は男性のようですが、少し低い、いかにも丁寧な答えの内容は聞きとれません。
「私、ここまで来られたわ!合格っ。ということで、帰るわけにはいかないわよね…」
胸の中での独り言に、”宿題をしない小学生”というかあさんの例えを思い出しました。

恥の上塗りになろうとも、ここは自分でしでかしたことに自分で責任を持たなくてはなりません。
私はドアをノックすると同時に部屋に飛び込みました。そして、先ほど声がした気がした方向に向かって頭を下げると、前を見ないまま言いました。「後藤さん、ごめんなさい!私、ひどいことを言いました!」







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かあさんやおやじさんと話しているうちに、私は何が何だか分からなくなってしまいました。自分はわがままだとか、行動力がないとか、気付いている欠点を誤魔化そうとしているとか、この会話で自覚したことは、どれもこれも不愉快なことばかりでした。

どこか、頭の隅の方で「それもこれも、後藤さんが変なこと言うからよ。」という声が聞こえていました。けれど、これも自覚した端から、「違うわ。人のせいにして、自分がしたことを誤魔化そうとしているだけね。」と思います。本当に不愉快でした。

その不愉快は、黙りこんで考えに沈むうちに、だんだんと苛立ちに変わっていきました。店の隅に座っているプーさんが憎たらしくなってきて、もしも私が少女なら、頭の上まで抱き上げて、ポイッと投げてやりたいような衝動に駆られていました。けれど、私は既に35歳の淑女。そんな子供じみた真似はできません。

そんな私をそっと見ていたのでしょう。かあさんが言いました。
「弓子姉さん、気分転換と、問題解決、どちらをお望みですか?」
何か他のことをして気が紛れるくらいなら、最初からため息をついたりはしない気がしました。

「問題解決を。」
「では、いっていらっしゃい。」かあさんは、後藤さんがいらっしゃる、おばあちゃんの入院先をメモしてくれました。「今すぐ、まっすぐよ。」かあさんに念を押され、店を出ました。

夜の営業は17時から、私が店を出たのは丁度17時でした。面会時間は20時までと聞き、一度帰って着替えたいとかお見舞いの品を選ばなきゃとかいう言い訳を聞いてやっていたら、間に合わなくなってしまいます。本当に、今すぐ、まっすぐだわ。

もうすぐ暗くなってしまいそうな道のどこかから、キンモクセイの香りがします。どこにあるのかと見回しても、一向にわかりません。甘く広く漂う香りは、「さあ、前に進んで!」と言っているような気がします。「とにかく、病院に行けたらマルってことにしましょう。」自分のハードルを思いっきり低くして、私は歩き始めました。







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おやじさんの話の途中から、私は首筋がピリリと痛むのを感じました。緊張していたのでしょうか。気付けばおやじさんは汗をかきながら語りかけてくれています。私は行動が足りない?ああ、見抜かれていたのです。その通りだと思いつつ、でも人から言われるのはなんだか嫌な気分でした。

「あなた。弓子さんに失礼よ。」
かあさんが、珍しくきっぱりとした厳しい口調でおやじさんをたしなめました。
「弓子さんはあなたの娘ではないのよ。それに小学生でもないの。宿題をやらない子供を叱るような言い方は本当に失礼だわ。」

「すまなかったね、弓子さん。」
おやじさんは微笑が浮かんだ笑顔で謝ってくれました。
「いえ…」

「俺は、弓子さんが自分を『孤独』だと言うのが耐えられなかったんだ。俺たちがいるじゃないかって思って。弓子さんは毎日一緒にいる俺たちをなんとも思っていないのかと淋しくなってしまった。すまなかったね。確かに、かあさんが言うとおり、大人のあなたに対して失礼だった。」

「いえ、おやじさんのおっしゃる通りなのです。行動力がないのです、私。足りない点があるなと思っても、素直にそこを埋めるための行動を起こさず、少しでも楽をしようと、何か適当な誤魔化し方はないかな?と考えてしまうのが私なんです。

行きたいところ、してみたいこと、全部同じです。向こうからチャンスがやってきて、腕を引っ張って連れて行ってくれるなら立ちあがるけど、自分からは立てない。気付いたら期限が切れた入場券とか、公開が終わってしまった映画とか、そんなのばかりです。

時々、自分は勝手に孤独に向かっているのだと思うことがあります。でも、どうしたらいいのかわからないのです。天から王子様が降ってきて、私を引っ張って行ってくれるのを期待しているだけ…。だからこんななのですね。」







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「でも、絶対無理だし、自分には関係ないことでわがまま言われても…。」
私はまた悲しくなってしまいました。
「弓子姉さん。『絶対』とか『関係ない』とか、軽々しく言ってはいけないよ。確かに日は浅いけれど、今では弓子姉さんは私たちの家族の一員だと思っているよ。

それは多分、後藤さんも一緒だと思う。それに、弓子姉さんの将来は今で終わりではないだろう?今子供も恋人もいないからって、将来にわたってずっとそのままとは限らないし、無縁仏になるなんて、今から心配してどうするんだい?

人はね、今生きているのは確かだけど、次の瞬間も生きているとは限らないんだ。そのことを、日本人は改めて知ったばかりだよね。どんなに大切に思われていても、失われるときは失われてしまう。どんなに投げやりに生きていても、生き延びるときは生き延びる。

命の長さは神様が決めることなんだよ。それを人間の我々があれこれ思い悩んでもしかたない。それより、生きている今をどうするかに集中してみないか?今何が見えるか、何を聴いているか、何を感じて、何に触れているか。何を吸いこみ、何を味わっているか。

そして、もし次の瞬間も命が続くなら、何を見たいか、聞きたいか、感じ、触れ、吸いこみ、味わいたいか。だけどね、弓子姉さん。」
おやじさんは、一度、大きく息を吐き、それから吸い込みました。

「感じるだけではダメなのだよ。考えているだけでもダメだ。感じないより、考えないより断然いい。でも、それだけではダメなんだよ。行動するんだ。体を動かすんだ。感じただけで、変化が起きる。それを深く考えると、さらに変化が起きる。行動するとね、もっと大きな変化が起きて、人生が転がり始めるんだ。

弓子ねえさんだって、今までたくさん行動してきたと思う。ここに飛び込んできたときだって大した度胸と行動力だったね。だけど、まだまだ。あなたにはまだ行動する余地がたくさんあると思うよ。そうは思わないかい?」







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壁の巨大なカピバラをぼんやり眺めながら、私は当惑していました。かあさんが言った「わがまま」「甘える」どちらも、自分ではしないことと、いえ、できないことと思っていたからです。
それをしたと言われたこともショックでしたが、やはり困らせたろうと思うとそちらがなおさらショックでした。

「後藤さんに甘えるなんて、こちらの従業員の分際で、とんでもないことです。やはり、後藤さんにお詫びしなくちゃ。だって、あれからこちらに一度も見えないし…。」
「あら、弓子さん、後藤が来るのを待っていたの?」

かあさんに聞かれて、私はハッとしました。
「いえ、待っていたわけでは…。でも、あの…。」
「後藤はもともと、三ヶ月に一度ほど、兄からの贈り物を携えて、そっと来てすぐに帰っていたのですよ。主人にも気付かれないよう気遣いながら。」

「そうだったんですか。」
「それに、今は母の病院に付き添っていますから、抜け出せないのでしょう。」
「え?おばあちゃんは入院しているんですか?こちらからいなくなって、どうしていらっしゃるかと思っていました。」

「まったく気まぐれな人だから、こちらを出てすぐに入院したのよ。明日で1週間になるわね。さぞかし退屈して、看護師さんたちを困らせていると思うわ。本当は完全看護で付き添いなどいらないのですけど、母のわがままに付き合うには、後藤くらい熟練した大人がいないとね。」

「そうでしたか。」
少し驚いている私に、今度はおやじさんが言いました。
「それにね、弓子さん。男というのは、わがままを言ってくれる女性を、ちょっとかわいいと思うようにできているんですよ。」

「かわいい??迷惑ではなくて?」
「そりゃ、いつもいつもわがままばかりでは疲れるし迷惑でもあるけど、普段は健気で甘えることなんか絶対しなさそうな女性が、珍しくわがままを言ったりすると、『ああ、この女性は俺を信頼してくれているんだな、どうにかしてこの望みを叶えてあげたいな』と思ってしまう。わがままが無理難題であるほど、真剣になったりするものなのですよ。」







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『弓子さんは今までたくさん苦しい思いを味わってこられたのですね。なのによく、ここまで生きてきてくださいました。お辛かったですね。今こうしてお近づきになれて、私は嬉しく思っております。』と、後藤さんはどこまでもお優しい言葉で私の苦労をねぎらってくださいました。

なのに、私、素直に聞けませんでした。
『私の辛さなんて分かるわけもないのに!本当に嬉しいと思ってくださるなら、私の辛さを減らしてよ!どうして私ばかりこんな思いをしなくてはならないの?』って、怒りが爆発してしまったんです。

今思うと、八つ当たりもいいところです。後藤さんは何も悪くないどころか、全然関係ないじゃありませんか。それなのに私ったら、涙まで流して、「この淋しさ、どうにかしてよ!」なんて言ってしまいました。もう、酔っ払いよりたちが悪いです。

ああ、いっそ酔った上での出来事で、全て忘れてしまっていたらよかったのに…。後藤さんにお詫びをしなくてはと思うのだけど、あまりに恥ずかしくて合わせる顔がなくて…。」
私はかあさんの顔を見ることさえできません。

小さな笑い声が聞えた気がして、私は顔を上げました。かあさんは笑っていました。
「もう、笑わないでください!」
「ごめんなさいね。でも、その時の後藤の顔を想像すると、おかしくて。」

「おかしくないですよぉ。後藤さんは悪態ついている私をちゃんと家まで送り届けてくれたんです。かあさんのご命令とあれば、後藤さんは絶対ですものね。でも、きっとうんざりなさったと思うわ。ごめんなさい、かあさんの大事な執事さんに失礼なことをして。」

かあさんは、笑顔のままで言いました。
「弓子さん、あなたはそんなわがままを平気で人に言えるようなご性格かしら?違うでしょう?だとしたら、あなたは後藤のことを信頼できる人物だと思って、ちょっと甘えてみたくなったのではないかしら?」







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「後藤に失礼なことって?」
かあさんはとても不思議そうな顔で私を見ています。その顔は、後藤はそんな簡単に「失礼」などとは思いませんよと言っているようでした。

「あの夜、私はどうかしていたのです。かあさんと分かれて歩きだしたら、突然ものすごく淋しくなってしまったのです。私は孤独だなぁって、改めて思い知ったというか、もうどうしようもなく、不安になってしまいました。

だって、かあさんにはおやじさんがいて、後藤さんがいて、お兄様とかご親戚とか、見守ってくださっている方がいらっしゃるでしょう?後藤さんもそうです。独身だとおっしゃるけれど、いつもお屋敷のみなさんと一緒で、孤独とは無縁です。年老いても、きっとお屋敷の皆さんが、後藤さんを大事になさるでしょう?

でも、私は違います。両親とは折り合いが悪く、もはや修復の見込みはありません。唯一理解し合えた弟は、もはやこの世の人ではありません。この歳で、子供どころか恋人すらいないんです。このまま年老いて、どこかの老人ホームで一人死んでいくのかと思ったら、無縁仏になって、誰ひとりお参りにも来ない土に眠るのかと思ったら、悲しくてしかたなくなったのです。

ディズニーランドの楽しい時間は夢のようでした。でも、夢なら覚めるのもまた道理です。どんな感情も感じればマル。だから、この孤独や悲しさも、感じられたからマルだとは思いました。けど、どうしようもなく、もてあましてしまいました。

私が突然何も話さなくなったと、後藤さんは心配してくださいました。きっと私が疲れたのだと思われたのでしょう、とても優しく「今日は楽しゅうございましたでしょう、私は恐ろしくて今夜は眠れそうにございませんよ」などと、気持ちを引き立てるように話しかけてくださいました。

なのに、私は後藤さんにひどいことを言ってしまったのです。
「後藤さんはいい人たちに囲まれてお幸せです。私の孤独や苦しさなんて分かりっこないわ!」
後藤さんはとても驚いていらっしゃいました。当然ですよね、責められるいわれなんてないんですから。







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「ねえ、弓子さん。無理にとは言わないけれど、よかったら話してちょうだい。何があったの?」
かあさんに問いかけられて、私ははっと現実に戻りました。夜の営業前、店の掃除をしている時でした。自分ではしっかりと働いているつもりだったのに、なぜかあさんに気付かれたのでしょう。

「この休憩中に7つめの大きなため息。思いが何もない人が、そんなため息をついたりはしないわ。体調がすぐれないのですか?疲れているなら休んでいいのよ。」
どうやら私は知らず知らずにため息をついていたようです。

「ご心配をおかけしてしまってごめんなさい。でも、何でもありません。少し考え事をしていて。」
「何か辛いことでもありましたか?私では力になれないかしら?」
かあさんは、常よりも熱心に問いかけてくれます。

「いえ、辛いことではありません…。ちょっと失敗したというか…大人げないことをしてしまって、恥ずかしいと言うか…。」
「聞かせて、弓子さん。」

かあさんは私の手を取って椅子に座らせました。いつの間にか、働かせてくださいとお願いした夜に座ったこの椅子は私の定位置になっていました。かあさんもいつもの椅子に腰かけます。私はあまりの恥ずかしさに黙っているつもりでしたが、これは白状するしかなさそうです。

とはいえ、なかなか言い出せなくて、意味もなく店の中を見まわしました。一番奥の角に置かれた椅子に、ちょっと大きめのプーさんが座っています。先日ディズニーランドに行ったとき、かあさんがおやじさんにと選んだおみやげのぬいぐるみです。ああ、あの日、なぜ、私はあんなことを。

「実はですね、かあさんとディズニーランドに行った日の帰りのことなのですが…。」
「ええ、あの日は本当に愉快でしたわね。あの日に何か?」
「かあさんがおっしゃったから、後藤さんが私を家まで送ってくださったんですけど、私、とんでもない失礼をしてしまったんです。」







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