Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

2012年08月


「大丈夫ですか?」
夜の営業が終わった後、いつもの椅子に座って考え込んでいるおやじさんに、声をかけてみました。大丈夫なはずありませんが、何と言っていいかわからなかったのです。

「心配かけるね。」おやじさんは不安を隠せない性格のようです。
「あの、私、後藤さんから名刺をお預かりしたんです。もし大奥様に何かあったらすぐにお知らせするようにと言われて。お呼びしましょうか。」

「ああ、そうだね。後藤さんならかあさんとお母様がなぜあんな関係になったのか知っているかもしれないね。夜に申し訳ないが、来てもらおうか。」
私はすぐに後藤さんに連絡しました。後藤さんはあっという間にやってきました。

おやじさんが、出来事を説明すると、後藤さんは「やはり…」と俯いてしまいました。しばらく考えた後、静かに顔をあげた後藤さんは、長い独り語りを始めたのです。

「あれは、花亜様が中学生になったばかりの頃のことです。旦那様が病にお倒れになりました。白血病でした。今でこそ、治療できる病気になりましたが、当時は命取り。だんなさまはご自宅で療養するしかない状態でした。

花亜様にはお兄様がいらっしゃいます。誠一郎様とおっしゃいます。当時誠一郎様はロンドンに留学中で、ご本宅には大旦那様のほか、大奥様と花亜様、執事でありました私の父のほか数名の使用人がおりました。

大旦那様はそれはそれはお優しい方でした。私ども使用人にも、時折遊びにみえる総理大臣や皇室の方にも、同じように丁寧に接してくださいました。
私、子ども心にも、父の後を継ぎ、この方のためにお役に立つことを誇りに思っておりました。


「弓子姉さん、看板を書いてみませんか?」働き始めて1週間ほどだったでしょうか、かあさんが声をかけてくれました。私はちょっとしたイラストとかレタリングとかが大好きです。「喜んで!」小さな黒板に駆け寄りました。

その時でした。厨房からお母様の声がしました。「ところで、久弥。この店の収支はどうなっているの?利益はどのくらい上がっているの?」
「収支…利益といっても、まぁ、こうしてかあさんと二人質素に暮らせるくらいです。」

おやじさんの答えが終わるか終わらないかで、かあさんが厨房に飛び込んで行きました。そうして悲鳴のような声で言ったのです。
「やめてちょうだい!ここは私たちの店なの!いえ、久弥さんの店なのよ!」

おやじさんも、私も、心底驚いてしまいました。店の机や椅子もガタンと震えたような気がします。かあさんがこんな声を出すなんて。店の利益の話が、なぜそんなにいけないのでしょう。

「店をやる以上、利益を上げるのは当然でしょう?」お母様は面白半分のようです。「いいえ、いいえ!ここは久弥さんの店です。お母様のご意見はいりませんわ!」まるで叫ぶように言うと、かあさんの目から涙がこぼれ落ちました。

「花亜。強情な子だこと。あなた、少しも変わってないわね。だからこんな粗末な暮らしをすることになるのよ。」
「出て行って!」かあさんは泣きながら言って、自分が出て行ってしまいました。

「まるで子どもね。」お母様はため息をつくと、部屋にひきとってしまわれました。おやじさんはかあさんを探しに行き、そっと連れ帰ってきて部屋で休ませました。それから店にもどってきて、夜の営業を始めたのです。


融は、息を引き取る直前に、おかしなことを言いました。「姉さん…被害者…いけないよ。」あれからずっと考えているけれど、意味がよくわかりませんでした。弟は何を言いたかったのでしょう。被害者とは誰のことでしょう。

それも、このカピバラ食堂で働いているうちに分かるのではないかという予感がしました。いえ、予感ではなく、期待したのかもしれません。とにかく、私はカピバラの絵が入ったエプロンをして、ここで働けることになりました。

翌日、かあさんのお母様とおっしゃる方がみえました。かあさんは何とも品の良い方だなぁと思っていましたが、どうやらとてつもない財閥のお嬢様のようです。そのお母様が、かあさんと同居することになりました。

そんな財閥のお嬢様がなぜ、言っては何ですか庶民の代表のようなおやじさんと結婚し、エプロン掛けて一日中働いているのか、私にはまったく理解できません。それ以上に理解できないのは、そのお母様です。

素直と言えば素直なのでしょう。思ったことをそのまま遠慮なく口にされるようです。私が初めてお会いした時の一言は「あら、辛気臭い顔をして。」でした。それはそうでしょう。今陽気な顔をしろと言われても無理ですもの。

お母様は癌を患っていて、余命いくばくもないとおっしゃいます。それでずっとお暮しだったパリを離れ、帰国されたようです。望めば、いくらでも最先端医療を受けられるんでしょうに、どうして今、ここにいらっしゃるのでしょう。

ともかく同居が始まりました。かあさんは日に日に顔色が悪くなって、無口になっていきました。反対に、ユニクロのTシャツを嬉しそうに着たお母様はどんどん元気になっていくようです。それは、いたたまれない光景でした。


仕事を辞めました。融がいなくなって、何も頑張る気になれませんでした。1ヶ月ほどたった時でした。融の携帯電話がないと聞いたことを、不意に思い出しました。あの子は最後の晩、私と観劇に行く時、ノースリーブを着てきました。上着を持っていたはずです。

もしかしたら『カピバラ食堂』に忘れてきたのかもしれないという気がしました。携帯電話も上着のポケットに入っているのではないでしょうか。弟の葬儀以来、ろくに外出もしていませんでしたが、この時は体が動きました。私はカピバラ食堂に向かいました。

残暑の街は息苦しく、どこを探してもまだ秋の匂いはありませんでした。私は営業時間が終わるころを見計らって、カピバラ食堂の暖簾をかき分けました。引き戸を開けた私を見るなり、かあさんが融の上着のことを思い出してくれました。

センスの良い子でした。麻の上着を手にした途端、私に融の体温が伝わってきました。赤ん坊のあの子を背負っていた時の重みや、耳元に聞こえる声を思い出した時、私は立っていられなくなりました。1ヶ月こぼれなかった涙がとめどなくあふれてきました。

私が初めてカピバラ食堂に来たのは、まだ「やじろべえ」という名前の時でした。付き合っていた彼とお酒を飲もうと入ってみたら、飲み屋ではなく定食屋でした。しかたなく注文したご飯の美味しいこと美味しいこと!

こんな店に引き寄せられる私たちはきっとうまくいくと思った彼とは、あの晩別れてしまったけど、それまでは何度も、ひとりで、弟を誘って、友達と、食事に行きました。お味だけでなく、お店の人たちに惚れこんでいたからです。

なんとも気持ちの良い、私の知らない世界の住人たちのようでした。だから迷わず、おやじさんに「ここで働かせてください!」と言ってしまいました。運命だと思いました。融がわざと上着を忘れて仕組んでくれた、私の運命なのだと。 







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融が突然死んでしまいました。私は何もかも、嫌になってしまいました。
私の人生は、どうしてこんなに辛いことばかり起きるのでしょう。
あの頃の私は、それ以外考えようがありませんでした。

11歳も年下の弟は、私の息子のようなものでした。
本当のところ、子供どころか結婚もしていない私が息子などと言うのはおかしな話です。けれど、本当にかわいい、かけがえのない存在でした。

どうやら、あの子と最後に会ったのは私のようです。私をマンションに送り届けた後、彼は飲まないはずの缶チューハイを2本、コンビニで買ったようです。それをなぜか、家の上にある公園で飲んだようなのです。

酔って階段を踏み外し、意識を失った弟を発見したのは、早朝、犬の散歩に出た近所の人でした。弟は怪我をしたまま一晩、倒れていたのです。空き缶の入ったコンビニ袋が、弟の手首ににかかっていたと聞きました。

虫の息のところを病院に運ばれ、両親に連絡があり、私も駆けつけました。が、あっけなく、弟は息を引き取ってしまったのです。信じられないことでした。前の晩、ふたりでひとつのオムレツを食べたのに。

ドラマでは、大切な人が死ぬと遺骸に取りすがって泣き叫びますけれど、私は涙ひとつこぼれませんでした。悲しいとも辛いとも思いませんでした。ただ、腰の骨がひとつコンと取り外されたような、なんともいえない気持ちでした。

通夜だとか葬儀だとか、あまりよく覚えていません。火葬場で白い骨になったあの子を見た時、何か悪い夢でも見ているような気がしただけでした。「姉さん、姉さん」と、電話がかかってくるような気がしてならないのです。 







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どうも、勘助です。
かあさんもおやじさんも、ヒツジもどきの後藤さんも絶句しました。私は、ばあちゃんが座った時、もしやと思ったことが当たってしまい、当惑していました。

人間、命のともしびが消えようとする時、お尻の肉が薄く薄くなっていくのをご存知でしょうか。帳尻を合わせるといいますが、命の帳尻の尻の部分が、命と一緒に消えていくのです。その薄さを、私は感じとってしまいました。

「お、大奥様。そのようなこと、後藤は聞いておりません。」
「それはそうでしょう。誰にも話していませんもの。医者たちには口止めしましたしね。自分のことを他人に先に話されてたまりますか?」

「そういうことではございません。診断は確かなのでございますか?セカンドオピニオンは?治療の余地はないのでございますか?」ヒツジもどきはばあちゃんにとりすがって、必死の様子です。でも、ばあちゃんは笑っています。

「落ち着きなさい、後藤。いい歳をして見苦しい。できることはしたつもり。病院で管につながれてでも生きたいならば手はあるらしい。でも、私がそんな質の悪い時間に耐えられると思って?ムリムリ。人生楽しまなくちゃ。」

「大奥様…」ヒツジは言葉が継げなくなりました。
「で、花亜。私ね、庶民の暮らしがしてみたいの。物や人が私に合わせるのではなく、私があるものに合わせる暮らし。やっていないのはそれくらいだから。」

「それならお母様、ここより病院の環境に合わせてお暮しになれば、お楽しみもでき、お命も伸びますのに。」かあさんは笑顔で言い返しました。
「いやよ。病院には…」ばあちゃんの答えはよく聞こえませんでした。







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どうも、勘助です。
翌日はばあちゃんがやってきました。
このばあちゃん、かあさんが言っていたとおり、本当に只者ではありませんでした。

店に入ってきた時、ばあちゃんはスヌーピーのTシャツに木綿のハーフパンツ、クロックスといういでたちでした。「ボンジュール、花亜。あなた老けたわね。こちらが旦那様?まぁ、熊さんみたいね。」

新装開店の日に、大きな花束を抱えてやってきた後藤というヒツジもどきが後から入ってきました。「花亜様、大奥様をご案内いたしました。」「ごくろうさまでした、後藤。」かあさんが答えます。なんだか、なんだか…

「長くごあいさつできずに申し訳ありません。夫の久弥です。」おお。親父さんがそんな名前とは知りませんでした。ばあちゃんは「久弥。私の息子。めんどうをかけます。」と、少しの遠慮もない声です。

どうぞおかけくださいとおやじさんに言われて、ばあちゃんは私に腰掛けました。なんで私なんだ!ん?あれ?おや?
これは、もしかして…もしかして………

かあさんがようやく声を出しました。「お母様。なぜ那須のお兄様のところや花音の本宅ではなく、こちらをお選びになりましたの?私のこと、お嫌いなのでしょう?私、子どものころより一層扱いにくくなりましてよ。」

かあさんの声は、少しも怒っていません。緊張も、失望もありません。不思議な声です。「ああ、それはね。」ばあちゃんがまた、不思議な声で答えます。
「私、癌であとわずかな命らしいの。だったら一番スリリングなところで暮らそうと思って。」







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どうも、勘助です。
泣きやまない弓子さんに、かあさんは言いました。
「泣きたい時には泣けるだけ泣いていいのよ。」

弓子さんはハッと顔を起こしました。
「そんなこと言うの、融だけかと思っていました。」
どうやら弓子さんは、本当に辛い境遇であったようです。

かあさんが、優しい声で言いました。「私は不器用で世間知らずで、本当に何もできないのです。でも、夫はそんな私をあるがままに受け入れてくれました。私は私でいいのだと思わせてくれたのは夫のおかげです。」おやじさんが照れています。

「夫に出会うまで、私は自分の運命を呪っていました。神様に意地悪をされたと感じていましたし、前世で何か罰が当たるようなことをしたのだろうとも思っていました。自分の運命に対して、私はとても無力でした。

けれど、夫に出会って気付いたのです。世界は広く、人は多く、自分が選びさえすれば、私は認められ、愛され、誰を責めることもなく平和な気持ちで生きていくことができると。」

「あの、お願いがあります!」弓子さんが突然大きな声を出しました。
「私をこちらで働かせてください。仕事はもう辞めました。料理は得意です。掃除もします。根気強いほうだとも思います。勘もいいです。お願いします!」

「いいですよ。」おやじさんはニッコリと微笑んで、答えました。「ちょうど人手がほしかったところです。明日からでも来て下さるとありがたい。」
「もうひとつ、お願いが。融が私を呼んだように、私を姉さんとよんでください。」 







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どうも、勘助です。
彼女の名前は弓子さんといいました。弓子さんの話を聞いているうちに、不肖勘助、涙が止まりません。隣で兼続もすすり泣いています。半兵衛は号泣です。

先月、弓子さんはここで男に別れを告げられたのですが、その様子を、年の離れた弟の融さんが偶然見ていたのです。融さんはたいへんなお姉さん子で、その日も自分で注文したカピバラオムレツを一緒に食べて帰りました。

いつものようにマンションに送ってもらい、融さんはご両親と暮らしている実家へ帰ったそうです。が、翌朝早く、普段連絡などしてくることがないお母さんから電話があり、融さんが大変だと聞かされました。

弓子さんは病院にかけつけました。融さんの帰り路には長い階段があるそうです。普段まったくお酒を飲まない融さんが、なぜかその時は飲んだようで、階段を踏み外してしまったのです。一度は途中で止まったのに、また落ちたのでしょう。

融さんは頭を強く打っていました。弓子さんがかけつけると、かすかに意識が戻りました。「姉さん、被害者…いけないよ。」そんなふうに言ったような気がしました。何?と問いかけましたが返事はなく、そのまま息を引き取ってしまいました。

突然の出来事に動揺したご両親は、その晩一緒にでかけたはずの弓子さんを責めました。お前が一緒にいながら何をしていた、お前のせいで融が死んだのではないかとまで言われたそうです。なんということでしょうか。

私がいけないのですと、弓子さんは言いました。私を心配して心を乱して、ふとお酒に手を伸ばしたのでしょう。近くに缶チューハイの空き缶が2本入ったコンビニの袋が落ちていたそうです。私が弟を…弓子さんはまた泣き出しました。


どうも、勘助です。
かあさんが打ち明け話をした夜、おやじさんは何度も何度も迷った挙句、とうとう意を決したように尋ねたのです。

「かあさん、かあさんがそこらへんの家の出身でないことくらいは分かっているよ。嫌ならば無理に言うことはないが、どういった家なんだ?他の家族や親類はいまどうしている?」

かあさんは真っ赤になって俯いています。おやじさんの耳元にかわいらしい唇を寄せて、ひそひそと話しました。「ええっ!!!!」おやじさんは目をまんまるにしてのけぞり、お美代と一緒に後ろへひっくり返ってしまいました。

さて。
明日はばあちゃんが来るという、前日のことです。見覚えのある女性客がやってきました。以前は長い黒髪をしていましたが、今日はすっかり短くなっています。そうそう、この店で男と別れたんです、この女性は。

「あのう」その女性が言ったとたんに、かあさんが「あっ。いつお越しになるかとお待ちしていました。これ、先月いらしたときに、お連れ様がお忘れになった上着です。お届け願えましょうか?」

かあさんが取りだした上着を見た途端、その女性はひったくるように受け取ると、「融、融…」と上着を顔に押し当てて、泣き崩れてしまいました。あまりの泣き様に驚いたかあさんは彼女を抱き起こすと、奥へ入ってしまいました。

店を閉めてから、おやじさんとかあさんは、ようやく落ち着いた彼女と話を始めました。私にはいつものようにかあさんが座り、お美代にはおやじさん。隣から持ってきた兼続に彼女が座りました。







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