Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。

2012年05月


あ〜疲れた。
今日は珍しく18:30に退勤できた。21:00。もう寝ちゃおう。書類も出したし、懸案の問題も、さすがに今夜は憂いないだろうし。

ケータイかぁ。充電が必要だから寝室には持ち込むけれど、今夜は爆睡したいなぁ。どうせ爆睡していて緊急連絡が受け取れないなら、いっそ電源を切ってしまおうか。そうだ、そうしよう。今夜くらいは大丈夫だろう。

プッ。
あ〜、なんだか寝室の電磁波が消えた気がする。気分いいなぁ。私の夜は私だけのもの〜^^ なんちゃって。さ、寝よう寝よう。

……目がさめちゃった。何時だろう。ケータイ、電源入れるか。目覚まし代わりだしなぁ。2:00かぁ。深い眠りだったなぁ。あ、メールだ。はいはい、ありがとう。
緊急連絡は来てないな。着信履歴もないし。めでたい夜だ。ありがたや〜。

そんな夜が明けて、いつも通り5:00に目覚ましが鳴り、止めたものの目は覚めず、実際起きたのは6:00。おお、ブログ書いている時間がない。ま、たまにはギリギリ出勤もよいだろう。

と言いながら、職場に着いたのは充分一仕事できる時間。コピーをとっていたら、管理職が言う。「一晩であんななんて。」は?何でしょう?「え?聞いてないの?あなたが帰ったあとでね…」

Oh, my God!!!!
なんてこった。一晩ぐらい、安眠させてやろうという温かな気持ちに守られて、知らなかっただけだった。





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半袖の人が増えた。
グレーや黒ばかりの冬が終わり、春になると、街ゆく人もカラフルになって楽しみが増える。あの服かわいいな、この着方真似してみたいな・・・

着ることにあまり意欲がない私は、おしゃれの仕方がわからない。だらしないわけでもないし、安物ばかり…というわけでもないのに、垢抜けない。早い話、センスがないのだろうな。

出勤で出会う女性たちのファッションを見るのは、とても参考になる。ほうほう、へぇ〜と見ていて気付いた。今年だからかもしれないけれど、目をひかれる人たちは、みないろいろな色や形の服を重ね着しているのである。

襟元からチラリと別の色がのぞいている。その上からおしゃれな形のカーディガン。ストール、カバン、靴。なんて複雑な組み合わせなんだ。暑くないのか?そうか、そんなふうに着るのか〜。複雑って美しい。

思えば、平安貴族たちは、さまざまな色の衣を重ねて、色のおしゃれを楽しんでいた。古語辞典が大好きだったのは、巻頭にあるカラーページの「襲の色目(かさねのいろめ)」というページを見るのが好きだったからでもある。

複雑な美しさを愛する日本人。リンクをつけてみようかな。
http://www.bb.em-net.ne.jp/~maccafushigi/mac/7.htm
こんな感じ。色のついた薄い生地を重ねて透かすと、別の色になる。きれい!

通り道にある、大きなガラス窓に自分が映る。スリムなデニムにシャツ1枚。じつに潔い。潔すぎてなんの深みも工夫もない。後ろを小学生が通り過ぎる。おお、私と同じじゃないか。なんてこった。私のファッションは小学生並みってこと…





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自分がするべきことだけする、契約社員のような働き方をしてみると、時間にも心にも体力にも、ちょっとゆとりが出てくることがわかった。もともと「やるべきこと」が人より多く、難しいことが割り振られている。それだけで十分。

一日は、王様にも、社長にも、社員にも、お母さんにも、赤ちゃんにも等しく24時間ずつしか割り振られていない。そこへ、自分がすべきことに加えて、やりたくもない他人の役割を、頼まれもしないのにやってあげている時間は不要だ。

すき間ができて、ようやく「休む」時間を確保できた。すごい。これだけでもすごい。さらに、私の場合、「やるべき仕事=やりたい仕事」で、そこのクオリティをあげるのはとても楽しい。「やりたい仕事」をする時間は、お給料いただきながら遊んでいるようなものだ。

これを維持するためには、「私にはできないから、あなたがやってくれて当然」という周囲の風潮…もとは私がやってあげていたのが最大の原因だけど…から逃げる必要がありそうだ。笑顔でかわそう。「ムリムリムリ、私、時間がないわ」

そうして、起きる出来事は何でも、それでいいことにしよう。私の最短距離は、私の仕事だけに使えばいい。ほかの人の道も大事に発揮してもらおう。何が起きても、きっとそれに意味がある。

昨日のこと。会議の結果、ナナがちょっとした資料を作る必要に迫られた。ナナが作ると3時間かかる資料だが、私がやると5分でできる。ほかにも書類を抱えてパンクしそうなナナを見て、ちょっと作ってみようかなと思った。ほら、やはり5分でできた。「作ってみたよ。データ入れといたからあとは自分でね。お先に

退勤途中、いつもの交差点で交通事故があった。横断歩道にワンボックスが突っ込んで歩行者をはねていた。できることは?と見回すと、隣の人が教えてくれた。「5分ほど前に車が…」ナナがいなかったら、はねられていたのは私かもしれない。ナナがいたから、今日もブログが書けるのだ



以上、過労で高熱を出したことへの反省会を終了します。


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良質の仕事をしたい!という希望に基づいてやっている時は夢中になっていて、どんな困難も楽しめるし、どれだけ時間を使っても厭わない。疲れても気持ちいい。そうか、誉められたい一心だけではなかったなぁと思う。

でも、今、その「良質」を求めても叶わないことがわかっている。ナナと同じ世界の住人たちと組むたびに、そのことを思い知らされ、苛立ち、落胆し、諦めてきた。でも、諦めきれずに引きずってきたとも言える。

気持ちよく働けないなら辞めてしまって、契約した時間だけ働く、アルバイトや派遣のお仕事でもして、自分の時間を作りだそうか?なんて思うのに、なかなか行動に移せないで来た。

ナナと出会った理由。
分かった。
今までと違う仕事の仕方があると気付かせるために、神様がくれたギフト。

最初の出会いで気付いていたら、去年の出会いで気付いていたら、きっとナナには辿り着かなかった。私が古い習慣に固執するから、超ウルトラ級のナナがやってきたのだろう。

自ら察して自主的に行動することができない人を相手に、こちらばかりがあれこれ察して動くから、気遣いの帳尻が合わなくなるのだ。いつもこちらの持ち出しが多い。そういう人といるときは、契約社員のような働き方をした方がいい。

ナナのことはナナに任せて、失敗しても尻拭いせず、自分でやらせればいい。全体に迷惑かけても構わない。そこから始まることを受容するのだ。私は私が当然負っている義務の分だけ誠心誠意働けばそれでいい。

おお。
退職しなくても別の仕事をしているみたいな気分になれるじゃないか!!





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実は、ナナのような人と組むのは、ナナが最初ではないのだ。
数年前にひとり、昨年ひとり、組んでいる。多分、同じ世界の住人達なのだろうと思われる。彼らは、私の常識を常に打ち砕いてくれた。

今思えば、彼らは非常に不思議な役割を果たした。彼らが失敗すると、その原因究明やフォローのために、周囲がとても親密に、真剣に話し合いを持つことが増え、チームワークが増したり、意外と細かく深く計画ができたりした。

そのたびに、私は、私が想定した「最短距離」以外にも、道はいろいろとあるのだということを思い知らされた。かつ、私の「最短距離」は、私か、私と同等の経験なりを持った人でないと楽には進めないが、ほかの道なら、誰でも行けるのだとも気付いた。

それでも、私は私の「最短距離」にこだわり続けたと言っていい。結果、ナナは当然ついてこれない。私だって楽々最短距離を進むわけではないので、注ぐべき力をナナに削がれて、苛立っていたわけだ。

「最短距離」へのこだわりを一旦捨てて、楽しく、誰でもできればどれでもいいやと思ってみる。なるほど、疲れない。でも、何かしっくりこないのだ。自分の「楽しい」が最優先だけでは、どうも居心地が悪いのだ。

ここまで来て、ようやく気付いた。自分は、自分の楽しさ最優先の生き方をして来なかったわけではなく、「何が楽しいか」について、気付かないうちにちょっと違うハードルを設けていたのだ!!!

それは、「私らしさ」のようだ。自分で「これは私らしい仕事の出来だわ!」と思えることを、意外なほど大事にしていたのだ。人からの評価も大事だけど、自分で納得のいく出来栄えでありたかったのだ。職人根性というのかもしれない。





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反省会を続けよう。
厳しい生育環境から、安心安全に暮らしたい一心で、「人の役に立てば大事にされるのではないか?」と思った結果、どうだったか。

ある意味、成功はしたのだと思うが、思い通りの成功ではなかったところに、ポイントがある。「あなたは役に立つ、なくてはならない人だ」と評価してもらったら、安心安全快適になったか?いえいえ。安全ではなく暗然としたわけだ。

私が役に立つことは、相手にとって「当たり前」になっていく。役に立つのが当たり前で、ちょっとでも相手の思い通りの成果を上げないと、怠けているかのように言われる。私が全力でやっても、当然と思われて、感謝のひとつもない。

どこまで完成度をあげても、この構図は変わらない。いつも限界まで頑張るのに、誰も「すごいね」とは言わないのだ。理不尽な気がして、苛立ちもする、落胆もする。原因は、感謝が足りない相手ではない。私にあったんだ!

物事を決める時、役割を引き受けるとき、自分が優先して考えていることは、「やり遂げたら相手から高い評価を受けられそうなこと」が1番。「疲れないこと(安心安全な範囲)」が2番になっている。この優先順位を意図的に変えてみよう。

そうだな、1番には「やったら楽しそうなこと」、2番に「人とつながれそうなこと(人の美点が引き立つこと)」、3番に「疲れないこと」にしてみよう。これを試してみると…

なるほど、そうか。新しい優先順位を守るということは、自分が望むやり方を諦めるということだと分かった。新幹線で行く!と決めるのが自分のやりかたなら、目的地に着くなら、交通手段は何でもいいと思うことだと気付いたのだ。






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そうして、「役に立たなくてはいけない」は「休んでいる場合ではない」「遊ぶ価値など私にはない」となっていく。自分に楽しむことや心地よいこと、笑顔や幼さ、わがままや自信を禁じていくことになったのだ。

このことには10数年前から気付いていて、ずいぶんと解放してきたと思う。それがここにきて、またこの問題と向き合っているということは、以前よりも深い理解に到達する準備ができたということなんだろう。それはそれで楽しみだ。

私は誰かの役に立つことで、何を手に入れようとしていたのだろうか。
それは、「君は特別だ」「私は特別な価値ある人間だ」という保証であると同時に、もっと根本に、とても幼く切ない願いがあることに気付いたのだ。

「ここで安心して暮らしていいですか?」
「私があなたの気に入らない日でもあなたは私を好きでいてくれますか?」
「私の命には価値があるって言ってください!」

安心したかったのだ。愛されたかったのだ。大事だと思われたかったのだ。
ただ、それだけだった。
そうして、それは、それほど特別なものではなかった。

だが、残念ながら、私には与えられなかった。何十年も手に入れようとしたけれど、両親からそれを受け取ることは諦めた。両親の代わりに、いろいろな人に求めていた自分にも気付いた。それはもともと無理な話だ。

この年齢になって、自分の生き方を両親のせいにしても何の意味もない。それこそ自分の生き方に無責任な子供のままになってしまう。体験は前提として、自分の力で切り拓いてこそ、命を失わずここまで生きていた意味があるというものだろう。





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両親にとって初めての子供でありながら、私は幼いころから暴力を受けて育った。両親が若かったこともある。私が病弱だったため、2年足らず後に生まれた弟がさらに病弱だったため、父は西洋画家になる夢を捨てた。その怒りがすべて子供に暴力となって降り注いだ。

気が弱い母は、子供がいくら殴られても、刃物を向けられても、泣き崩れるばかりで、かばい守ることがなかった。顔に切り傷を作っ登校しても、体中のアザに気がついても、担任は何もしてくれなかった。

今も鮮明に覚えている。物心ついたころから、私は捨て子だったのを拾ったと言い聞かされた。信じるのに十分な理由がついていた。弟が病弱なのは、彼が母の腹にいる時に、私が母の腹につまづいて蹴ったからだと言われた。信じた。

自分さえこの家に拾われなければ、弟が病気になることもなく、父が夢を諦めることもなく、母は平和に暮らせたのだと、何千回と言われているうちに、それがそのまま自分の信念になっていた。嘘だと気付いたのは中学を出る頃だ。

既に遅かった。役に立つ人間にならねば殺されると、必死になって大人の顔色をうかがい、超能力者のように空気を読み、先の予測を立てる能力を伸ばした後だった。生かしておく価値がなければ殺される。勉強した。言うことも聞いた。

それでも殴られた。就職しても顔を平気で殴られた。逃げるしかなかった。結婚という形をとったのに、嫁ぎ先にはさらにひどい暴力をふるう人がいた。私が役に立たないからだと最初は努力した。でも、努力ではどうにもならないことがあると知った。

また逃げた。初めての一人暮らしで、私は本当に初めて、自分が生きていることに気がついたと言っていい。それも、自殺しかけて止めてもらって気付いたのだ。もう一度、桜を見てから死のうかな。桜がなければ私は既に死んでいる。






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給料のためだけに働いているのでは、断じてない。これは、この仕事の人共通に言えることだと思う。給与額に対して、仕事が多すぎる。拘束時間も長すぎる。もっと効率のよい仕事は、不景気な世の中だっていくらでもあるだろう。

熱を出して私が実施したように、この状況で休みたかったら、自分が抱えている仕事を、他の人にやってもらって、仕事量を減らすしかないのだ。そうでなければ、仕事の質を落とす。絶対量を減らさなければ、休みは生まれない。

ナナと組むことになって、私が理想としているチーム状態は完全に諦めている。ナナでなければ、私の仕事はもっと減っている。だからナナがいることに腹が立つし、苦しい。しかし、ナナはいて、私の仕事を分担できるようにはなれないのだ。

先週、発熱する前に必死になってやっていたことは、ナナ以外の人々に、元々持っていた仕事と、ナナのために増える仕事の両方を、広く薄く分担してもらうための段取りだった。ほぼ完成したと思った途端に倒れた。天の采配なのだ。

そうやって手に入れた貴重な時間で、私は反省している。一体、私は何をしているのか?何がしたいのか?なぜ今ナナと組んでいるのか?人生を総ざらいして、先を見通すのだ。それしか、生き延びる道はないぞ。

そもそも、なぜ私はこんなにも仕事を抱えているのだろう?職場の中でも指折りだ。もともとものすごい仕事量の職場にあって、中でも指折りでいることを自分に許している背景は何なのか。なぜ進んで苦しみを受け入れてしまうのか。手放さないのか。

自分が本当に求めていたものをとうとう探り当てた。気付けばあまりにも馴染んで、当たり前になっていた感情。それは、「自分は役に立つ人間だと重要人物から思われていたい」というものだった。





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熱出したせいで、すっかり話題が逸れてしまった。
いや、逸れ過ぎて、かえって本題に近づいたと思う方が的確かもしれない。
これは菌死んだそうだ…なんだ?この的を得た誤変換は

これは謹慎だそうだ。
謹慎中にすべきことは、反省しかあるまい。ゴロゴロしながらテレビ見てお菓子食べたりしている場合じゃないのだ。二度としませんと反省するのだ。

ブルーマウンテン癸院FΔ納茲蟯鵑擦拭ホントは手でカリカリと挽きたいところだが、我が家にはそれがない。そうだ、次のクリスマスに、くまさんにねだろう。ブラウンの電動式だが、それでも、本当に品のよい香りがする。

挽きたての豆で淹れるコーヒーの美味しさは格別だ。この美味しさは、上善如水や越乃寒梅のような旨さか。伝わりにくい例えに拘るのはやめにして、反省だ、反省。二度とこうならない、こうしませんと反省するのだ。

反省文の最初に書くのは、事件のあらましを自認することだ。ここがズレていると、反省自体がズレていって、意味がなくなる恐れがあるからだ。改めて書くのは面倒くさいから、4月から書いたブログを読みなおそう。

う〜む。なんだ、一体これは。
人のせい、いいわけ、成長しようとしない頑固さ。
私の大嫌いなもののオンパレードではないか

ガレキが燃え尽きた効果だろうか、眠気もなく、頭もスッキリとして、これまで霞んで見えなかったものが見えるような気がする。明日から、こんな毎日にまた戻りたいの?答えはNOだ。ならば、方向転換しか、あるまい?





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