Win-Win〜あなたも幸せ。私も幸せ。〜

今ここで生きていることを楽しむためのブログ

2007年11月

なせばなる

 こんばんは。Hikariです。

 

 あまりの忙しさに、しばらく更新が止まってしまいました。いただいたコメントへのお返事も遅れてしまい、申し訳ありませんでした。

 

 

 

 友人のご主人の手術は、無事成功しました。予定していた手術時間の倍もかかったということで、友人もだいぶ深刻になった時期があったのですが、結局なにもかもうまくいったようで、退院も、そう遠くないということです。

 

 その知らせを受けて、どれほど喜んだことか!

 

 ああ、本当によかった。

 

 

 

 明日、遅くに家を出発して、私に遺書をくれた人に会いに行ってきます。

 

 会ってくれるかどうかわかりませんが、行ってきます。

 

 行ってどうなるものでもないかもしれないけど、とにかく行ってきます。

 

 あの日からずっと、心の中で、その人を抱きしめて、その人の体がだんだん寛いでいき、心が少しずつほぐれていくところをイメージしています。

 

 今ではそのイメージを浮かべるだけで、その人の体温が伝わってくるような気がします。

 

 何もかもうまくいきましたた、ありがとうございます!と、神様に感謝している自分が見えます。

 

 なんだか、そのとおりになるような気がしています。

 

 明日はブログが書けません。

 

 でも、よかったら、応援してやってください。

 

←ありがとうございます!

遺書

 その日、くまさんが抱えてきたたくさんの郵便物の中に、水色の封筒が混じっていました。

 

 とても懐かしい文字の宛名は私で、数年ぶりに見るものでした。

 

 先日、私は彼女に宛てて、冬物の衣類を送ったばかりでした。返事などくるはずもなく、来たらいいなとさえ思っていず、だから、返事がきたことだけで、もうとても嬉しくて、急いで封を切りました。

 

 遺書でした。

 

 いえ、どこにも「遺書」と題書してあるわけではありません。

 

 けれども、文面には、壊れ傷つき疲れ切った心のありようが連綿と綴られており、これまでの自分の振る舞いを詫びる言葉があり、もう二度と書きません、と締めくくられていました。

 

 手のひらで、パタンと閉じたその便箋を、封筒にもどしかけ、もう一度開き、読み返しました。

 

 行間から、叫び声が聞こえてきます。

 

 助けて、助けて。

 

 もうあなたしかいない。

 

 あなたが来てくれないなら、私は死ぬ!

 

 ほとんど、脅迫のような勢いで伝わってきます。

 

 明らかに、それは遺書でした。

 

 

 

 着替えることも座ることも忘れて、ぼんやりと佇んでいたら、ケータイにメールが着信しました。

 

 誰からだろうと見てみると、友人からでした。

 

 この友人は、ご主人が病気で、大きな手術を間近に控えています。

 

 今までは大丈夫だと思えたけれど、実際に手術が近づいてみると、本当に大丈夫だろうかと不安になってきた。どうしよう。そう書かれていました。

 

 右手にケータイ、左手に封筒を握り締め、私は途方に暮れました。

 

 そうでなくても私は今、仕事上で、とんでもなく深刻なケースを抱えています。一歩間違うと一家心中とかになりそうな話なのに、なぜか当事者は私にしか頼ろうとしません。職場の上司もこれはまずいということで、懸命に、私からこの案件を引き剥がそうとしてくれています。なかなかうまくいきませんが。

 

 そこへ、土曜日に、追い討ちをかけるように、もうひとつ事件が起きてしまいました。この事件が私に与えたダメージは本当に大きくて、心が、ポキリと音をたてて折れてしまったような気がしました。

 

 

 

 昨日は休日出勤の代休でしたが、今日はこれから仕事です。

 

 どれだけ心が折れていようと、重荷を背負っていようと、時は進んで行きます。

 

 

 

 

 神様、と私は問いかけます。

 

 神様、世の中にはなんとたくさん、誰かの助けや支えを必要としている人がいることでしょう。

 

 確かに私は、神様の仕事のお手伝いをするような生き方をしたいと、願ってきました。

 

 それが実現しているからといって、文句をいうのはおかどちがいだと、重々わかった上でお尋ねします。

 

 あなたのお手伝いさんは、今、人手不足なんですか?

 

 ちょっと雇用計画が甘かったんじゃありませんか?

 

 ここらで一発、ド〜ンと新規採用して、従来のお手伝いさんたちに休暇を出すというのはどうでしょうね?

 

 このまま雇用条件が改善されないと、ストライキ起こしますよっ!

 

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タフな精神

 おはようございます。Hikariです。

 

 昨日、ひさしぶりに水族館に行ってきました。

 

 ほんとうだったらラッコがいるはずの水槽があるのですが、移送前に死んでしまったため、一度もラッコプールとして使われたことはなく、アザラシやアシカがいます。

 

 心がポキリと折れてしまっているからでしょうね、そんなこと最初からわかっていて行ったのに、そのプールを見た途端に、寂しくて泣きそうになってしまいました。

 

 そのまま直進すると、イルカショーのステージになります。

 

 すでに満員の会場に、幸運にも空席を見つけることができました。

 

 元気いっぱいのイルカショーは、明るい音楽に溢れ、元気出せよと言われているようで、うん、うんと思いながら見ていました。

 

 トレーナーさんとイルカたちの息はピッタリ。

 

 ショーの最後に3頭のイルカが夕日に照らされながら宙を飛んだときには、あまりの美しさに感動して、また泣きそうになってしまいました。

 

 

 

 心が折れるのも、大切な経験ですね。

 

 傲慢な自分を顧みる機会であり、よりはかなく、小さく、ささやかな感動をそこここに見つけるチャンスでもあります。

 

 それに、こんなふうに、ため息ばかりつきながら一日を過ごしても、明日になれば、明後日になれば、私はやっぱり笑顔としっかりした足取りで仕事に向かうでしょう。

 

 タフな精神になっていく道のりなのかもしれません。

 

 「自分は失敗をしないというのは、自信ではないよ。それは過信と言うんだよ。」

 

 弟子に、よく言っていることです。

 

 「本当の自信というのはね、『失敗しても自分はやり直せる』と知っていることなんだよ。そうしてね、究極の自信というのはね・・・」

 

 なんですか?教えてください!

 

 「究極の自信というのはね、自分はどうにもならない重荷を背負ったままでも大丈夫だと知っていることだよ。」

 

 愛弟子は、究極の自信を手に入れたいといいます。

 

 私はその導き手になれるでしょうか?本物のタフな精神に自分を育てることができるでしょうか?

 

 どうやら、試練の時のようですね。

 

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自己嫌悪

 おはようございます。Hikariです。

 

 昨日は一日中外で過ごしましたが、なんとも寒い一日でした。

 

 もごもごと着込んでいたのだけれど、それでも寒くて、腰が痛くなってしまいました。

 

 

 

 しかも、心も寒くなるような出来事が。

 

 私はすっかり自己嫌悪に陥って、ずっとため息ばかりついていました。

 

 

 

 自己嫌悪ってね、ずるいと思っているんです。

 

 だって、失敗しちゃったり、虫のいいことを考えちゃったりした自分がいて、それを嫌悪する自分がいるわけですよね。

 

 自己嫌悪を感じているときの自分って、たいてい「嫌悪する自分」の側にいるでしょう?

 

 つまり、「自分ってひどいやつだなぁ」と感じている立派な自分でいるわけで。

 

 だけど、その「立派な自分」は幻想なんだよね。自分の頭の中、想像の中だけの自分なの。

 

 現実を生きている自分は、「失敗しちゃった自分」のほう。そちらが本当の自分。

 

 それなのに、本当の自分から目をそらして、立派ぶるのが自己嫌悪なんだよね。

 

 

 

 だから、自己嫌悪って、ずるいと思うんだ。

 

 ずるいと知りながら、自分は自己嫌悪に陥っている。

 

 「ずるいな、私」って思う。

 

 おまけに、本当の自分も見えてるよ。

 

 手を抜いたな。
 軽く考えていたな。
 人のせいにしようとしたな。
 偉そうなことを言っちゃったな。
 いままでの信念を崩しちゃった。

 

 あ〜あ、ほんとに失敗だったな。

 

 そうして、そんなことしちゃった自分に自己嫌悪を感じて、体面を保とうとしているよ。それはずるいよ、私。

 

 

 これって、けっこうツライ。ほんとうに、ツライ。自業自得。

 

 昨日は、いいとこナシでした。

 

 今日はいい日になってくれっ!!

 

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自分勝手な愛

 おはようございます。Hikariです。

 

 今日は休日出勤です。さあ、出かける前に書きましょう。

 

 

 

 ある母と息子を想像してください。

 

 お母さんはとっても優しくて、息子を大事にしています。当然、暴力的に接するなんて事はないのです。

 

 彼が生まれたときから、お母さんは一貫してそういう育て方をしてきました。

 

 ところが、青年となった息子はまったくの人間不信に陥っており、極端な行動ばかりとります。

 

 時として、周囲の人に異様なほどベタベタとまとわりつきます。そうかと思うと急にキレて暴力的になってしまいます。

 

 また、ある時は、相手が嫌がることばかりします。そうして、周囲に疎まれてしまうのです。それでも、行動が改まることはありません。

 

 愛情不足だなぁ、スキンシップ不足だなぁと感じる青年です。

 

 おかしいですよね。お母さんは優しく、穏やかで、暴力もふるいません。なのに、どうして愛情不足になるのでしょう?

 

 

 

 それは、お母さんの優しさが、「自分勝手な愛情」だからだと思うのです。

 

 例えば、子どもが学校で何かあったらしく、落ち込んでいるところを想像してください。

 

 当分口もききたくないという様子で落ち込んでいたとします。でも、しばらくしたら、誰かに出来事を聞いてほしくなって、お母さんを探します。

 

 子ども目線のお母さんなら、子どもが口をききたくないときには、そっとして様子を見守り、子どもが聞いてほしいと寄ってきたら、話を聞こうとするでしょう。

 

 ところが、先にお話したお母さんは違うのです。

 

 子どもが口もききたくない様子で黙っていると、何があったのかどうしても心配になって、「どうしたの?何があったの?話しなさい、言いなさい」と、子どもに言い募るのです。

 

 子どもは話したくないものだから、意固地になって、口をつぐんでいます。

 

 すると、お母さんはこう言うのです。「お母さんがこんなに心配しているのに、どうしてわからないの?もういいわ!」

 

 そして、すっかり腹を立ててしまって、子どもが後から話しに行っても、もう聞こうとしません。さっきお母さんに逆らった罰というわけです。

 

 お母さんは、ご自身のことを、いつも子どものことを気遣い、愛情を示すことができている母親だと思っています。

 

 けれど、子どもから見ると、自分の思いをわかってくれない母親なのです。

 

 お母さんは、自分が寂しいときだけ、ベタベタと子どもを猫のように撫でています。

 

 でも、子どもが寂しくなってお母さんに擦り寄っても、それがお母さんの忙しいときなら、黙殺されるかはねつけられるかします。わがままだと言われてしまいます。

 

 子どもは考えます。どうにかして、自分が注目してほしいときに注目してもらう手立てはないものか・・・

 

 それが、「叱られる」という方法です。

 

 してはいけないことをして、お母さんを嫌がらせると、お母さんは決まって自分の方を向いて叱ってくれます。

 

 顔が怖くても、声が厳しくてもいいんです。無視されるより、ずっといい。

 

 自分は力をもらえない。
 自分は嫌われている。
 自分は無視される。
 自分は愛されない。

 

 それでも、叱られる時だけは注目してもらうことができる。擬似的な愛情を感じる瞬間。問題のある行動が改まらない理由です。

 

 

 

 こんな寂しい愛情関係が続くと、人は自分のことを「愛されない人間」と思い込むようです。

 

 同時に、周囲の人間を「自分を傷つけ、無視し、奪い、愛してくれない人」と認識するようになるのです。人間不信というのは、こんなふうにしてできるんですね。

 

 何て哀しいことでしょう。

 

 

 

 子どもには愛情が必要です。でも、その愛情は、大人の都合で出したりひっこめたりするような種類のものではなく、子どもが必要な時に必要なだけ与えられるような種類の愛情であるはずです。

 

 私たちの心の奥底に、そんな哀しい記憶がしまわれてはいないでしょうか。

 

 もしも、「いったいHikariさんは何を言っているのか理解できない!」と思われるなら、あなたは幸いです。

 

 もしも、「あ、これかな」と思い当たるものを見つけたあなたは、それでも大丈夫です。

 

 手放しましょう、そんな、間違った刷り込みは!

 

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心の奥深くに

 おはようございます。Hikariです。

 

 体調がようやく少し上向いてきたようです。

 

 先週末に冬物の服を出してみたのですが、今年の冬に着ようと楽しみにしていたパンツやスカートが全然着れないんです

 

 どれもこれも、ウエストが10センチも余ってしまいます。

 

 体重は5キロ減りました。ウエストは10センチ減ったんです。これって、減ったことがすごいというより、10センチ減っても平気なほど丸かったというほうが驚きですが・・・。

 

 せっかくのスーツも着られません。今年こそはと思っていたスカートも、ファスナーを閉めたまま脱げてしまうんだもんなぁ!

 

 病気で痩せたわけですが、この20代前半の体型を、健康に維持するというのは悪くない発想だと思っています。

 

 だって、しかたがないからお洋服を買いに行くと、以前ではぜんぜん着られなかったデザインの服が着られるし、このサイズなら品物も豊富。選びたい放題なんですもの!!

 

 すっかりひらめのようになってしまった凹凸のないからだですが、それならそれで、平たい人にしか似合わないデザインを探してみますよっ。

 

 

 

 

 さて。平和な心についてお話している最中でしたね。

 

 今、私の身の回りでは、人の命に関わるような重大な出来事が多発しています。

 

 私が一手を誤ったら、本当にとんでもないことになってしまうのではないかという恐怖と、日々戦っているのです。

 

 これは独りでは抱えきれないと思い、周囲の人々と連携して、事態に当たっています。それで、ほんの少し、息がつけるようになりました。

 

 事件の詳細をお話できないのが残念ですが、この事件を通じて、人はなぜ心の平和を失ってしまうのかということを、改めて考えさせられています。

 

 これまでお話してきたような、人との関係、人の扱い方、扱われ方によって心が平和でなくなることもあります。

 

 でも、さらにその奥深くに、その人この人という固有名詞の関係ではなくて、「ヒト」というもの全般に対する感覚がどのようなものなのかが、わだかまっている気がします。

 

 ヒトとは私からエネルギーを奪うもの。
 ヒトとは私を傷つけるもの。
 ヒトとは私を無視するもの。
 ヒトは私を愛さない。

 

 そんな確信めいたものがある人は、どこにいても、何をしていても、心を平和にすることができないのではないでしょうか。

 

 明日はこのことをもっと掘り下げて書いてみたいと思います。

 

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モノ扱い

 おはようございます。Hikariです。

 

 人間関係をなめらかなものにするためには、相手をきちんと「人」として見ることが大切なんだという話を、昨日書いたところでした。

 

 そんなことをじっくりと考えていたら、このことについて、自分が「モノ」として扱われる体験をしている最中であることに気付きました。

 

 今日は、「モノ」として扱われる立場からお話をしてみましょう。

 

 

 

 私が貧血の治療に通っている病院には、看護師さんが5名いらっしゃいます。

 

 少し若いなと感じる方がおひとりいますが、あとの4名は同じくらいの年齢・経験であるようで、仕事もこれとはっきり分担しているわけではなく、その日その場によって、いろいろなことをされています。

 

 5名とも、とても穏やかで丁寧、静かな口調でお話をされます。

 

 けれども、ひとりだけ、いつも患者さんと言い合いのようになってしまう看護師さんがいます。

 

 仕事以外では滅多に人と言い争いなどしない私も、その看護師さんとは言い合いになってしまったことがあるのです。

 

 仮にA看護師としましょう。

 

 私がA看護師と言い合いになってしまったいきさつは、こんなでした。

 

 指定された薬を指定どおりに服用していたのですが、明らかな不調が続いて、このままではまた貧血に戻ってしまうと思われたため、診察を受けに行ったのです。

 

 夕方遅くだったのに、診察を待つ人が多くて、A看護師が何人かの患者に、来院の趣旨を確認していました。

 

 私のところにも来て、どういった相談かと聞かれました。

 

 これこれで不調なので・・・というと、指定の薬は飲みきったのかと聞きます。

 

 いいえ、まだ飲みきってはいません。飲んでいる最中ですが、ずっと不調が続いているのです。

 

 A看護師はイライラした口調になって、声を張り上げて言います。「前回ご説明しましたよね。薬を飲みきったらそのような不調が出ることがあると。だから、飲みきったのですよねっ」

 

 私は手帳を開いて、説明を始めました。こういう条件で飲み始めるようにとのご指示だったので、この日から飲みました。不調はここから続いていて、今日までそのままです。薬は何日目にあたりますが、飲みきってはいません。

 

 A看護師は「もういいです!ご説明をご理解いただけていなかったんですね!」と言います。私は、自分が何を理解していないと言われているのか、さっぱりわかりません。ただ、ものすごく不当な扱いを受けているという気持ちが強く出て、どうしても理解させてやろうという闘争心が沸いてきました。

 

 もう一度、自分が伝えたいことを理解してもらおうと、「私が何を理解できていないのかわかりませんが・・・」と、手帳を差し出すと、別室に入るように言われました。

 

 そこで、部屋に二人になって、改めて手帳を示し、ここでドクターからこのような話があり、ここでこのような投薬があって、それをこの状態で飲み始め、不調はどこから始まって、今どういう状態なのかを、できるだけ丁寧にお話しました。

 

 するとどうでしょう!

 

 A看護師は「ああ、そういうことですか。」すんなりと、ドクターに取り次いでくれました。要は薬の効果が薄いだけでなく、私には合っていないので、すぐにやめて次の手を打つか、手術をするか・・・という話だったのです。重大なことでした。

 

 

 

 

 何度も通院しながら様子を見ていると、A看護師は、私と起こしたようなトラブルをよく繰り返しています。

 

 先日も、「○○をお持ちですか?ご来院の時には必ず持ってくるようにとお話しましたよね」と患者さんに問いかけ、患者さんが「そのようなものは思い当たらないのですが、探してみます。」と丁寧に答えたのに、「どうしてご説明を聞いていただけないんでしょう?こういう書類をお渡ししましたよね」と、その紙を見せに来ていました。すると、患者さんは、「そのような用紙は初めて見ました。」との返事。

 

 患者さんがうかつに忘れ物をしたのではなくて、病院側が渡しそびれていたのです。

 

 

 

 A看護師がそんなやりとりをしてしまう根底にあるものは何でしょうか?

 

 それは、A看護師の言葉の中に答えがあると思います。

 

 そうです。「どうしてご説明をご理解いただけないんですか?」です。

 

 A看護師にとって、患者は、「説明を理解できない困り者」なのでしょう。だから、困りモノとして扱います。

 

 もちろん、ひどい貧血状態だったときの私がそうだったように、患者には一度ではお話が理解できないようなこともあるのです。

 

 A看護師は、そんな患者に何度も何度も同じことを説明しなくてはならなくて、A看護師にとっては簡単で当たり前のことが理解できない患者が、とっても愚かしく見えているのではないでしょうか。

 

 もちろん仕事ですし、職場の雰囲気がありますから、丁寧な物腰で話はします。

 

 でも、心のありようが「この人たちは困った人たちだ」ですから、それが外側に出てしまったときには、当然、トラブルになります。

 

 ちなみに、ほかの4名の看護師さんたちは、患者を「私たちがサポートして差し上げる、今つらい人たち」と見ていることが明らかです。ちょっと待ち時間があっただけで、「すみません、長くお待たせして。」と、必ずおっしゃいます。

 

 ゆっくり丁寧にお話してくださったり、ドアをすっと開けてくださったり。昨日の雑談を覚えていて、今日はどうです?とコミュニケーションしながら緊張をやわらげてくださったり。

 

 A看護師以外の方が、何か間違ったことを言ったりしたりしても、「ごめんなさい、私が間違っていました!」とすぐにお詫びされてしまうので、全然嫌な気持ちにならないんです。

 

 一方、A看護師は、行き違いがあったとわかっても、お詫びの言葉を口にしたりはしません。(私が見ていないだけかもしれないけど。)お詫びどころか、「あなたの言い分を私は根気強く聞いてあげたのよ」というような、どこか「上から目線」の印象を受けてしまうのです。とっても嫌な気分になってしまいます。

 

 

 

 この場面では私がモノとして扱われたわけですが、別の場面では、私が誰かをA看護師のように「モノ」として扱っているのかもしれません。

 

 そうして、扱われた人は、私が感じたように、不当な扱いを受けていると感じ、とっても嫌な気分になっているのかもしれません。

 

 だとしたら、私は態度を改めたいと思います。

 

 今日は一日、そのことを強く意識しながら過ごすつもりです。

 

←あなたの応援にいつも感謝しています!

自分のために

 おはようございます。Hikariです。

 

 最近、初コメントですとおっしゃって、書き込みをしてくださる方が少しずつ現れて、とてもワクワクしています。

 

 コメントをいただくとケータイに通知が来るのですが、午後3時過ぎにようやく訪れる休憩時間にそれを拝見すると、ああ、自分は何か新たなステージに進んだのかもしれないという実感がわいていきます。

 

 本当に、これが新たなステージへの道だとよいのですが。

 

 

 

 

2日で人生が変わる「箱」の法則

 『2日で人生が変わる「箱」の法則』を読み終わりました。この本が私たちに着目させようとしているのは、相手を人として見ているか、物としてみているか、という視点に尽きるようです。

 

 関係がうまく築けていない相手との交渉を思い出し、その人といる時に自分が感じていたものを、正直に書き出してみたとします。

 

 邪魔モノ。
 困りモノ。
 変わりモノ。
 嫌われモノ。

 漢字にすれば、モノは「者」なのですが、「物」と同じ音なのは、意味のある一致ですね。

 

 逆に、とてもよい関係を築いていて、その人との交渉が愛に満ちているようなケースで、その人といる時に自分が感じているものを正直に書き出してみたとします。

 

 ステキな人。
 楽しい人。
 優しい人。
 そばにいたい人。
 見ていたい人。
 好きな人。

 

 やっぱり、どこにも「モノ」は出てきませんね。

 

 物にも愛情を感じることはできますが、「千変万化する人」として愛情を持つためには、やはり相手を人として見ることは大切なようです。

 

 それなのに、私がうまく関係を築けないでいる相手には、明らかに、「人」としての扱い、感情、言葉を向けてはいなかったことを、告白しなくてはなりません。

 

 関係は連鎖です。

 

 私が「モノ扱い」を発信すれば、「モノ扱い」が帰ってきます。

 

 私が「この人は私を困らせ、嫌な気持ちにさせ、気持ちが通じない、邪魔者だ!」という前提でその人と向き合うなら、鏡に写った姿のように、同じ思いが帰ってくるほうが自然というものでしょう。

 

 だったら、本にもあったように、私にはできることがひとつ、あるということです。

 

 それは、あの人を、「人」として見直してみるということです。

 

 何か困っているのではないか、戸惑っているのではないか、伝えたいことが伝えられずにいるのではないか、私の態度に腹を立てていたのではないか、お詫びが必要なほど傷つけていたのではないか・・・だから、私に対する振る舞いが、あのようなことになってしまっているのではないか・・・まずは、そんな視点から始めてみようかと思うのです。

 

 あるいは、全然そんなことはなくて、本当に、ただ私を困らせるのが楽しいだけの、イヤな人なのかもしれません。

 

 そうしたら、その時はその時です。静かに、「心の距離」を置かせていただくことにしましょう。

 

 でも、いきなりそこに行く前に、私は「人をモノとして扱ってきた自分」と寄り添わなくてはなりません。

 

 相手のためにではなく、自分のためにです。

 

 私は私が思ってきたほど立派な人間ではない。
 でも、立派でなくてもいい。

 

 立派でない自分との、今後の長いお付き合いのために。

 

←あなたの応援にいつも感謝しています!

自分との戦い

 おはようございます。Hikariです。

 

 

 わたしたちは、いつでも戦っているのだなと思います。

 

 誰と戦うかって?

 

 自分と、です。

 

 

 

 私たちは、いつも正しくあろうとしています。いや、そんなことはないと思う人でも、いつも誰かの同意を得ようとしているといえば、まったく否定することはできないでしょう。

 

 私たちは、自分が正しくあることで、誰かからの注目…可能であれば同意…欲を出せば賞賛…無理と知りつつ尊敬を…得たいと願っています。

 

 だから、私たちは、自分と戦うのです。

 

 そう、尊敬どころか、賞賛どころか、同意も注目でさえも、ことによったら得られないようなつまらないことをしてしまう自分を正当化しようとして。

 

 

 正当化。
 自分がそうしなかったのにはワケがある。
 自分がそうできなかったのは、しかたがなかったのだ。

 

 どれもこれも、その通りかもしれない。それを聞いた他人は、私たちのいいわけに同情してくれるかもしれない。思惑通りに!

 

 でも、それはいいわけだと知っている自分がいる限り、心の平和は訪れない。

 

 嘘つきの自分と戦う。正当化するために戦う。正当化した自分を守るためにも戦う。

 

 そういう自分を見抜く他人とも戦う。

 

 他人を事実以上に理不尽で不当で愚かな人と思うことによって、自分の正当性を信じようとする。

 

 自分が持っていた些細な正義を、ことさら大きく振りかざして、自分の正当性を主張しようとする。

 

 

 もう、そんな生き方はやめにしたいよね。

 

 いつでも、誰に向かっても、どのような場所でも、心に優しさと平和を満たしていたい。

 

 人をないがしろにし、暴力的な気分になり、愚痴や弱音を吐きまくって、同情を買うような生き方は、もうしなくていいはずです。

 

 

 何かを変えようと思ったら、変えた後のことを考える必要があります。

 

 悪い習慣をやめるなら、悪い習慣の代わりにする新たな習慣を先に身につける必要があります。

 

 たとえば。

 

 最近、電車通勤をしています。3ヶ月続けたところで、通勤届を自家用車から電車に変え、駐車場を解約する手続きをしました。車であれば20分かそこらでできる通勤をわざわざ倍以上の時間がかかる電車に変えたのには、いろいろと理由があります。続けられるのか?という不安もよぎります。でも、私は自動車で通勤時間を短縮する代わりに、通勤を利用してたくさん歩くという新たな習慣を手に入れたのです。

 

 生き方についてなら、通勤方法を変える以上に丁寧に、次の行動を先取りして、習慣にするのが大切でしょう。そうしないと、きっと簡単に、もとの自分に戻ってしまいます。自分のずるさや、いい加減さや、虫のよさを正当化して、自分をだます自分に。

 

 

 自分と戦う人は、人とも敵対しています。人と敵対している人は、自分ともまた敵対しています。

 

 やめましょう。もう、やめていいよね。

 

 苛立ちや怒りを手放した生き方は、確かに存在しています。

 

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心の平和

 おはようございます。Hikariです。

 

 人というのは、「関係」の中で生きている生き物ですね。

 

 その「関係」がどのようなものかで、人のあり方が変わってしまいます。

 

 

 

 あなたにも経験がありませんか?

 

 こちらの人と一緒にいると、自然と笑顔になって、気持ちが穏やかになる。困っていたらすぐに手を差し伸べられるし、お昼ご飯ぐらいおごってあげてもぜんぜん気にならない!

 

 ところが、あちらの人と一緒にいると、もうそれだけで心が緊張してしまう。自分の嫌な面がどんどん表面化して、相手を拒絶したくなる。イライラして、言葉はとげとげしくなって、手なんか差し伸べられたら、つい振り払ってしまう。1分だって、1円だって、この人のためになんか使いたくない!と感じてしまう。

 

 

 この違いはどこから来るのでしょうね。

 

 答えは、相手の振る舞いにあるのではなく、私自身のあり方なんだということは、とてもよくわかっているのです。

 

 でも、それならどのようなあり方をしていれば、すでに「イライラしてしまう人間関係」に突入しているものを、穏やかで平和な関係に直していけるのか。このところの、最大の関心事でした。

 

 先日読み始めた本がこれ。

 

2日で人生が変わる「箱」の法則

 この本のメインテーマが、私が知りたかったことのようです。

 

自分の小さな「箱」から脱出する方法

 復刊のご協力を呼びかけたこともある1作目のこちら。多くの人の支持を得て復刊を果たした後、第2作が今読んでいる本となります。

 

 相手の振る舞いに左右されない心の平和の持ち方。

 

 是非手にいれたいですねぇ、これは。

 

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