おはようございます。Hikariです。
昨日は、雨が降るとは聞いていましたが、予想以上の激しい雷雨でした。勉強している弟子の肩越しに見る稲妻は、なんとも激しく、きわどく、なぜか私の心を波立たせます。
ヘッセの『デミアン』は、私がこよなく愛している1冊です。大学生のときから何度読み返したことか、その都度、遠慮無しに線を引くので、もう文字が見えないほどになった部分があるほどです。
その変色した文庫の中に、折に触れて思い出す、ものすごくお気に入りの一節があります。
鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなくてはならない。
この卵は、いったい幾重の構造をしているのでしょうか。
まるでマトリョーシカのように、卵を破壊して外に出たつもりでも、また別の殻にぶち当たります。
そこで、ああ、またかと諦めてしまったら、もう外には出られないのです。生まれ出ることはできないんですね。
もう数もわからないほどの殻をぶち破って、疲れて、くじけて、でもまた元気を出して立ち向かって。
そういうことを熱心にやりつづけるということが、生まれ出るということなんですね。
だったら、生まれ出るということは、簡単なことでも、楽なことでもありません。
そったく、という言葉を、以前このブログでもご紹介したでしょうか。
卵を温めている母鳥たちは、雛が卵の内側から懸命に卵を突き破ろうとつついているとき、最後の最後のところで、外からコンッと力を貸すのです。そうするとパリンと殻が割れて、雛は外の世界に出てきます。
その、母鳥のひと突きを「そったく」「啐啄同時」といいます。
できる限り、自分の力で出てきなさい。最後まで諦めないで、叩き続けなさい。
そう祈るように見つめながら、でも、雛鳥が一番苦しい最後のひと叩きの時に、雛鳥が殻をつつくと同時に、思わず知らず力を貸してしまう。
そこに、母鳥の深い深い愛を感じて、心を動かされるのです。
私がずっとずっと、とても大事にしている言葉です。
師匠とか、先生とか、マスターとか呼ばれる人の仕事というのは、究極はこの母鳥のように、雛が自力で卵を割って出てこられるだけの体力をつけるよう、必死になって温め、最後の最後の刹那に、コンッと力を貸すような、そうして力を貸してもらったということを雛鳥に気取らせないような、そういうものなのかもしれません。
私の弟子達はいま、これまでの自分という小さな殻を突き破って、広く大きな世界に生まれ出ようとしています。
その殻は、幾重にも幾重にも取り巻いているので、彼らの力だけでは頼りなく思えてしまうことがあります。
私の役割は、彼らの体力を増すこと、その一点にあります。そうして、諦めないでね、大丈夫だよ、もう少しだよ、よしよしうまくいっているよと、励まし続けるのが存在意義です。
でももう、ただ側にいて、見守るしかないような時もあります。
最後には、側にさえ、いられなくなります。
それでも、最後の最後のその瞬間に立ち会って、コンッと手伝ってやりたいと思う。母鳥ならぬ我が身には、それはもう神様の仕事なのに。
私に神のまねができるのでしょうか?
私という具体の存在なしに、彼らの側にあって、最後の殻をつつく手伝いができるのでしょうか?そうするために、いったい私はどうすればよいのでしょうか?
これが神の仕事なら、神様もまた、私のように屈託する日があるのでしょうか?
あると知ったら少しは、気持ちが軽くなるかもしれません。
∞ おや、いったい誰が「屈託」を作ったと思っているんだい?神をそんなに脳天気な存在だと思っていたのかい?
いいえ。そうではありませんが・・・
∞どうしたのだ。君らしくないね。夢から醒めておいで。君は、君が信じていたとても大切なことを見失っているよ。
夢ですか?
∞そうだ。君は神の手伝いをしている。しかしそれは、だからといって全てが君の思い通りになるということではない。神をコントロールすることはできないよ。
ああ、そうでした。そうでした。私は大事なことを見失っていました。
すべては、もっとも必要な場所で、最高のタイミングで、最高の形で、実現するのでしたね。私たちがどんなに願っても、それがまだ至っていないなら、実現しないほうがいい。実現するまで伸ばすのみ、でしたね。
∞いい子だ。そのとおりだよ。
私は、祈り方を変えなくてはなりません。どうぞ、弟子達と私の願いを後押ししてくださいではなく・・・
∞では、祈りなさい。
もしも私たちの願いが神の御心に叶うなら、どうぞ実現させてください。もしまだ至らないなら、どうぞ彼らを私にお返しください。私は喜んで彼らの成長のために力を尽くし続けます。
∞よろしい。







だったんですけどね〜


ダンナの話を持ち出さないでよ〜〜〜




