Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。


そのご婦人方は、だいたい月に1度くらいの割合でやってくる。
一番若い人で50歳くらい、上は…80代かもしれない。
6人組だ。
それぞれに、人目を意識した、きちんとした服装をしている。
多分、ここに集まる日は、彼女たちにとってちょっと特別な日なのだろう。

カラリンコロン。
カウベルが鳴ってドアが開くと、彼女たちがやってきた。
残暑も消えた10月、もう長袖でよいが、コートはいらない。
彼女たちのオシャレが一番輝く季節かもしれない。
その日も、それぞれにお似合いの服を着こなしている。
主張しすぎない、でも、ひとりひとりが個性を発揮している。

どう見ても、仕事がらみの関係ではなさそうだ。
いつも聞こえているわけではないけれど、仕事の話が出てきたことがない。

家族の話もしない。
このくらいの年齢のご婦人が話していると、話題はたいてい、ご夫君の腹が立つこと、お子のこと、お嫁さんの気に食わない点、お姑さんのいじわる、病気のこと、年金のこと、王子のようにかわいらしいスケート選手のこと…と相場は決まっている。
でも、この集団は、いっさいそういう話をしない。
そこに気付いて興味を持ったくらい、珍しいことだ。
きっと、家族がいない人も混ざっているのだろうと、勝手に思っている。

名前の呼び方も面白い。
○○さんと苗字を呼ばないから、正直、どれがだれだか分からない。
みーちゃんだの、はっちんだの、くーこだのと、元の名前が想像できない。
ときどき「ぱるる」と聞こえる。
ちょっと前まで、郵便貯金がそんな名前じゃなかったか?

さらに、日によって「座長」が回るらしい。
仕切り屋さんが入れ替わって、「それでは…」と乾杯したあと、「今日のお題は…」と続く。
そこで提示されたお題について、6人はそれぞれに歓談するのだ。
これまでのお題はどれも面白可笑しいものだった。
「都内で一番おいしいケーキ屋さんは」「人生で一度は観なくちゃ損する名作映画」「パーフェクトな男性に一点だけ残念なところがあり、一気に気持ちが離れるとしたら、その一点は?」などなど。
その答えがまた、いちいち可笑しい。

6人がまとまって座れるテーブルは、小紫には一つしかないから、彼女たちは案内されなくてもそこへ行く。
そういえば、彼女たちがいない日は、いつもの常連さん…元さんや宮田先生や長さんが…そこにいるのだが、どういうわけか、かちあったことがないなぁ。

さざ波のような笑い声を立てながら、座に落ち着き、ぞれぞれの前にグラスが置かれると、今日の座長が腰を進めて声を出した。
「では、残暑とのお別れに乾杯!やっと平常心で生きられるわね。」
「ほんとうに。きつかったわぁ。」
今日の座長はどうやら、一番若い彼女らしい。
「さて、みなさん、今日のお題を発表してもいい?」
「ええ、もちろん。今日は何かしら?」
僕もつい、聞き耳を立てる。

「今日のお題は、『死ぬまでにしたい10のこと』です。」
「えっ?」
「私たちもだんだん残りの人生が見えてきているじゃないですかぁ。」
「何言ってんの。あなたは100まで生きそうだから、あと50年はあるわよ。」
あはははと笑い声がそろう。
「だとしてもです。その50年は今までと同じって訳にいかないでしょう?耳は遠くなる、歯は抜ける、髪は薄くなる、筋力は衰える、知力に至っては保証圏外でしょ?」
「うわぁ、ネガティブねぇ。」
「ネガ?」
「後ろ向きってことよ。」
「ああ。裏返しね。」
多少話の辻つまが合わなくなるのはしょっちゅうなので、気にしないことになっているらしいのも、このチームの特徴だ。

「ここまでくると、毎日毎日が、残りの人生の中で一番若い日なのよね。」
「ああ、確かにそうだわ。」
「一番なんでもできて、一番自由が利く日を一つずつ消費して生きていくのよ。」
「うんうん。」
「だから、ここらで一度、これはしておこうという大事なことをはっきりさせてみたらどうかと思って。」
「いいわねぇ。」

座長はバッグを手繰り寄せると、中からカードを取り出した。
「はい、これ、記入用のカードね。よく考えてここに書いてから、発表会というのはどう?」
「あらぁ、かわいい。ありがとう。」

カードがそれぞれの手にいきわたると、それぞれが自分のバッグから筆記具を取り出した。
全員がペンを持ち歩いていることに、小さな驚きを感じる。
どういう人たちなのかなぁ。

ところが、いつもと違って、ここからシーンと静まり返ってしまった。
あの面白おかしいやり取りは、ひとつもない。
それぞれが自分の考えに没頭している。
僕は、どんな決意が飛び出すのか、興味津々で話が始まるのを待った。






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「貴船さんと話していると、忘れていたことを思い出しますね。」
「そう?」
「ええ。でもこれって…。」
「何?」
「思い出しても大丈夫になったからなんですねぇ。」
「なんだい、しみじみと。」

貴船オーナーは下げてきたばかりのカップを丁寧に洗いながら声だけで答えている。
その気安さが嬉しい。
小さく揺れるオーナーの背中を見ていると、僕は本当に幸せなんだよなと改めて思う。

「病気が分かった時も、姉さんが日本を出たときも、あの教育実習も、その場その場ではショックで傷ついたりもしたけど、僕にはいつでも心強い味方がいて、安心できる居場所があったなぁと。
だから、ちょっとぐらい痛くても大丈夫だと思えるんだぁって。
で、実際、心の傷はいつの間にかふさがっていて、思い出しても痛まなくなってる。
それって、幸せなことですよね。」

最後の水滴を拭き上げたオーナーは、カップとソーサーを丁寧に棚に戻すと、ふふんと鼻を鳴らしながら笑った。
「そういうことを改めて言葉にされると、なんとも尻がくすぐったいというか、照れくさいものだなぁ。
でも、その通りなんだろうね。」

「青年!」

オーナーの声にかぶさるように、背後から突然声をかけられて、僕は呼ばれたからというより驚いて、振り向いた。
そこには先ほどまで深刻そうな話をしていた、今では女子高生のようにはしゃいでいる二人の妙齢の女性がいた。
「ぼくですか?」
「そう。悪いけど、話が聞こえちゃって。」
「すみません、うるさかったですね。」
「そうじゃないわよ。あなた、いいことに気付いたじゃないの!」
「はぁ、そうですか?」
「そうよ。若いのに、なかなかいいじゃない。」
「はぁ、ありがとうございます。」
掛け合い漫才のようなテンポの良さに押されて、ついお礼まで言ってしまった。

「今の自分の幸せに気付きながら生きるのは、きっと幸せな人生の近道よ。」
「そうそう。私なんか、日ごろの忙しさや目先のイライラに惑わされて、本筋をすぐ忘れちゃうもんねぇ。」
「それって、そもそも忘れやすい歳になったってことでしょ?」
「あら、そうかしら。」
「さっき、自分で言ってたじゃないのぉ。もう忘れたの?」
「あらぁ、ほんと、忘れちゃったわ。あはは。」

自分はいら立ちのあまりに、利用者さんを殺してしまうのではないか。
この、こちら側の人は、そんな話をしていたのだ。
でも、今はすっかり忘れたのか、肚の底から笑っている。
ここ『ルナソル』でのひと時が、この人の心にそよ風をもたらしたことは疑いない。

「ここはいいですね、貴船さん。」
「僕が心血注いでいる店ですから。」
「じゃ、今日はこれで帰りますけど、よかったら僕の店にも来てください。」
「もちろんうかがうよ。」
僕はその返事を聞きながら、こんな時のために、いつも財布に入れて持ち歩いている名刺をオーナーに手渡した。
「へぇ、穂高くんか。」
「ええ。僕も源氏名をもらいましてね。今ではホタカと呼ばれる方が断然多くて、どっちが本名か分からないくらい馴染んじゃいました。」

そうして、僕はオーナーにしか聞こえないくらい声を潜めて頼んだ。
「すいませんけど、何か書くもの貸してください。」
僕の意を察したらしいオーナーは、注文をメモするためのボールペンを胸元からさっと出して貸してくれた。
木目の美しい軸のペンだ。
こういうところまで100円均一にしないところが貴船たるゆえんなのだろう。

ヘンなところに関心しながら、僕はもう一枚の名刺を裏返して書き込んだ。

素晴らしい笑顔のお二人へ
今日の出会いが次に続きますよう
これをお持ちいただいたら、
お二人にお似合いのカクテルを1杯ずつ
サービスさせていただきます。
         幸せに気付いた青年より


オーナーにペンを返し、席を立つと、僕は二人の女性に向かってその名刺を差し出した。
「よかったら、次回はこちらにいらしてお話しなさってください。」
目を丸くした熟女たちは、名刺の裏を読むと歓声をあげた。
「ほんとにプレゼントしてくれるの?」
「はい、もちろん。お待ちしています。」
「もう、絶対行っちゃう!だってここ、案外近いじゃない!」

貴船オーナーに会釈して店を出た。
来た時以上の暑さが、ドアの外に広がっている。
ゆかりさんの家の庭に干したタオルケットとシーツを思い出す。
これならば、もうすっかり乾いたに違いない。

電車を降りてゆかりさんの家に向かう。
この道を歩いていると、ここが僕の居場所なんだなと、じわりじわりと安心感が広がっていく。
ルナソルも好きだけど、僕のホームタウンはここなんだ。
普段よりも宙に浮いている時間が少し長いかもしれない速足で、僕はゆかりさんの家に向かった。
「ゆかりさん、早く帰ってこないかな。」

5日間の北海道旅行にでかけたゆかりさんが帰るまで、あと2日ある。
自由人だから、「ちょっと延長ね」と連絡が来ても何の不思議もない。
別にいないと困るわけではないけど、仕事が休みだと、なんだか手持無沙汰だ。

ゆかりさんの家が見えてきて、僕は首をかしげた。
庭が見えるけど、洗濯物が見えない。
あれ?風に吹き飛ばされてしまったのかな?
それほど強い風が吹いたとは思えないけどといぶかしがりながら、僕は駆け出した。
「やっぱり、ない!」

庭に飛び込み、きょろきょろする。
洗濯カゴは置いた場所にそのままあるのに…

その時だった。
「穂高、ただいま!」
「ゆかりさん!!」

庭に面したガラス戸がガラリと開いて、ゆかりさんが全身を見せた。
「帰ってきていたんですか?あと2日残っていたでしょ?」
「それがね、聞いてよ。」

ゆかりさんはおいでとも言わないけれど、僕は縁側からゆかりさんのうちに勝手に入った。
それを咎めもせずに、ゆかりさんは旅が短くなった顛末を話している。
ふと見ると、畳の部屋にはアイロン台が出してあって、僕のシーツが半分、一つのしわもなく平らになっているところだった。





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教育実習が始まった月曜から衝撃の告白を聞かされた金曜まで、梅雨時にも限らず一度も雨が降らなかった。
なのに、土曜日は、早朝からしとしとと、絹糸を引くような雨になった。
僕は思うように眠れず、右へ左へと寝返りを打つばかりの夜を持て余した。
義理の父親からあらぬ振る舞いをされていると告げたあの女子生徒を思うと、居ても立っても居られない。
けれど、自分に何ができるのだろうか。
答えはみつからない。

自分がいまこうして煩悶している間にも、またひどい目にあっているのではないかと思うと、内臓を搾り上げられるような痛みが突き抜ける。
息が詰まってあえぐ。

誰にも言わないでと、彼女は繰り返した。
その思いに逆らってよいものだろうか。

いっそ警察に相談するのがよいだろうか。
僕がきっかけと分からぬよう、うまく実情を探ってはくれないか。

いや、警察は、目の前で起きるとか本人の訴えがあるとかでないと動かないと聞いたことがある。
そんなの、だめだ。遅きに失する。

逆光の中で、黒いシルエットの肩が震えていたのを思い出す。
ぐずぐずしている場合じゃないと、布団を蹴り上げて飛び起きる。

でも…。

長い長い土曜日は、そうやって焦燥のうちに過ぎた。
何を食べ、何を見、何をしたか、何も覚えていない。
ただただ、おろおろするばかりだった。

日曜日も雨は降り続いた。
蒸し暑くて、それだけでも気は晴れない。
やるせないほどに苛立つ空気と、時折不意に沸騰し、逆流するかのように感じる血流。
いっそ何も聞かなかったことにして、彼女の願い通り誰にも言わず、僕の胸の内に秘めておくのがベストだと、何百回も思おうとした。

けれども、結局僕にはそんな割り切りができなかった。
実習生とはいえ、彼女は今、僕の生徒なのだから。

やはり、指導教官の山田先生に相談するのが一番いい。
山田先生ならば、彼女のために最もいい道へ導いてくれるにちがいない。

一度そう心を決めると、月曜を待つ気になれなかった。
日曜日はもちろん学校は休みだが、山田先生はソフトテニス部の顧問でもあるから、部活に来ているかもしれない。
今思えば、あの雨の日にテニスをしているはずはないと思うほうが自然だが、その時の僕にはそんな常識さえ浮かばず、普段着に傘一つで学校へ向かった。

「練習は中止にしたんですけどね、たまった仕事をちょっと進めようかと思って。どうしたんです?何か指導案のことでも相談に?明日でも間に合うのに。」
山田先生はしんとした職員室で、生徒の作文を読んでいるところだった。
職員室に人の気配がないことを、僕は天の助けだと思った。
「山田先生、実は、生徒から大変なことを聞いてしまって…。」

僕は彼女から聞いたままを、できるだけ正確に、山田先生に伝えた。
初めは片手に赤ボールペンを持ったまま半身で聞いていた山田先生だったが、途中からペンを置いて、椅子ごと僕の方に向き直って聴き入ってくれた。
「そうですか。そんなことが…。」

僕の話を聞き終えると、山田先生はしばらく考え込んだ。
僕はその場に立ったまま、山田先生の考えがまとまるのを待った。
僕だってあんなに長く考えたのだ。
時間がかかって当然だと思った。

けれども、山田先生の沈黙は、長くは続かなかった。
「わかりました。彼女の担任に相談をとも思ったけれど、それより僕からさりげなく彼女に聞いてみることにしましょう。事実確認ができるまでは、知っている人の数は少ない方がいいでしょう。」 
その言葉で、僕はあらゆる重荷から一気に解放された気がした。
「ありがとうございます!よろしく願いします。」
肚の底から感謝し、学校を出た。
手に余る難問は一気によき道へと引き継がれ、僕の裁量から去っていった。
雨はますます降り募っていたけれども、帰りの足取りは軽かった。

途中でトンコツラーメンに舌鼓を打ち、帰宅すると同時に布団に倒れ込むと、翌朝まで、僕は一度も目を覚まさなかった。

事件は、月曜日に起きた。

週末に仕上げると約束してあった指導案が一文字も進んでいないことを確認すると、山田先生は月曜日一日を指導案づくりにしてよいと言ってくれた。
ホームルームも実習の一部だけれど、その日はそれも免除だという。
正直、職員室にこもっている免罪符を受け取った僕は、内心ほっとしていた。
この状況で、不意に彼女と対面するのが怖かった。

この教材のまとめが、研究授業になる。
この教材で、彼らの人生に役立つ何を伝えたいか。
それを、どうやって伝えるか。
僕は考えに没頭した。
指導案の白紙が、次第に文字で埋まっていく。
頭の中で、僕は何度も教壇に立ち、説明し、生徒の答えを聞いた。

「あの、ちょっといいですか。」
山田先生に呼ばれて我に返った時、時計はすでに午後5時を過ぎていた。
「はい、何でしょう。たくさん時間をいただけたので、指導案ならもうすぐ見ていただけるくらいになりそうです。」
「いえ、そのことではなく、ちょっと校長室へ。」
「あ、はい。」
あのことだなと、ピンときた。

山田先生に続いて校長室に入ると、驚くことに、大学のゼミの教授が校長の横に立っていた。
教授が実習中に訪問することは聞いていたが、水曜か金曜のどちらか、僕が授業をする日だと聞かされていた。
何か予定が変わったのだろうか。
怪訝に思いつつ、言われるままに、黒い応接セットのソファーに腰かけた。

「あなたから情報があった生徒の件ですが…。」
口を切ったのは、僕の正面に座った校長先生だった。
校長先生の隣には、一足遅れて山田先生が座った。
教授は僕の隣で、硬い表情をしている。

校長の視線を受けて、後を山田先生が引き継いだ。
「昼休みに、丁度彼女がひとりでいたので、最近困っていることはないかと、軽く尋ねてみました。
すると、驚いた顔をして、ぜひとも聞いてもらいたいことがあるというのですよ。
その場では話しづらそうでしたので、相談室に来てもらい、じっくりと聞くことにしました。
それによるとですね、どうも、あなたの説明とは少し状況が違うようなのです。」

「どういうことでしょう?」
僕は前のめりに尋ねた。
「放課後、教室で本を読んでいると、実習生がやってきて、しつこく話しかけるというのですよ。」
「ええっ?」
「近くに座ってきたり、馴れ馴れしく…気分を害したらすまないのですが、彼女の言葉を借りるとですね…接してきたりするとか。」
「そ、そんなつもりは!」
「これは、あなたの物ですね。」

山田先生が大理石を模したローテーブルにことりと置いたのは、僕の本だった。
彼女に貸した『葉桜と魔笛』だ。
「頼んでもいないのに、こんな本を押し付けられた、断り切れず借りてしまったが、触りたくないのでカバーをかけたと…。」
「う…。」
嘘だと言おうとして、ふと止まった。
確かに、彼女から貸してくれと言われたのではない。
読みたいなら貸しましょうかと言い出したのは僕の方だった。
それにしても、なんという悪意に満ちた誤解だろう!
いやならば、断ってくれればよかったのに!!

「金曜日も、ひとりでいるところへあなたが当然のようにやってきて、あれこれ悩みを相談され戸惑っていたら、君も話せと言われていよいよ気分が悪くなり、なんとかその場を逃れるために、でっちあげの相談めいた話をしたのだそうです。」
「で、では、あの話は嘘だと?」
「彼女はそう言っています。さらに、あの実習生の姿は二度と見たくない、あの人が来る間は学校を休むと言っています。」
「ご、誤解です。僕はそんな…。」

そこで、校長先生が厳かに言った。
「教室には行っていない、本も貸していないと?」
「いえ、そうではありません。それは僕の本ですし、教室にも行きました。彼女と話もしています。でも、邪な考えなんかかけらもありません!そんなのは誤解です!!」

「ええ。彼女の誤解かもしれません。でも、私たちは、私たちの生徒を信じます。」
揺るがぬ巨岩にぶつかったような衝撃だった。
「彼女の理解が誤解か正解かは別にして、彼女が誤解するような振る舞いが、あなたにあったという点が重要なのです。」
「…。」
僕は絶句するしかない。

「私たちが一番に大切にしたいのは、申し訳ないが実習生のあなたではなく、我々の生徒です。彼女を休ませてあなたの実習を遂げさせる選択肢は、私たちにはありません。彼女のクラスでの授業を続けてもらうことはできないし、他のクラスで研究授業をしてもらっても、教育実習全体の評価として、及第点を出すことは難しいでしょう。」
「あの…彼女と話し合わせてください。僕が誤解を与えたなら謝らなければならないし、僕が聞いたあの話も、嘘とは思えないんです!」

「お気持ちだけで。彼女にはそう我々から伝えましょう。」
山田先生が、いつもの穏やかな声で言う。
「実習は打ち切りということで。よろしいでしょうか?」
校長先生の最後の問いは、僕にではなく、教授に向けられていた。
「はい。承知いたしました。大変なご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした。その生徒さんが受けた心の傷を、どうか…。」
「はい、お任せください。」

一緒に帰ろう、荷物をもっておいでと教授に小声で言われ、僕は宇宙遊泳でもするような足取りで職員室に向かった。
他にお世話になった先生方がたくさんいらっしゃる。
でも、僕はそこであいさつをする気にもなれなかった。

校門を出るときに一度だけ学校を振り向いた。
希望と期待に煌めていていた場所が、今では灰色にくすんだ降魔殿に見える。
グラウンドから響く野球部の声も、吹奏楽の音色も、全てが葬送行進曲だ。

「先生、僕は…。」
「ええ。分かっています。あなたはそういうことをする人ではないからね。
高校が生徒さんを信じるように、私は君を信じていますから。」
「あ…。」
ありがとうが声にならず、不覚にも、大粒の涙が零れ落ちた。
顔を上げられない僕に、教授はひとことの小言も苦言もなく、かといって慰めもしなかった。
「こんなことがあっても先生になりたいなら、実習先はいくらでもあるから、またチャレンジすればいいでしょう。でも、君、よかったら大学院で研究を続ける道を選びませんか?」

僕は黙って頭を下げ、身をひるがえして、ここ、貴船オーナーがいる「ルナソル」を目指して駆け出したのだ。

あれから、3年。
僕は二度と教育実習に行くことなく、大学院へ進んだ。
あの日、屈辱に涙が止まらない僕を、閉店時間を過ぎてもずっと見守ってくれた貴船オーナーとは、言葉では表せない絆を結んだ。

今まで思い出すことも避けてきたが、あの時の女子高生は、あれからどうしたのだろうか。
僕が秘密を守らなかったことを覚って、彼女はあんな言い逃れをしたのだろう。
それとも、はなから僕をからかおうとしていたのだろうか。
あの逆光の中で震わせた肩は、泣いていたのではなく嘲笑っていたのか。

それでも僕には今でも、あの時の彼女の告白は、真実だったのではないかと思えてならない。
学校は、彼女の言い分を信じて僕を切り捨てる見返りに、親による重大な犯罪行為を見過ごしたのではないか。
彼女は希望通り、地方の大学に受かって家を出られただろうか。
僕には一切関係のないことだが。





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太宰の本を彼女に貸した翌日は、実習最初の一週間の最終日でもあり、彼女がいるA組の2度目の授業でもあった。
6月の梅雨時だというのに、その1週間は雨が降らなかった。
高2にしては簡単すぎるのではないか?と思うほどわかりやすい評論を教えるのはたやすく感じられ、物足りなく思う生徒の存在を思って、僕は少しずつ脱線して、あれこれと蘊蓄を織り交ぜた。
物足りなく思う存在…その時僕は漠然とそう考えていたけれど、今にして思えば、それは、あの彼女のことだったのだと言い切れる。

授業は無難に終わり、放課後遅く、僕はまた彼女の教室を覗きにいった。
いてもいいかと問われた通り、彼女はまだ教室にいて、その日も本を読んでいた。
吹奏楽部はにぎやかにマーチを奏で、グラウンドの野球部は時折高い金属音をさせながら盛大に声を上げている。
「やあ、熱心だね。」
「あ、先生。今日も黒板の練習ですか?」
「うん。読書の邪魔にならない?ここは君の教室ですから。」
「邪魔なんて!どうぞ。」
「では、失礼して。」

そう言いながら彼女は、もう読書に戻ることはなく、僕は僕で黒板に字を書く前の難問に答えを出せずにいた。
どういう経緯だったか、僕はその難問を彼女に話したのだ。
「来週の今日が研究授業なんですけどね、今日の僕の授業を見て、山田先生から難問をいただいてしまったんだ。」
山田先生は僕の指導教官だ。
40代半ばくらいの穏やかな男性で、いつもきちんとアイロンがかかったシャツに、無地ではないスラックスを履いている。 
口調もおっとりとしていて、この先生が生徒を叱るところなど想像できないほどなのだが、なぜか山田先生が教卓の前に立つと、生徒はふっとおしゃべりをやめて前を向く。
僕は大声をあげなければ振り向いてもらえないのに。

「難問って何ですか?私が聞いてはいけないようなこと?」
「生徒に聞かせていいかどうかわからないけれど…。まぁ、いいでしょう。あのね、山田先生は僕の授業を『評論文を教えている』授業だとおっしゃるんだ。」
「え?でも、評論ですよね?」
「確かに評論だよ。でも、山田先生がおっしゃるには、『本物の国語教師は評論”を”教えるのではなく、評論”で”教えるのだ』ということなんだ。僕にはその違いが分かるようで分からない。」 
「”を”と”で”の違いってことですよね?」
「まぁ、そういうことなんだろうね。」

彼女は漆黒の長い黒髪を片頬に落として、しばらく考えると、ふとつぶやいた。
「そうか!だから山田先生の授業っていつも面白いのね。」
「どういうこと??」
僕は教卓の前から彼女が座っている机の隣に移り、その椅子に座った。
「つまり、目的と手段ってことですよね。」
「え?」
「先生は評論を教えることを目的になさっている。でも、山田先生には教えたいことはほかにあって、評論文はその手段だっていうこと。」
「ああ、なるほどね。で、その教えたいことって?」
「そのことに、私も今気づいたんです。山田先生はいつも、生きる知恵みたいなこととか、社会のルールとか、なにかこう、教科書にそのまま書いてあったりはしないんだけど、すごく大切そうなことを話してくれていたんだって。だから私たち、山田先生の国語はみんな大好きで、けっこうやんちゃな人たちも授業の邪魔をしたりしないんですよ。」

ああ、そういうことか。そうか!
僕の目の前の黒いカーテンがサッと開いて、眩しい朝日が差し込んできたような、よろめきに似た衝撃を感じた。
ならば、分かりやすいものを解りやすく言い直しているだけの僕の話は、授業なんて呼べるものではない。
僕には生徒たちに伝えたい何物もない。

衝撃ではあったけれど、あの時の僕は心底気持ちが前向きだったのだろう。
よし、次の水曜日にまたA組に行くまでまだ時間がある、そこのところをもっと考えてみようと思えた。
「ありがとう。君のおかげで、悩みも解決。スッキリしたよ。お礼に、僕も君の悩みを聞いてあげるよ。」
深い意図などあろうはずもない。
ただ、本当に軽い気持ちで口にした言葉だった。

「お礼だなんて。」
彼女は口元を小さく微笑みの形にした。
「悩み、ないの?」
「悩みですか?」
彼女が特にこれと言い出さないので、僕は勝手にしゃべり続けた。
「それにしても君は毎日こうして暗くなるまで教室で本を読んでいるの?本なら家でも読めるでしょうに。何か帰りたくない理由でもあるのかな?」

その時の、彼女のはっとした表情は今でも思い出せる。
「先生、私の悩み、聞いてくれるんですか?」
「聞くよ。」
「誰にも言わない?」
「もちろん。」
守秘義務については、実習前に誓約書を書いた。
校長先生からもしつこいほどに言われたから、よく分かっている。

彼女はごくりと唾を飲み込んだようだ。
丁度、西日が強く差し込み始めた。
窓を背にして座る彼女を見ると、眩しくて仕方がない。
強いオレンジの光に守られて、僕には彼女の表情が見えない。

「私の母は、私がまだ小さいときに離婚して、今の父と再婚したんです。
私、新しい父のこと、けっこう好きで、すぐに仲良くなりました。
でも、私が中学生になったころから、父がなんだかおかしくなったんです。」
「おかしく?」
「私の入浴中にお風呂場をのぞいてきたり…。」
「…。」
「最初は気にしないようにしてたんです。でも、だんだんひどくなってきて。母がいないとき、家に二人だけになると服を脱げとか…下着をとって見せろとか…。」
「そんな、そんなばかな!」
「いうことを聞かないと殴られるんです。」
「だめだ。お母さんは?お母さんには相談したの?」
「ずっと言えませんでした。でも、耐えられなくて…。」
「お母さんは何て?お父さんと話し合ってくれたの?」
「話し合いというか、ケンカに。でも、私が悪いって言うんです。」
「なぜ!?」
「……。」

僕は絶句した。
こんなひどい話があるだろうか。
僕は興奮の極みにいた。義憤というのだろうか。
「あの、こんなこと聞いてはいけないと思うけど、でも、あの、見せろって言われるだけなの?あの、その、触られたり…はしていないの?」
そんなことを聞いて、僕はいったいどうするつもりだったのだろう。
何の考えもなかったくせに。

「…。」
彼女の答えはなく、代わりにひと際強くなった光の中で、黒いシルエットの肩が震えているように見えた。
「ダメだよ。許せない。」

「ありがとう、先生。聞いてくれて。」
「聞いただけじゃ!それで君、家に帰りたくないから、こうしてここにいるんでしょう?」
「いいんです。誰にも言わないでください。
大丈夫、私。地方の大学に行きます。
それで、家を出ます。それで終わりますから。
誰にも言えないけど、誰かに聞いてほしかったんです。
だからもう、忘れてください。」
「そんな馬鹿な!」
「じゃ、さようなら。ほんと、忘れてくださいね。」

彼女は素早く身を翻すと、教室を駆け出していった。
僕は、教室に一人取り残された。
この部屋に来た時よりも何百倍も何千倍も大きな難問を抱えて。





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大学4年で2週間の教育実習を迎えた。
大学を離れての実習はこれが初めてではない。
障害児が通う学校へ2日間、高齢者介護施設へも5日間、どちらも2年の時に体験に行った。
高校の教員免許だけなら不要な7日間だが、僕は中学校国語の免許もとるつもりだったので、この介護等体験実習というのが必要だった。

どちらも、人生初の場所で、右も左も上も下も分からない時間を過ごしただけで、精神的に得るものは大きかったけれど、何かをやりとげた気分にはとてもなれなかった。
でも、一緒に実習に行った学生の中には、その体験に深く感動し、ますます先生になりたいと思った、という人も少なくなかった。
そのへんから、僕は少しズレていたのかもしれない。

緊張と変な気負いで心がパンパンに膨れていた初日、 指導教官の後をついて回り、授業の様子を見学するばかりの2日目はあっという間に終わった。
3日目からは、早くも授業を受け持った。
現代文だ。

指導教官は、6月に実習に行った僕のために、2年生の現代文の教科書の、一番最初の評論文をとっておいてくれた。
分かりやすい文章だと思った。
これを生徒に理解させればよいのなら、自分にもできそうだと感じ、指導教官の配慮に心から感謝した。
指導教官は4種類・2学年にわたって授業を持っていたが、僕が担当させてもらうのは2年A組の現代文と、2年C組の古文だけだった。
指導教官がほかのクラスで同じ題材の授業をするのを見学させてもらうこともできる。
至れり尽くせりの待遇だったと言える。

初めての授業…つまり、最初の週の水曜日、A組の女子生徒が授業の後で質問に来た。
「さっき先生がおっしゃった、太宰治の小説、もう一度タイトルを教えてください。」
「ああ、『葉桜と魔笛』ですよ。」

授業の本筋のことではなかった。
説明のついでにちょっと触れた、太宰の小説に興味を持ったようだった。
長い漆黒の髪をした女生徒だ。
人形のように色白で、憂いを帯びた佇まいをしている。
目を彼女の後ろに移せば、チャイムと同時に飛びつき合ってじゃれていたり、早くも弁当を頬張りながら笑い興じている姿があちこちに見える。
それに比べると、まるで10も年齢が違うのではないかと思われるほどの落ち着きで、その女生徒はそこにいた。

「ありがとうございます。後で図書館で探してみます。」
「ああ、あの、それなら、明日僕のを持ってきてあげましょうか。」
「えぇっ、いいんですか?」
「いいですよ。繰り返し読んだから多少くたびれていますが、読むのに支障はないでしょう。それに短い話ですから、すぐに読み終えられますよ。」
「ありがとうございます。では、明日職員室にうかがいます。」

いまどきの子…といっても、僕と6つほどしか違わないわけだけど…の割には、美しい日本語を話す子だなと思った。
まさか、教育実習の大学生ごときに、質問をしてくる子がいるとは。
それも、意地悪やからかいではない質問を。
あの子が僕の授業を通じて国語に関心を深めてくれたなら、こんなに嬉しいことはない。
僕はすっかり教師気取りで有頂天になり、自分が犯した初歩的で重大なミスに気付かなかった。

次の日の指導案を提出し、急いで帰った僕は真っ先に、いつも手の届くところに置いてある太宰の文庫を鞄に入れた。
そして木曜日、僕はいつ彼女が来るかと、どこかそわそわと待っていた。
けれども、彼女は現れない。
古文の授業は、指導教官がやりかけていた品詞分解を引き継ぐ形だったので、指導の準備もさほどなかった。
職員室で、息詰まる思いでプリントを作成していたが、そう長くはかからない。
僕との約束を忘れてしまったのだろうか。
まあいいか、明日はまたA組での授業があるしと思い直した。

思い直しながらも、なんとなく、2年A組の教室を覗きに行ってみた。
もしもヘンに思われたら?
そうだ。板書の練習をしに来たと言えばいいだろう。
なぜ僕は言い訳を考えている?
何も疚しいことなどないのに。

彼女は、教室にいた。
ひとりで。
本を読んでいた。
本を買ったときの表紙ではなく、紺地に花柄のきれいなブックカバーがかかっていて、何の本かは分からない。
級友は下校するか部活に行くかしたのだろう。
別の階にある音楽室から、ブラスバンドの演奏が響いてる。
あれは、ツァラトゥストラかく語りきの、冒頭だ。

「おや、まだいたんだね。」
自分の声が不自然でないか、慎重に聴きながら偶然を装った。
「あ、先生。これ、面白いんです。つい夢中になってしまって。」
そういって彼女は、片手で本を少し持ち上げて見せた。
「そうなの。僕はちょっとここの黒板を借りて、明日の授業の練習をしたかったんだけど、邪魔になりそうだからほかの教室を借りることにするよ。」
「いえ、丁度いいところでしたから、私が帰ります。どうぞ使ってください。」
「いや、あの、邪魔してしまって…。」
「大丈夫ですよ、先生。」
「そうだ、これ…。」
僕は抱えていた教科書とノートに挟んでおいた太宰を取り出した。
「昨日約束した本、持ってきたんだけど、それが読みかけのようだから、これはいいね。」
「いえ、先生。ありがとうございます。お借りしてもいいですか?先生の実習が終わるまでには必ずお返ししますから。」
「そう?じゃあどうぞ。」
「ほんと、ありがとうございます。では、さようなら。」

丁寧に頭を下げて背中を見せた彼女が、ふと立ち止まって振り向いた。
「先生は明日も、黒板の練習にいらっしゃるんですか?」
まさか、君に本を渡すための口実だったとは言えず、つい
「あー、多分。僕は国語の先生になりたいくせに、字が汚いから。それに、どうしてもまっすぐ縦に書けないし。」
彼女はこのときはじめて、くすりと笑った。
「もしも、お邪魔でなければ、私、明日もここで本を読んでいてもいいですか?」
「もちろん。ここは君の教室ですから。お借りするのは僕のほうです。」
「じゃ、また明日。」

僕は先生として生徒に受け入れられている。
そう思えてならず、僕は心がふわふわと浮きたつような喜びを感じた。
教壇に一歩上がると、するつもりのなかった板書を練習してみる。
まっすぐに書けないのは本当だ。
でも、落ち着いてよく見ると、黒板には5センチ四方くらいのマス目がうっすらと描かれているではないか!
なんだ、これに沿って書けば、曲がることもないわけだ。

窓の外を眺めやったときの、黄色い夕日を覚えている。
ああ、教職は楽しいな。
あの時確かに、僕はそう思った。
思ったのに。





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