Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。


店に車が飛び込んでくるなど、誰が考えるだろう。
僕とゆかりさんはただひたすら驚いているだけだったが、誰かが通報したらしく、じきに警察や救急車が来て、あたりは大騒ぎになった。
救急車はなぜか消防車と一緒に来たから、小紫は火事を出したと勘違いしたご近所さんが避難する騒ぎもあったのだと後になって耳にした。

事故を起こした車を運転していた人は骨折など重傷を負ったが命に別状なかった。
奇跡に思える。
それほどに、小紫は壊れてしまった。
眠れない夜が明けて、僕とゆかりさんは恐る恐る外に出てみた。

突っ込んできた車は実況見分を朝からするとのことで、まだそのままになっている。
ドアがはずれ、窓ガラスが割れ落ちたことはわかっていたが、大事にしてきた看板がタイヤの下で粉々になっているのを見て、ゆかりさんは涙ぐんでいる。

「…でも、穂高に怪我がなくて本当によかったわ」
「ああ、そういえば…」
僕は、沖縄帰りのお客様にいただいたシーサーのことを思い出していた。
「あのシーサーが僕の身代わりになってくれたのかもしれないなぁなんて思うんです」
「ええ、きっとそうね。本当によかった。だって、ほんの1分、いえ30秒長く外にいたら、あなたがあの看板みたいになっていたに違いないのよ!」

僕は、事故の直後は驚きのあまりに腰を抜かして震えていたが、次第に驚きが冷めて、落ち着きを取り戻した。
ゆかりさんは逆だった。
僕が無事だとわかると、だんだん落ち着きをなくし、事故の様子がはっきりするにつれ、いつもの穏やかさをすっかり忘れて取り乱している。
こんなゆかりさんは見たことがなかったから、内心目を見張る思いだった。

ゆかりさんを一番不安にさせたのが、店のことではなく、僕の「無事」だった。
だってあと一歩遅かったら…と、何十回言われただろう。
僕が怪我を負うことが、それほどまでに大きな痛手になるのかと、改めてゆかりさんの思いやり深さに打たれた。
大事にしてきた店がこんなことになってしまったのに、そのことは一言も言わないのだ。

「おい、大丈夫か!」
聞きなれた声は元さんだ。
「すまなかったなぁ、何も知らなくて。
今仕事に行こうとして外に出たら、近所の人がここに車が突っ込んだと話していてなぁ。
飛んで来てみたら、なんてこった、こりゃ!」
「私たちはご覧のとおり大丈夫。
朝からごめんなさいね、心配かけて」
ゆかりさんがちょっとだけ「ママ」の顔に戻った。

それからの数日は大変だった。
実況見分とやらが終わるのには思いのほか時間がかかった。
それに、僕は人生で初めて事情聴取というのを受けた。
一番近い目撃者なので、警察署まで御足労願えませんかという。
それって犯人が聞かれるものじゃないんですかと尋ねたら、制服の警察官は、いえ関係者の皆さんからお話を伺っていますと、刑事ドラマみたいなことを本当に言った。

根掘り葉掘り聞かれるものだ。
僕がゆかりさんの息子ではないとわかると、ではなぜここに住んでいるのか、どういった経緯で働き始めたのかなどと聞いてくる。
そんなの、知らない車が店に飛び込んできたことと関係ないじゃないかと言いたくもなるが、相手が警察官だと思うと、なぜが言えなかった。
別に僕には疚しいことなど何一つないのに!

様々なことについて、それは何時ですか?確かですか?と何回聞かれただろう。
聞かれているうちに、自分の記憶に自信がなくなっていく。
そもそも、分刻みで時計を見ながら動いているわけではないのだ。
しかも、一番近い目撃者と言われても、扉を閉めたら車が突っ込んできたに過ぎない。
他に見聞きしたことは何もないのだ!!

どちらかというと気が長い方だと思って生きてきたが、そうでもないかもしれないと思うほど、この事情聴取には時間がかかった。
くわえて、僕を苛立たせたことがもう一つある。
「調書を取りますので、いいですね?」と言われてどうぞと答えると、警察官は僕の言い分をいちいちパソコンに入力し始めたのだ。
それが、遅いのなんの!
しかも、これで終わりです、こちらが調書です、内容を読んで間違いがなければ…と言うので読んだら、内容に間違いはなかったけれど、漢字は変換ミスだらけではないか!

少し迷ったけれど、僕が認めたサインが残ると思うと嫌だったので、ここのこの字が違いますと指摘し続け、まるで国語の先生が漢字テストを採点しているみたいなことになってしまった。
さっきまで、どちらかと言えば居丈高だった警察官が、不愉快そうに唇を引き結んで漢字を直している姿に、彼も人間なんだなぁなどとおかしなことを考えているうちに、イライラが消えていたから、まぁ、よかった。


事故車が片づけられ、店の入り口と窓にはとりあえずブルーシートが張られた。
僕が警察に出向いている間に、ゆかりさんはご近所の方の手伝いもあったとかで、飛び散ったガラスや使えなくなった看板をすっかり片づけていた。

事故の3日後になって、ようやく2人とも心の波が引き潮になったらしかった。
「あのー、ゆかりさん」
「なに?」
「朝からすいません、僕、久しぶりに本気で腹が減りました」
「あら、穂高も?実は私もなのよ!」

食事を抜いていたわけではないのだけど、食べている気がしていなかったことにやっと気が付いた。
あれから店はずっと閉めたままだから、夜は早く寝るし、朝はいつも通りだしで、健康的な暮らしのはずなのに、心が体に向いていなかったのだろう。

さあできたわよと呼ばれてテーブルにつくと、その日の朝飯は料亭にでも来たかのような豪華さだった。
「体に失礼なことをしちゃったみたいだから、ちゃんと美味しいものをいただいて、労わらないとね」
ゆかりさん独特の発想だなと、心地よく聞きながら、いただきますと手を合わせた。

こうして笑い合いながらのんびり食べるのはいつものことなのに、特に美味しく感じる。
「このだし巻玉子、絶品ですねぇ!」
などと言いながら、丁度良く腹が満たされたところで、ゆかりさんが言い出した。

「あのね、お店をちょっとまとめて改装しようかと思うのよ」
「え?」
「壊れたところを修理するだけじゃなくて、ちょっとね」
ゆかりさんがいたずらっぽく微笑む。
「そんなこと、していいんですか?」
「していいって?」
「よくわからないけど、事故で壊れたんだから、保険がきくっていうか、賠償金はもらえると思うけど、それって元に戻すための費用ですよね?でも、それ以上の費用は出ないんじゃないですか?」
「それはそうかもしれないし、違うかもしれない」
「違うかも?」
「だって、あの運転手さんが保険に入っていたかどうかもまだわからないわけでしょ?逆に考えれば、こうして営業ができなくなっている間の補償を求めることもできるかもしれないってことよね?」
「まぁ、確かに…」
「分からないことの答えが出るのをただ待っているのも、時間の無駄のような気がするの。
だったら、好きにしましょうって思ったのね」
「はあ」
僕にはゆかりさんが大胆過ぎるように思える。

僕の気持ちが顔に出ていたのだろうか。
ゆかりさんは化粧っ気のない顔を僕に近づけて、ねえ穂高、と呼びかけた。
「はい」
「穂高は、幸せでいたい?」
「そりゃそうですよ。違う人なんていませんよ」
「本当に、そう思ってる?」
「思ってますよ、当然」
「じゃ、どうしたら幸せでいられると思う?」
「え?」
いきなりそんな哲学的なことを聞かれても答えられない。
どうしたら幸せでいられるかなんて、人類普遍の問題ではないか。

「何かを手に入れる?何かを成し遂げる?もしもそれが条件なら、赤ちゃんや子どもたち、お年寄りはみんな不幸でいるしかないってことになっちゃうわね?」
「うん、確かにそうだなぁ」
「最低限の幸せって言ったらいいかしら。
何かものすごいことをしなくても、ただ生きているだけで幸せという状態の裏にあるものは何かと考えてみたことある?」
「いや、ありません…」
「間違っているかもしれないけれどね、私は今日まで生きてきて、いろいろな方に出会って、思うことがあるのよ。
それはね、幸せでいたければ、幸せな考え方をしたほうがいいってこと」
「幸せな考え方?」
「ええ。
悲しい時や苦しい時に、無理矢理前向きの考えを持てということではないから、誤解しないでね。
感じることと、考えることは違う。
穂高にはその2つを区別できる?」
「できる…気がします。」

「それなら、私が言いたいのは、感じることではなくて、考えることの方なの。
感じることは、何をどうしたって、勝手に感じてしまうから、誤魔化さずにそのまま受け止めたほうがいいと思うわ。
辛い、苦しい、寂しい、恥ずかしい、怖い、悲しい、不安だ、そういうものも、うれしい、たのしい、安心だ、みたいなものも全部ね。
でも、考えるって、自分で選べるような気がするのよね」
「例えば?」
「例えば、昔の嫌なことを何度も思い出しては人を責めてしまうとか、自分を責めてしまうとか。
人の欠点ばかりが目について、非難してばかりいるとか。
出来事を全部人のせいにして、愚痴や悪口ばかり言い続けるとか。
そういうことを頭の中でやっている時って、幸せかしら?」
「いやー、幸せなはずないですよ!
だって、そんなときって、自分はいつも被害者だーってベースがあるじゃないですか。
幸せな被害者なんて、いないんじゃないかなぁ」

「でしょう?私もそう思うのよ。
だとしたら、口や表情に出さなくても、頭の中で愚痴や悪口や非難や、そんな不幸なことを考え続けながら幸せでいたいと思うこと自体、矛盾していると思って。
幸せでいたかったら、幸せなことを考えてないと。
というよりも、幸せなことを考え続けていたら、何もしていなくても、持っていなくても、幸せなんじゃないかしら?」
「おおお!」
ゆかりさんの言いたいことが、僕にもようやく理解できた。

「今回の事故も、ぼんやりしていると、不幸な考えの種になってしまいそうな気がするの。
ご近所の方も心配したり、お気の毒ねなんて言ってくれたりするでしょう?
思いやりからだとは分かっているけど、そのままハイハイと聞いていたら、本当に被害者になってしまうわ。
私、それは嫌だなぁって、夕べしみじみ考えたの。
幸い、あの運転手さんも命に別状はないことだし、悪い人ではないでしょうから、いずれできることで償ってくれるでしょう。
被害を受けたことは、それで帳消しにして、私はね、この降ってわいたような『働けない時間』を、やりたかったけどまだできていないことをする時間にしようと決めたの。」

「へぇぇぇ!」
僕は心底感心してしまった。
メッチャすごい人に出会ってしまったんだ。
こんな考え方、こうして言われなければ一生気付かなかったと思う。

「ドアと窓を直すだけではすぐ終わっちゃうから、もうちょっと盛大に手をいれてもらって、時間稼ぎをね!?」
なんとまぁ。
真面目なんだか、イカレてるんだか。
とにかく、すごいおばちゃんだ!!

「そういうわけで、私、今夜から尼寺に行くわね。」
「はぁ???」






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そのお客様は、疲れた顔で小紫に入ってきた。
初めての方だった。
40代ほどに見えるその男性は黒いポロシャツにかなり履きこんだデニムと、元は白だったスニーカーといういでたち。
背負ったリュックはサイズ相応に膨らんで、何やら詰めてあるようだ。
街使いするデザインではなく、多分登山用なのだろう。

開店して間もなくのことで、まだ19時前だった。
4月になってから、歓送迎会の流れのお客様でにぎわうようになっていたけれど、こんな時間の一人客は珍しい。
ゆかりさんも奥から顔を出し、いらっしゃいませと声をかけた。

カウンター席の方を気にしているようなので、こちらでいかがですかとスツールを引くと、はいと答えてリュックを下ろしながら歩みを進め、ひょいと腰かけた。
「なにになさいますか」
問いかけながら気付く。
どこか、日差しの強いところへ行ってきた帰りなのだろう。
お顔が陽に焼けているのだ。
特に頬の高いところが赤くなっている。

「ものすごく冷えたビールが飲みたいなぁ」
「では、生で」
「いや、瓶がいい。小さめのサイズがあれば、なおいい」
「でしたら、こちらのピルスナーなどいかがでしょう。最近ご注文がなかったので、キンキンに冷え切っています」
「おお!それそれ」

ドイツ生まれのラーデベルガーをお勧めしたら、お気に召したらしい。
おしぼりとお通しを置いてすぐ、こちらもキンキンに冷やした細いグラスを添えてお出しする。
目の前でグラスに注ぐと、シュワシュワと音を立てて泡が立つ。
それを嬉しそうに眺めていると思ったら、喉を鳴らして一息に飲み干した。
「あーーーー、うまいっ!」
瓶に残っていた分は、ご自身で注いで飲み干してしまった。
「ビールはこの最初の1杯か2杯が最高に美味いんだよなぁ」

いや、実はさっき沖縄から帰ってきてねと、お客様は問わず語りに話し始めた。
修学旅行の引率だったとか。
つまり、この方は学校の先生なのだ。

僕の修学旅行は中学も高校も秋だった。
4月にって珍しいのではないかと思い、聞いてみた。
すると、旅行代金節約のために4月に設定したのだという。
「そんなに違うんですか?」
「大違いですよ」
「沖縄へ2泊3日なんて、新聞とかに39000円くらいで行けそうなプランがよく載ってるじゃないですか」
「あれは個人旅行だから安いんだ」
「修学旅行と違うんですか?」
「まったく違うんだよ。同じことをしてもこちらは10万くらいかかる」
「どうして?!」
「団体旅行料金というのは設定が別らしいんだな。それが法律なのか業界ルールなのかは知らないけど」
「そうなんですか」
「まぁ、大人数でいろいろと配慮もしてもらうからね、しかたがないこともあるんだろうけど」
「それで、秋と今ではどのくらいの差が?」
「4月中旬と下旬なら軽く1万円くらい。5月以降はハイシーズンだから、秋まで3〜4万円変わるかな」
「そ、そんなに!」
「最近は修学旅行どころか毎日の暮らしが苦しい家庭も増えているからね」
「それで…」
「でも、経験させてやりたいじゃないか。
空港を一歩出ただけで全身で感じる気温と湿度、青い海、普段は聞けない言葉、味、悲惨な歴史から学べる教訓…」
「みなさん、楽しまれたでしょうね。お疲れさまでした」
「ははは!楽しみすぎてハメをはずすのが必ずいるんだなぁ」
先生はそれ以上は言わず、うまそうにお通しの小鉢をつついている。

「ビール一本飲んだら帰るつもりだったのだけど、なんだか物足りないな」
奥からゆかりさんが出てきた。
「では、あと一杯だけ召し上がっては?」
「そうだね。何にしよう」
「もし、ご興味がおありでしたら…」
ゆかりさんが奥の冷蔵庫から350mlの缶ビールを持ってきた。
「あ、これは!」
「はい、沖縄のオリジナルビールといえばこのオリオンビールです。
もしかしたら、お仕事中では見ることはあっても飲めなかったのではないかと…」
「そうなんだよ。夜は先生たちだけ集まって酒盛り!なんてことが許されていた時代はもう30年前に終わっているからね」
「よく冷えていますよ」
「では、それを」
「グラスを替えましょうね」
「いいですよ、これで」
「いいえ。オリオンビールはこういうオシャレなグラスには合いません」
「あははは!なるほどね」

小腹が空いているから、何か腹にたまるつまみをと言われて、ゆかりさんはポーク玉子とやらを作った。
「これは?」
僕も聞きたかった。
「スパムという缶詰をご存じですか?」
「ええ。米軍が沖縄にいるせいで、沖縄の味になったみたいだね」
「あのスパムを細切りにして、炒り卵の中に入れるだけです。あとは適度に塩コショウ、ケチャップを添えてできあがり!」
「簡単だね。それなら僕でも作れる」
「美味しかったらお試しください」
「どれ…おっ、この塩味、疲れた体に沁みるねぇ」
「ビールにもなかなか合いますよ」

先生は沖縄で見たおもしろい風景の話をしながら、今度はゆっくりとオリオンビールを飲んだ。
ゆかりさんと聞きながらこちらも笑ってしまうような面白さがある。
でも、生徒さんのことは何も話さない。
僕は知っている。これは、守秘義務ってやつだ。

店にいらしてから30分ほどだろうか。
「ごちそうさま」
先生は爽やかに立ち上がった。
リュックを抱えて歩き出そうとして、ふと、立ち止まった。
「そうだ、これを差し上げましょう」
スツールにリュックを置くと、ジッパーを開けてごそごそと箱を取り出し、ゆかりさんに渡した。
沖縄土産の袋に、四角い箱が入っている。

「まぁ!嬉しいですが、いただくほどのことは何も…」
「いえね、僕は一人暮らしでね。
集団行動に疲れて、さっさと帰ってビールでも飲むかと思っていたのだけど、どうも今日はそういう気になれなくて、ふらりと入ってきたんですよ。
そしたら、思いがけず楽しませてもらった」
「それはありがとうございます。そのお言葉だけで」
「でも、それ、持っていたくないところもあってね」
「どうかなさったのですか?」
「お土産にあげたい人があったのだけど、渡しそびれた」
「では、ぜひその方に。今日でなくてもよいのでは?」
「ほかの人からもらっていたようだからね」

詳しく聞くこともない。
いろいろあって、小紫にたどり着いてくださったのだろう。
「では、ありがたくいただきます」
先生は、足取り軽く帰っていった。

まだ次のお客様には間がありそうで、僕らはその包みを開けてみることにした。
中にはシーサーが一匹。
きれいに彩られていて、怖くはなく、かえってかわいいほどの顔で笑っている。
「ああ、素焼きに絵付けをなさったのね。」
きっと、生徒さんの体験学習に付き合って作ったのだろう。
その手作りを渡したい誰かがいた。
だけど、他の誰かから、多分同じように手作りの何かを受け取っている姿を見てしまった。
手作りってやはりどこか特別だ。
思いがこもっている。
その、渡したかった相手に向ける先生の密かで微かな思いが。
きっと、残念だったよな。

「ここでいいかしら」
ゆかりさんは、カウンターの脇にそっと笑顔のシーサーを置いた。
極彩色の置物は、カウンターに南国の花を添えたようだ。
「いいですねぇ。僕も行ってみたくなったなぁ」
「穂高の修学旅行は?」
「東京でした。ディズニーランドですよ」
「あらま!」


その日のお客様はそれほど多くなくて、小紫は日付が変わる前に店じまいにした。
いつものように片づけをする。
カウンターを丁寧に拭き清めていたのはゆかりさんだ。
「あっ!」
という声の次に、ガチャン!と何かが割れる音がした。
「大丈夫ですか?」
テーブル席を拭いていた僕は飛び上がり、駆け寄った。
「大丈夫だけど、せっかくいただいたシーサーを割ってしまったわ…」
ゆかりさんがそんなことをするなんて信じられない。
僕ならいざ知らず…

「袖が触れただけだったんだけど…」
シーサーは固い床に落ちて、粉々に砕けてしまっている。
大きな破片を集め、あとは掃除機で吸い取ることにする。
「ああ、申し訳ないことをしてしまったわ」
ゆかりさんは珍しく、すっかり落ち込んでしまった。

「ほら、身代わりになってくれたんですよ、きっと」
「身代わり?」
「そう。思いを込めて作ったものだから、ゆかりさんの身に降りかかる悪いことを、代わりに受けてくれたんじゃないですか?
だから、ありがとうって思いましょうよ」
「そうかしら。
そうね、落ちるようなぶつかり方をしたわけでもないのに、こんなに砕けてしまうなんて、余程のことよね」

破片を入れた紙袋を両手で捧げ持ったゆかりさんが奥へ入るのを見送って、僕は店の外に出た。
看板の電源を切って、札をClosedにし、ドアに鍵をかけた時だった。
ギュィーン、ドッカーン!
ガッシャーン!
バリバリメリメリ…


とてつもない爆音と衝撃で、僕は吹き飛び、床に倒れ込んだ。
「なに?」
ゆかりさんの声が悲鳴に変わった。
「キャーッ!」
僕は全身が震え、腰が抜けてしまって動けない。
「穂高、穂高!」
ゆかりさんが駆け寄ってきて、抱きしめてくれなかったら、気を失っていたのではないかと思うほど驚いていた。

事態が理解できるまでどれくらいかかったのだろう。
僕がさっき鍵を閉めたドアが外れて傾き、車の頭が店にめり込んでいる。
脇の窓は割れ落ちている。
すさまじい物音を聞きつけたご近所さんたちが出てきたらしく、人の声もする。
僕は交通事故だと分かっても声が出ず、ひたすら震え続けていた。






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僕が小紫に来てから、2度目の桜が咲いた。
正月にゆかりさんの家に引っ越してきて、いきなり高熱を出して心配をかけた僕だが、そんな出来事が嘘のようにすっかりこの暮らしに馴染み、今ではずっと昔からここにいたかのような気安さだ。
すぐそばに自分以外の誰かがいる暮らしは、思っていた以上に僕を安心させるようだ。
自分ではない誰かが立てる音が聞こえる、それだけで、肩の力が抜ける自分がいる。
本当は寂しかったのだろうか。

ひとり自分のペースで好きに暮らすのが大好きなのだと思っていた。
今でもそれは変わりない。
ゆかりさんは、僕のすることに口出ししたり、踏み込んできたりは決してしない。
だから、一緒に暮らしていても、ひとりでいるのと大差ない自由を僕は満喫している。
思えば贅沢な話だ。

昨年、宮田医院の庭で花見をした、あれをもう一度と思っていたら、今年も当然のように計画が進んだ。
小紫恒例の花見と言えば、ある朝、早起きをして、元さんの車でちょっと離れた場所の桜を見る。
夕方戻って、宮田医院の庭で夜桜見物の始まりだ。
ゆかりさんは殊更に早く起きて、夜のごちそうを仕込む。
今年は、ごちそうに花を添える酒にもこだわったようだ。

昼間の花見は、今年も山梨に行くのだと言う。
身延山と聞いても、僕には知識がなくて、どういういわれの場所なのか分からない。
でも、あえて調べはしなかった。
知らないからこそ心動かす何かに出会えることもある。
行き当たりばったりの楽しみを、僕は今年も期待することにした。

まだ暗いうちに元さんのどこかペンキ臭い車に乗り合わせる。
僕は今年も途中でうとうとと眠ってしまい、揺り起こされたらもうどこかの駐車場に着いていた。
「おい、穂高。いいかげん、免許取れや。」
「はぁ、すみません。」
「カクテルより先に運転覚えろ。その方が人様のお役にも立てるってもんだ。」
「はぁ、ほんとにまったくすみません。」
「それより、行きましょう!」

身延山というから、山登りをして桜を見るのかと思ったら、久遠寺という寺のことだった。
辺りには見物客がすでに来ているが、歩くのに困るほどの混雑ではない。
「ほら、あれよ。見て!」
ゆかりさんのはしゃいだ声で、指差す方向を見上げて、僕は息を飲んだ。
門の脇に、薄いピンクの滝のように枝を風に揺らしている、巨大なしだれ桜が立っていたのだ。

「おおっ」
「これは、これは。」
宮田先生も八百屋の長さんも、息を飲んで見上げている。
「話には聞いていたが、見たのは初めてだ。いやぁ、見事なもんだなぁ。」
元さんも額をこすりながら感嘆の声を上げる。
「もっと近くに行けるのかしら。」
ゆかりさんの言葉は独り言で、周りがついてくるかどうかなど、もはや眼中にないらしい。
すたすたと歩き出す後ろから、僕らは慌てて従った。

門をくぐると、さらに大きな桜の木が僕らを出迎えてくれた。
「まぁぁ!」
樹齢400年と言われる木が2本もある。
長い枝は地面に着くほどで、それが満開の花をつけているのだから、美しいと言うくらいでは言葉が足りない気がするほどなのだ。

「すごいですねぇ。」
ありきたりの表現しか見つからないから、僕は黙って花を見上げた。
糸を引くようなそよぎ、ゆらぎに見とれていると、枝垂桜は「糸桜」ともいうのだという会話が聞こえてきた。
ああ、なんだか「糸」の方が似合うなぁ。
そんなことを考えながら、今日この日にこの場に来られた幸せを、神様仏様に感謝したい気持ちが湧きあがってきた。

参拝を済ませて、もう一度糸桜の下に立ってみる。
僕は小紫に来てから、自分の考え方や感じ方が、大きく変わってきたと感じている。
去年の僕は、見事な桜を見て、綺麗だ美しいと思うだけだった。
今年だって綺麗だなぁと思っているけれど、その先が、もう少し加わったのだ。

人生に起きる出来事は、良いことも悪いことも、きっとランダムに、場当たり的にやってくるのだと思う。
因果応報というけれど、それはすごく小さな単位でのことで、大きな目で見れば、因果応報なんて、頭のいい人の理屈だと思うのだ。
親孝行な人が悪い病気にかからないわけでもないし、人のために身を粉にして働いてさえいれば事故に遭わないというわけでもない。
逆に、悪さをしながら逃げおおせる人もいるのだろうし、子どもを虐待した親がみなみすぼらしい暮らしをすると決まっているわけでもない。
因果応報が本当なら、そんな理不尽なことが起きるはずがないではないか。

まして天災に巻き込まれた人々のことを思うと、因果応報では人生の機微を説明できないと思う。
生まれて間もなくひどい災害にあって命を落とした子どもと、災害が起きた直後に生まれた子どもとの差はどこにあるというのだろうか。
どんな生き方をしていたら、地震や洪水を避けられる?
そんな方法は、きっと、ない。

人生は、ランダムにやってくる様々なできごとに、自分でどんな理由をつけるのか、そういうものなのではないかと最近思うようになった。
「自由」という言葉の文字をよく見てみる。
「自分で理由をつける」と書くことに気付く。

同じ事故でも、不運と思うか変化のチャンスと思うかは、人によって違う。
同じ悲しい経験でも、打ちひしがれたままで生きるか、それをバネに立ち上がるかは、人によって違う。
そうしてきっと、自由であるということは、どういう意味付けが正解で、どれが間違いということもない。
ただ、自分にとって快適か、そうでないかはあるだろう。
幸せになりたかったら、快適な意味づけを選べばいいのだ。

小紫にはいろいろな人が訪れる。
その人たちが、人生の一端をぽろりとこぼしていく。
それに耳を傾けていると、同じように見える人の毎日には、思いがけないほど多様な出来事が起きているのだとわかる。
そうして、似たような出来事であっても、人によって反応が違う。
その反応が、その人を満足させもするし、不安にもさせるようなのだ。

それと、もう一つ。
小紫に来る前の僕は、家族と本さえあれば幸せだった。
家と図書館とゼミ室があればよかった。
教育実習で女子学生にだまされたように、僕は人が苦手だった。
人は分からない。
ともすれば、僕を利用したり馬鹿にしたりしているのだとしか思えない。
そんな思いに煩わされるのは本当に嫌だった。

きっと、そうやって閉じて生きるのも一つの選択なのだと、今は思う。
けれども、それではランダムにやってくるはずの出来事が、起きにくいのだなと思う。
外に出て、人に会い、場所を替えているうちに、人は様々な体験をする。
その体験が、人に何かを感じさせる。
感じるから、幸せも味わえるのだ。

この、目の前に咲き誇る糸桜もそうだ。
家にいて本を読んでいるのも楽しいが、元さんたちに連れられてでもここへ足を運ばなかったら、僕は今のこの胸の中を通り過ぎる思考や感慨を味わうことがなかった。
味わってみると、これを知らない自分が残念に思える。

ムリはしなくていい。
ガマンもいらない。
でも、できることでいいから、やってみるのは大切なのだ。

「僕は、ほんと、ついてるなぁ。」
僕の独り言を、いつの間にか周りに集まってみたみんなに聞かれてしまった。
「おう。そのツキを俺らにも分けろよなぁ。」
「不死身の穂高君だからねぇ。」
珍しく、宮田先生も軽口を言う。

「さ、お昼にしましょうか。今年はなにをいただきましょう。」
僕らは地元の美味しい店を探すために、聖地ともいえる心地よい境内を後にした。





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「俺が見ていなかった…いや、見えていなかっただけなんだなぁ。
世の中には、キラキラしたきれいなものや、かわいらしいものや、力強くて勇気づけられるようなものがたくさんあったんだ。

大したものじゃない。
俺の引き出しから出てきたガラクタと大差ない、ささやかなものだよ。
夕焼けとか、花屋の花とか、赤ん坊に笑いかけている若い夫婦とか、今までも、いつでもどこにでもあったようなものだ。
それが、唐突に目に飛び込んできた。
きっと、あれは目じゃなくて、心に飛び込んできたんだなぁ。
俺が子どもの頃に、恐ろしいものを見たくなくて塞いでおいたまま忘れていた心の目が開いたんだ。

そんな時だよ。
鹿島田文具の社長さんを接待することになったんだ。
お前、覚えているか?
どこだかと同じ日になって、お前と俺とで分担したことがあったじゃないか。
そうだ、あの時だ。

俺は部下をひとり連れて、でかけた。
俺のやりかたを引き継がせようとしていた、あいつだよ。
鹿島田さんはあの通りの人だろう?
今から思えば、きっと何かを感じてくださったんだろうなぁ。
1時間もすると、ふらりと席を立たれてなぁ、しかも、テーブルにぽいっと万札を何枚か出されたんだ。

俺らは飛び上がった。
とんでもないことだ。接待させていただいているのはこっちだからな。
でも、鹿島田さんが言ったんだ。
「あとは二人で、好きに飲めばいい。
私がいると仕事だろうが、いなくなればただの酒。
酒は好きに飲むのがいい。
特に今夜はそうするのがよいような気がするよ。」ってな。

ああうまかった、楽しかったよと背中で言って、出て行ってしまったんだ。
追いかけてもよかったのに、あの日の俺は、そのままお言葉に甘えてもいいか…と思ってなぁ。
あいつとそのまま飲むことにしたんだ。
とはいえ、俺は酒は飲めないし、あいつは緊張しているし。
微妙な空気がなんとも言えなくて。
あはは、おかしいか?
だろうなぁ。

これと言って話す気にはならなくて、ただ、せっかく頼んだのだから、残さず食うか、なんて言ってなぁ。
あいつは若い。
緊張しているくせに、食うわ食うわ。
人は食うと落ち着くんだなぁ。 
くつろぎもする。
俺は飲めない酒を飲んでいるふりしながら、そんなあいつを眺めていたんだ。

その時、気付いた。
俺の「委ねる」ってのは、間違っていたなぁ。
俺のやり方を引き継いで、俺と同じにやればいいというのは、俺の傲慢なおせっかいだったんだ。
本当に委ねるというのは、こいつがいれば大丈夫と信じてやることだったんだな。
やり方が分からなくても、俺と同じでなくても、こいつはやれると思ってやることだ。
もしも、こいつが知りたいと思ったとき、役に立つように、大事なことは整理しておいてやろうと思った。
でも、それをわざわざ言い聞かせることはないんだ。
それくらい、あいつはいいやつだった。
どうしてこいつを頼りないと思ったのか、そう思ったんだ。

俺が幼いころ、母親からもらいたかったのは、そんな無条件の信頼だったんだろうな。
そんな信頼のことを、愛っていうんだろうな。
本気で委ねるということは、無条件でいいんだ。

あの帰り道だ。
本気で委ねようとして、ようやく分かった。
俺は俺がいなくなったら、こいつらは俺がいたことを忘れてしまうのだろうと恐れた。
忘れられたら、俺が生きていた証拠がなくなってしまうと思ったからだ。
でも、それは俺の勘違いだ。

俺が生きている間も、死んだ後も、かつて俺が大切な人たちのそばで一緒に過ごした時間があるという事実は、絶対に変わらない。
その時が楽しく幸せであったなら、俺は俺の大切な人々の楽しく幸せな経験としてその人の中に生き続ける。
たとえ記憶に残っていなくても、事実は消えない。
それは、すごいことではないか!

焦る必要も、はかなむ必要もなかったんだ。
俺はもう十分に、仕事先でも、妻にも、子にも、大事な時を遺してきたんだ。
そうして、俺が生きている限り、その時はまだ増え続ける。
なんて幸せなことだろうかとなぁ。

妻には俺の気持ちの変化を話して聞かせた。
彼女も分かってくれたようだ。
治療を受けてくれというのは諦めてくれないが、俺が生きたいように生きていいと言ってくれたよ。
これから、今まで当たり前にできてきたことができなくなるのかもしれない。
心配や迷惑をかけるのかもしれない。
それでも、俺は、俺にできること、したいと思うことを、俺なりに精一杯やることで、許してもらおうと思う。
そうやって生きることを、自分自身にも許そうと思う。
そういう自分を、無条件で認めることにしたんだよ。

心残りはなくなった。
こうしてお前と、ずっと飲まずに来た酒を飲みながら語り合うこともできた。

ただ、心残りがなにもないかというと、そうでもない。
一番は、息子のことだ。
俺の今のこの気持ちを理解するには、彼はまだ幼すぎる。
だから、お前、いつか彼がもう少し大人になったら、どうか今夜の俺の話を伝えてはくれないだろうか。
そうすれば、彼は自分の父親が、彼を捨てて旅立ったわけではないことに気付くだろう。

ああ、今日はたくさん話した。
なんだか、少し眠くなってしまったよ。
ちょっとだけ、いいかなぁ…。」

舘さんが酒を飲まずに来た人だとは思わなかったが、またグラスをチロリと舐めて微笑むと、そのままテーブルに突っ伏してしまった。
どうやら、急に酔いがまわってしまったようだった。

「何が語り合うこともできた、だ。
勝手にしゃべりやがって。」
岩城さんの目が濡れている。
「不器用なやつだ。もっと楽に生きていれば、そんな病気にもならなかったかもしれないのに。
いや、それでも、お前はいいやつだ。
おい、起きろ。風邪ひくぞ。」

岩城さんに乱暴に肩をゆすられても、舘さんは起きない。
「おい。
息子には、お前が話せ。俺は知らないぞ。
心残りで死ねないだろう。
だから、長生きしろ。病気になんか負けるな。
癌から復活した人なんて、いくらだっているんだぞ。

もしも、どうしても俺に話してほしかったら、あと2回か3回は、同じ話を聞かせろ。
こんな長い話、覚えていられるかっていうんだ。
起きろよ、おい。
俺に家まで送らせる気かよ?!」

岩城さんの涙がこぼれて、舘さんの頬を伝っている。
舘さんの片腕が、だらりとテーブルから落ちた。
のぞいた横顔は、まだ微笑んだままだった。







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「俺には3つ下の弟がいるんだが…そうか、お前には紹介したことがあったか。
弟が生まれた後、おふくろがおかしくなったんだ。
マタニティーブルーっていうんだろうなぁ。
当時はそんな言葉、なかっただろうがなぁ。

弟が生まれたのを境に…というのは、後になって親父に聞いた。
俺の記憶にあるおふくろというのは、怒ってばかりいて、すぐに金切り声をあげる、恐ろしい存在でしかない。
『どうしてそんなことするのっ』『なにやっているのっ』『何度言えばわかるのっ』って調子で、何をしてもしなくても叱られた。
どうしていいか、分からなかったなぁ。
バシッとたたかれたり、押入れに突っ込まれたり、外に放り出されて鍵をかけられて家に入れなかったり。
そんなこともしょっちゅうだった。

黙って本を読んでいるとか、勉強しているとか、そういう時だけ平和だった。
とにかく、叱られる理由がわからないからなぁ。
いつ、何が降って湧くか、足元をすくっていくか、びくびくしながら勉強しているフリをしていたなぁ。

おれが中学に入るころにはそれほどでもなくなった気がするから、子どもが成長して、それなりに気持ちのゆとりができたか、ブルーから回復したかしたんだろう。
おふくろはそれでいいけど、子どもは大変だよ。
俺たち兄弟は、すっかりいじけちまった。
でも、自覚がなかったんだよ。

今から思えば、あの時に身に沁み込んだんだろうなぁ。
俺はダメなやつだ。俺は人に受け入れられない。
叱られないためにどうするかを考えることに一生懸命で、自分がどうしたいとか、何が好きとか、そういうことが分からなくなった。
それでも、母親ってきうのは嫌いになれないものだよ。
その分、母親を幸せにできない自分が嫌いになったんだなぁ。

思い出してみたら、心の中で四六時中「それじゃだめだ、そんなことを言ったりしたりしたら馬鹿にされる」と独り言を言っている自分がどうやって出来上がったか、なんだか分かった気がしたわけだ。
でも、あの母親も今では普通に愚痴っぽくて心配性な年寄りだ。
いまさら、「人に愛される自信がなくなったのはあなたのせいです」と言ったところで、何の解決にもならん。
時間制限がある俺にとって、大事なのは「なぜ」ではなくて「どうする」だからなぁ。

俺は一歩進んでみようと思った。
このまま家族を身勝手に抱え込んで死を待つわけにはいかない。
ならば、彼らに…俺の大切な人々に、後をゆだねようと思ったんだ。
俺がダメでも、彼らが引き継いでくれたら、それでいいと思った。

俺はまた会社に行き始めた。
それで、気力・体力が許す限り、周りの人間に俺が知っていること、学んだコツ、役立ちそうな知識を伝え始めた。
でもなぁ、これがまた、うまくいかない。
俺は苛立ってなぁ。
奴らの呑み込みの悪さには呆れちまうし、こんなトロトロしていたら時間切れになっちまう。
俺が今していることは無駄なのか?と思ったら、もうはち切れそうでなぁ。
けど、はち切れそうなのは俺より、周囲だったんだな。

そりゃそうだ。
突然、理由も知らされずに、あれも学べ、これも覚えろと言われたら、誰だって戸惑う。
でも、部下だからな。
文句も言えない、言わせる気もない。
これじゃだめだよなぁ。

俺はまた落ち込んだ。
いっそ、このまま自分で終わりにしてしまおうかと考えたのもその頃だ。
俺の残りの人生に意味なんかないってなぁ。

驚かないで聞いてくれ。
俺は、自殺を企てた。
どこでどう死ぬかを決めたんだ。
人様に迷惑は絶対にかけたくない。
そういう心配のない場所と方法…。

決めたらちょっとスッキリした。
それで、最後にやりたいことをやってから実行しようと思ってなぁ。
やりたいことと言っても、大したことはない。
遺書を書くとか、人に見られたくないものを処分するとかだ。
とはいえ小市民のすること、処分するにしても賞味期限が切れたカップスープだの、ベタついたのど飴だの、穴が開きそうなのに気に入っていていて捨てられなかった靴下だの、そんなしょうもないものばかりなんだ。

涙がにじんだよ。
情けなくてなぁ。
俺と同じ立場になる人は、きっと少なくないはずだろう?
その人たちみんなが自殺するとは思えない。
みんな俺と同じように動揺するに違いないが、だからといって不幸だとは限らないと思うんだ。
その人たちと俺と、いったい何が違うのだろうと思った。
子どもの頃の愛され方か?
だとしたら、ひどくはないか?
子どもの頃の悲しい体験は、子ども自身には何の責任もない。
子どもの力ではどうしようもないことばかりだ。
それが原因で一生どうしようもない不幸を背負うなんて、おかしいじゃないか。
きっと、何かあると思った。
俺がまだ気づいていない、何か他の考え方ややり方が。

俺は周りを見回した。
周囲の脅威から身を守るためではなく、周りにある素晴らしい秘密を見つけるためにね。
驚いたよ。
世界が、美しくてなぁ。」






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