Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。


夜中に、布団の中で肌寒いと感じる日が続いて、僕は押入れから分厚い羽根布団を引き出した。
眠りから覚める頃、布団の中がぬくぬくと温かいのは本当に幸せだ。
あと少し、もう少しこの幸せに浸っていたいと思いながら起き出すのがいい。
晩秋から冬にかけての、朝の楽しみでもある。

「ちょっと計画が遅れたけれど、やっぱり紅葉狩りに行こうかね。」
午後8時。
常連さんが集まって、ゆかりさんを交えてにぎやかに語り合うのを耳にしながら、僕も年齢を重ねたら、こんなふうに友達と笑い合えるオヤジになりたいなどと、年よりじみたことを考えた。
「観光地は混雑するからちょっとね。」
渋滞が嫌いな元さんは、どうにかして穴場を探したいらしい。
「遠出をしなくてもいい場所はあると思うよ。」
最近、診療を減らしているという宮田先生は安心してグラスを傾けている。
後継ぎがしっかりしているから、楽隠居の体だ。
これもまた、羨ましい。
「このところ、都心も急に気温が下がる日が続いたからね、どこもかしこも紅葉だろうよ。」
「自然の山もいいけれど、人が考えて作り上げた庭園の紅葉も見事よね。」
「なるほど、庭園か!」

ここしばらく、小紫は新しいお客様が来ないでいる。
もともと派手な作りではないし、宣伝もしないし、新規のお客様が来ることの方が不思議なのだ。
なのに、ぽつり、ぽつりといらしていたものだが、最近は常連さん方ばかりなのだ。
「そういう時もあるわよ。涼しくなると夏の疲れが一気に出て、外でお酒をなんて気分にならないこともあるでしょう?」と、ゆかりさんは何とも思っていないようだ。
が、僕は小紫がこのまま衰退して行ってしまうような気がして、なんだか落ち着かない。
だからといって、どうしたらいいかアイディアがあるわけでもないのだが…。
ああ、どうかいろいろなお客様に来ていただけますように!

カラリンコロン。
祈ったとたんにカウベルが鳴った。
「いらっしゃいませ!」
僕の声に迎えられて入ってきた客は、男性が4人。
どなたも初めて会うお客様だ。
やった、僕の願いが通じたんだと、心が小躍りする。
「どうぞこちらへ。」

みなさん、60代とおぼしき普段着で、仲良しなのだろうか、笑顔ばかりが並んでいる。
4人目に入店した男性だけが他の方よりも年上で、80代にも90代にも見える。
はっと眼が止まる人物だった。
髪が、一本もない頭が、見事に照り返っているのだ。
眉毛は真っ白で、小柄な引き締まった体と柔和な表情とは結びつかないような存在感がある。
裾の長い半纏のようなものを羽織っていて、中は作務衣のようだ。
足元は草履をはいている。

「あら、和尚様ではありませんか!お久しぶりでございます。ようこそお運びを。」
ゆかりさんが小走りに出迎えた。
和尚様?
「ご息災でいらしたのですね。」
「ああ、元気ですよ、このとおり。」
お年の印象の割には、言葉がはっきりとしていて、声がよく通る。

「今日は檀家の集まりがあって、散会ののちも話が尽きなくてね。」
一番最初に入ってきた男性が話を継いだ。
ゆかりさんはこちらの男性も知っているらしい。
「そうでしたか。」
「それで、場を変えて、少し口を湿しながら話の続きをしようかということになって。」
「和尚様もこのような場へでかけるのは久しぶりとおっしゃるので。」
「ならば、気心のしれたこちらがいいだろうとね。」
「飯もうまいしなぁ。」
「まぁ、光栄ですわ。ありがとう存じます。さ、どうぞ。」

僕が来てからいらっしゃらなかっただけで、元々こちらのお客様だったようだ。
なんだ、そうだったのか。
でも、久しぶりのお客様を迎えるのを、ゆかりさんはことのほか喜ぶ。
今夜もいい夜になりそうだ。


「和尚様は今もお酒は召し上がらないのですか?」
ゆかりさんは和尚さんの上着を預かって、左腕にかけたまま、席の脇に片膝をついて語りかけている。
「いただきませんよ。」
「では、今夜は何をご用意しましょうか。」
「そうだなぁ。このところ、年のせいか手足が冷えていけない。何か体が温まるものがいいね。」
「でしたら、しょうが汁をたらした葛湯などはいかがでしょう。」
「おお、それはいい。それをいただきましょう。」

他の人々からもそれぞれに注文をいただいたので、僕とゆかりさんは厨房に飛び込み、いそいそと準備をした。
今夜の突き出しは「湯葉巻天ぷら」だ。
これは、絹ごし豆腐の水をじっくりと切り、一口大に切ったものを戻した湯葉で丁寧に巻いて天ぷらにしたものだ。
湯葉がさっくりと揚がると口当たりがよく、中からとろりと豆腐が出てくる。
ポン酢でも、わさび醤油でも、柚子塩でも美味しい。
僕も大好きな一品だ。

飲み物を用意してフロアに戻ると、驚く光景が広がっていた。
さっきまで紅葉狩りの話をしていた元さん、長さん、宮田先生の3人が、和尚さんのお仲間と一つになっていたのだ。
テーブルも椅子も好きに動かして、大テーブルになっている。
和尚さんの席だけは先ほどと同じ位置で、他のみなさんが和尚さんの話を聞ける位置にずれた感じだ。

和尚さんご注文の葛湯は作るのに少し時間がいる。
他の皆さんは、その葛湯ができるのを待って、乾杯!と声を上げた。
この葛湯は、僕も風邪をひきかけたときに作ってもらったことがある。
しっとりと甘みがあり、ショウガが香るように混ざっていて、とろりと舌から喉を通り過ぎていく。
うまかったので、後で自分で作ってみたが、粉っぽい味がするばかりか、舌触りがざらざらして、不味いとしか言いようがなかった。

しばらくあれこれと世間話に花が咲いていたが、いつしか和尚さんの話をみなが傾聴する形になった。
説法と言うのだろうか。
きっと、ずっとずっと何十年も、和尚さんはこうして話してこられたのだろう。
ああ、だからこんなによく通る、いい声をなさっているのかと合点がいった。
僕も古典文学なんかを学んできた人間だから、こういうお話が聞ける機会を逃す手はない。
ほかにお客様もいないし、お出しするものも途切れたので、カウンターのなかからお話に耳を傾けることにした。
ゆかりさんは呼ばれて、和尚様の隣の席に座っていた。

「この頃の仏教はいけない。寺々も、もっと考えなくてはいけないと思うのですよ。
寺も仏教も、この厳しい世間を今生きていらっしゃる皆様方のお支えに、少しもなれてはいませんよ。
これではいけない。」
和尚さんが悲しげに語っている。

「私ども修業者は、もっともっと語らねばならぬと思うのですよ。
人とは何か。
苦とは何か。
悟りとはいかなるものか。」

「それはすごい!」
宮田先生が受けた。
「和尚様は語れるのですか?人とは、苦とは、悟りとは何かを?それは人間普遍の哲学ではありませんか!」
「オレみたいな頭の悪い者にでも分かるように話してもらえるなら、聴きたいなぁ!」
八百屋の長さんがいうと、和尚さんだけでなく、他の人も笑った。

「ああ、わかる、わかる。
わからいで、和尚が務まるものかね。」
「本当かね?もしもそんなすごい話がわかったら、オレの墓は和尚様んところの墓地に建てるよ!」
「おお、では、気合いを入れて話すとしようかね。」

一同大笑いしている。
僕は胸の底からゾクゾクと期待感が湧いてくるのを抑えられなくなってしまった。




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今年の夏は暑かった。
いや、夏とは暑いものだけど、暑いにもほどがある。
いい加減うんざりし尽したころ、いくつかの台風が通り過ぎ、ようやく秋風が吹いた。

夏の始めに、「一夏の恋」などという慣用句とは縁がないらしい自分を知った。
戸惑いもしたし、落ち込みもした。
多少だが、悩んでもみた。
今すぐ結婚すると言ってもおかしくない年齢なのに、女性に興味がわかないなんて!

けれども、あっという間に、悩むだけ無駄だと気が付いた。
悩んで解決するなら悩めばいいだろうが、これはそういうものではないだろう。

恋待先生は、僕のこの状態を、過去の治療の影響ではないと言った。
トラウマだろう、とも言った。

トラウマだったらどうすればいいんだ?と考えてもみた。
カウンセリング?
それはそれでいいのかもしれない。
それで普通になれるなら、大事なことかもしれない。

でも、「普通」っていったい何なのだろう。
僕にとっての「普通」は、僕が決めてもいいのではないだろうか。

夏祭りにでかけただけで熱を出した。
それだって、世間の人が聞けば「普通」ではないだろう。
だけど、僕はそんな人なのだから、僕にとっては「普通」だ。
いいじゃないか。

僕には両親がいない。
父親は見たこともないし、母親はもう死んでしまった。
両親そろっていないのは「普通」じゃないという人もいるだろう。
でも、僕にはどうしようもない。
これが、僕の「普通」だ。

両親はいないけど、遠くにやたらと元気な姉さんがいて、婚約者ができた。
人種のちがう弟もできるらしい。
毎日の暮らしの中には、ゆかりさんという雇い主兼血のつながらない家族みたいな人がいる。
元さんや宮田先生みたいな、お客様兼年上の友達もできた。
会社勤めじゃないけれど、小紫という職場があって、バーテンダーという仕事がある。
これが今の僕の「普通」だ。

クラシックもジャズも好きだけど、ロックには興味がない。
興味がないけど、聞けないわけでもない。
女の子に興味が薄いというのは、それと同じことだ。
話ができないとか、側に寄ってほしくないということでもない。
かわいい子はかわいいし、きれいな人はきれいだ。
それが、僕の「普通」でいいじゃないか。
考えがここまでたどり着いたら、何も気づいていなかったときよりもずっと気が楽になって、肩の力が抜けた。

それに、僕は幸せだ。

子どもの頃は、幸せには条件があると思っていた。
大きな家とか、たくさんのお金とか、贅沢な食事とか、高価な服とか、賢い犬がペットだとか。
そういうものを持つことが幸せなのだと思っていた。
ところが、毎日を「普通」に生きていると、ちょっと違うのかもしれないと思える。

朝、爽やかに目が覚める。
ゆかりさんが、美味しい朝ご飯をこしらえてくれる。
畑に出て、野菜を収穫する。
お店をピカピカに磨き上げる。
たくさんのお客様が来てくれる。
くたくたになって入る風呂。
ああ、明日はちょっとでいいから時間を作って、あの本を読もうか、あそこへ行こうか、あれを食べようかと考える。
自分にちゃんと居場所があり、することがあり、したいことがある。
そういう小さなことが幸せを創るんだ。


「穂高、ねぇ、穂高!寝てるの?ちょっと起きて!」
襖の外からゆかりさんの声がした。
僕はいつの間にか昼寝していたらしい。
ぼんやりと時計を見上げる。
14:40のデジタル文字が明るい部屋の中でうっすらと見える。

「はい。どうかしました?」
「お店にね、ススキを飾ろうかと思うのよ。」
「ススキ?まだ早いんじゃないかなぁ。」
「そうかもしれないけど。ちょっと川原のほうまで散歩がてら行ってみようかと思いついたの。よかったら、一緒に行かない?」
ゆかりさんは襖越しのままだ。
川原か。
「いいですね。」
僕はふすままで這って行って、すすーっと開けた。
「顔洗います。下で待っててください。」
「わかったわ。ああ、花ばさみを用意しましょう。」

今日も僕は幸せだ。






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恋待先生は、僕の言葉を辛抱強く待っている。
ヒグマのように大きな体を包んでいる白衣の前がはだけていて、中の丸くて大きなお腹が突き出している。
中に着た薄い水色のワイシャツは、きっと超特大サイズなのだろう。

「ここで抗がん剤の治療を受ける時、先生言いましたよね、しばらく子どもは作れないけれど、予定はないかい?って。」
「ああ、聞いた。」
「僕は当然ありませんよと答えた。何てこと聞くんですか?って。」
「そうだったかな?」
「あれ、どういう意味だったんですか?」
「意味?抗がん剤が精子の数を減らしてしまうことがあるから、子どもができにくい、ということだな。
でも、それだけではなくて、抗がん剤が精子の形成に与える影響を考えて、治療中は避妊が必要、ということでもある。
それに、抗がん剤は白血球を減らすから、感染症にもかかりやすくなる。性行為中の感染を避けたくもある。
くわえて、赤血球も減らすから、すぐに疲れたり呼吸が苦しくなったりしやすい。
子どもをつくるには向かない条件がそろっているということだよ。」
「そうなんですか。…なんだか、よく分かっていないくせに、予定はないって言っちゃいまいた。まぁ、事実だったし。」

「今、それを確認したいとこうことは、そういう予定ができたということ?」
恋待先生の全身から、なんだか温かいオーラが漂ってくる。
「いや、そういうわけじゃないんだけど…。
でも、夕べ、ふと気づいたんですよ。
僕、その、性欲っていうやつ、あんまり感じないなぁって。」
「おや、そうなのかい?」
さっきの温かなオーラがすぅっと30cm引いて行った。

「いや、女の子に興味がないってことはないですけど、なんていうか、高校生の頃みたいに切実に興味があるなんて気持ちにならなくなったというか…。」
「ほぉ。」
「あんまり考えたことなかったけど、改めて考えたら、病気の治療の前後で変わったと、昨夜気付いたんですよ。」
「なるほど。」
「そしたら、先生が言っていた言葉を思い出して。」
「ああ、そういうことか。」

ギシギシと椅子をきしませながら、先生は僕の方に向けて体を前傾させる。
その途中で、脇に控えていた看護師に目くばせでもしたらしい。
そっとカーテンの向こうに白衣のスカートの裾が引き込まれていき、診察室には僕と恋待先生だけになった。
「抗がん剤治療を受けていても、性行為そのものができない体になるわけじゃないんだよ。
治療中にそういう行為に及ぶ気持ちになれないのはストレスからだ。
テストステロンという男性ホルモンは、治療では減らないからね。
それに、君のように治療を終えて時間がたっていれば、 一時的に影響を受けていたいろいろな機能があったとしても、元にもどっているよ。
まぁ、個人差はあるがね。」
「そう、なんですか…。」
「希望するなら検査しようか。」
「どうだろう…。」
「どちらかというと、メンタルの影響ではないかと思うんだけどね。」
「メンタル、ですか。」
「そう。」

僕はどんどん歯切れが悪くなる自分にちゃんと気付いていた。
「決めつけることはできないけれどね、ひどい吐き気や脱毛や、そういう副作用が出ている時に、人に気が向かなくなっても当然だと思うんだ。
でも、全員がそうなるわけでもないんだよ。
実際、治療中の患者さんの中には、逆に、病気が発覚する前よりも性欲が高まった人は少なくないしね。
君の場合がどれに当たるかは調べてみないと正確なことは言えない。
けど、あのひどく辛い時期の感覚を、知らない間にずっと持ち続けてしまっているだけ、ということも大いにありうる。」
「持ち続けて…。」
「そう。無意識のうちにね。トラウマっていうやつだよ。」
「トラウマ!」
その言葉は知っている。
「まぁ、時が治してくれるものもあるよ。気にしない、気にしない。」
「そう、でしょうか…。」

「検査の予約を取っていくかい?」
「う…いや、まだいいです。」
「焦らないことだよ。誰か、この人、という女性が現れたら、気付かないうちにこんなことを『問題』と思わなくなっているかもしれない。でも、いつでも相談においで。こうして話すことそのものが治療になるからね。」
「はい。」
「じゃ、定期検診にしようか。最初から気になっていたんだけど、この微熱は何かな?」
「実は…」
僕は恋待先生に、さよりさんとでかけた夏祭りのことをありのままに打ち明けた。
「ふふふ。君にもそういうところがあるんだねぇ。いつも澄ましているけれど。」
 
半日かかって定期検査を終え、問題なしのお墨付きをいただいた。
微熱も心配ないという。
「では、またね。」
「はい。」

診察室を出た直後に、恋待先生が看護師へ、言うともなしに言った言葉を僕は知らない。
「どこか、幼いんだよなぁ。
四捨五入すれば30になる男が、小学生じゃあるまいし、自分が気を引かれた女性のことを、あんなにスラスラ話してしまうなんてね。
それに、体のことも、きっと抗がん剤じゃないよ。
あれは、家族を持つことが怖いんじゃないかねぇ。
家族というより、父親になること…か。
彼、父親とは縁が薄かったようだから。
まぁ、そんな彼だから、僕も、なんだかほっとけなくてねぇ。」






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さよりさんに誘われて出かけた盆踊りの夜に釣り上げたヨーヨーは、そのままゆかりさんへの土産になった。
「あら、まあまあ!」
ゆかりさんは懐かしそうな目をしながらそれを受け取ると、すこしの間首をかしげて考えていたけれど、戸棚を開けて、奥の方からガラスの鉢を引き出した。
そこに水を張り、ヨーヨーを浮かべたのだ。
ゆかりさんは、ヨーヨーの横に、外からとってきた朝顔の葉を添えた。
カウンターの端にその鉢をそっと置く。
それだけで、夏祭りが店の中にやってきたような雰囲気になった。
ちょうど客の切れ間だった。

「お借りした浴衣を汗まみれにしてしまいました。」
「いいのよ。浴衣とはそういうものだから。洗っておくから、そのまま返してね。」
「すみません。」

冷たいシャワーを頭から浴びて、ほてった体が少しだけ温度を下げる。
小紫はまだ営業しているから、着替えて店に出るつもりだったのだけど、部屋に戻ったところでけだるさに耐えられなくなった。
今夜は出なくていいと、朝からゆかりさんに言われている。
僕はそのまま眠ってしまうことにした。

自分の吐息が炎のように熱く、まるでゴジラにでもなったような気がして目が覚めた。
真夜中…いや、明け方に近いのかもしれないいが…正確な時間はわからない。
耳を澄ませてみるが、何の音もしないところから察するに、店じまいした後らしい。

今度はちゃんと目を覚ました状態で、大きくため息をついてみる。
やはり、息が熱い。
熱帯夜なのだろうか。
そういえば、窓を開けるのも忘れ、部屋に戻った勢いで寝てしまった。
喉が渇いている。
水を飲みたい、階下に降りようと思うのだが、体が布団に張り付いたようになっていて起き上がれない。

またか。
僕はもう数えきれないほど、こういう経験をしている。
少し緊張しすぎたのだろうか。
緊張ではなく、興奮か。無駄な期待か。
敏感な体は正直で、それが抱えきれないほど大きかったことを僕に教えてくれている。

さよりさん、きれいだったな。
もう少し一緒にいたかったな。
一緒にいて…それで…

その時、僕は、ものすごいことに気が付いた。
なぜ、今まで気付かなかったのだろう。
衝撃で、体がガタガタと震え出した。
いや、思い過ごしだ。こういうことには個人差があるに違いない。
無理にもまた眠ってしまおうと思った。
忘れた方がいい。その方が自分を傷つけない。
しかし、僕はそれきり、眠ることができなかった。


「おはよう。あれきり降りてこないから、疲れたんだろうと思ってたわ。」
それでも、ゆかりさんが起き出す音を確認してから、部屋を出た。
微熱は続いているようだけど、それ以上に…いや、だからこそ、起きなければならなかった。
「食欲があまりないんです。でも、喉が渇いて。」
「水がいい?」
「はい、冷たいのが。」
「わかったから、座って。顔色がよくないわ。」
「少し、熱が出たようで。」
「ああ…。」
ゆかりさんも、僕のこうした様子にはかなり慣れたようだ。

「宮田先生を呼びましょうか…。」
「いや、今日は恋待先生に診てもらおうかと思ってるんです。
定期検診には少し早いけど、こんな調子だし、ちょうどいいかと。」
「そうね、それがいいわ。一緒に行ってあげるから、安心して。」
「大丈夫ですよ、ひとりで。でも、タクシーで行こうかな。」
「ええ、ええ。それがいいわ。それなら安心。」
ガラスのコップでたっぷり2杯、冷えた水を飲み、ゆかりさんと話しているうちに、僕は少しだけ落ち着きを取り戻したような気がした。

「穂高、あのね…。」
座布団を二つに折って枕にして寝転び、食事の支度をしているゆかりさんを背にテレビを見ていると、ゆかりさんが声をかけてきた。
「はい?」
「昨日、穂高の浴衣姿を見てね、久しぶりに花火大会に行きたいなぁなんて思ったりしたのだけど…。」
そういえば、もうすぐ大きな花火大会がある。
「ものすごい人ごみですものね、疲れちゃうわよね。」
「そうですね、そうかもしれない。」
花火大会にはものすごく興味をそそられるけれど、夕べの夏祭りくらいでこの有様だ。
全国規模の花火大会にでかけるなんてことをしたら、その場で倒れてしまいかねない。
とはいうものの、ゆかりさんがこんなことを言い出すのは本当に珍しくて、もしかしたら昨日からずっと、一緒に行こうと言いたくて待っていたのかもしれないと思うと、断るのも気が引けた。

「それなら、ゆかりさん。庭で、花火しませんか?」
「まぁ、そうね、それもいいわね!」
「僕、子どもの頃から線香花火が大好きなんですよ。」
「男の子にしては静かな。ねずみ花火なんかが好きなのかと思ってたわ。」
「それもいいですけどね、線香花火は小遣いで10本一束が買えるから、姉さんと半分ずつ…。」
「ああ、そうなのね。思い出があるのね。」
「病院から戻ったら、今夜にでも。」
「熱が下がったらね。夏はまだ長いから。」
「そうですね。」
「じゃ、線香花火を買ってきておくことにしましょう。花火を買うなんて、本当に久しぶり。」

ゆかりさんは、一度止めていた手を動かして、朝食作りを再開した。
リズミカルな包丁の音が響いてくる。
僕は目を閉じて深呼吸をする。
ここにいられてよかったなぁ。
こんな時、一人きりだったら、どれほど心許なかったことか。
まぶたの裏に、子どもの頃、姉さんとどちらが長く球を落とさずにいるか競って見つめた線香花火がチカチカと映る。
「はっきりさせなきゃな。」
僕は改めて自分に言い聞かせた。

電話予約もせずにでかけたが、運よく恋待先生は病院にいて、少し待ったけれど、診察を受けることができた。
「微熱があるって?」
「夕べ、はしゃぎ過ぎたらしくて。」
「思うように体力があがらないね。」
「まあ、体力づくりに励んでいるとはお世辞にも言えませんから。」
「励んでみてほしいんだけどな。」
「元々の性格でしょう。」

僕は、本題を切り出しかねた。
でも、勘のいい先生は、僕に何か言いたいことがあるのだと気付いているらしい。
「何か相談でもあって来たのかな。何だろうね。」
先生は忙しい。
急かされる前に話さなければと分かっているのだが、言いにくくもあった。
でも、これ以上、言いあぐねてもいられない。

「先生、実は、昨夜気付いたことがあって。僕は、その…。」






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すっかり陽が落ちた盆踊り会場は、昼間の間に温められ尽くしたアスファルトと、ごった返す人の熱気とで息詰まるほど暑い。
インドア派でかつ静かな夜型生活が板についた僕は、この暑さと人いきれで目が回りそうだ。
少しでも、今、ここのしんどさから脱出しようと目論む脳は、僕に「浴衣というのは洗濯機で洗えるものか、それともクリーニングに出すのか、こんなに汗をかいてはそのままというわけにはいくまい…」などと、我ながらピントがずれたことを考えている。

そんな僕と手をつないで、あちらへこちらへと引きまわしているのは、もちろんさよりさんだ。
これは、恋に落ちる寸前のふたりが「手をつなぐ」というよりも、人混みで見失うのを恐れた母親が子どもの手を「つなぎとめておく」に近い。

会社の盆踊りというものが想像できないままに来てみたのだが、普段大型トラックが何台も入ってきては転回していく広大なスペースにやぐらを立てて、一番高いところでは、お祭りらしい笛太鼓が引きも切らずに軽快な音頭を鳴らしている。 
周囲には、これも例年のことだそうだが、どれほどあるのかというほどたくさんの屋台が並び、射的だのヨーヨー釣りだの金魚すくいだの綿あめだの、にぎやかなことといったらない。
会社の人々は家族連れで来ているし、さよりさんの話によると、お得意様だとかご近所さんだとかも呼ぶのだそうで、かなりの盛況だ。 

今夜のさよりさんは、ゆかたを着ている。
会社の入り口で待ち合わせをした。
なかなか現れないので、誘ってくれたことを忘れているのではないかと思い始めたところへ、会社の中から彼女は現れた。
浴衣姿だった。
それも、紺地に朝顔なんていう、いかにも夏の浴衣らしいものではない。
白地に、真っ赤なボタンが咲きこぼれているのだ!
長い髪をアップに結い上げてあるのだが、ほろりと一筋ほつれている。
「ごめんね!穂高くん。どう?似合う??」
「ああ、とても。」
「ありがとー。穂高くんも素敵よぉ!」
と、突然、僕の浴衣の右肩にしがみついてきた。
ああそうだ、この人は夜の蝶だったのだと久しぶりに思い出した。
真に受けてはいけない。
こういうしぐさは「客あしらい」なのだろう。
そうして、この派手としか言いようのない(でも、その派手な浴衣が恐ろしく似合っている) 浴衣も、実はかつての「仕事着」だったのではあるまいか。

ねぇ、ちょっと座らない?と言い出すタイミングを見計らっている僕には気づきもしないのか、気付いていても知らない顔をしているのか、さよりさんは僕の手をぐんぐん引っ張って、金魚をすくってみたり、綿あめを買ってみたり、楽しそうにはしゃいでいる。
綿あめなんて、白いかうすいピンクか、そんなものだろうと思っていたが、いまどきは違うらしい。
どうやっているのかわからないが、真紫とか真っ青とか、真っ黄色とか、およそ食べ物とは思えない極彩色を選べる。
「あたし、この真っ赤がいい!」
「はいよっ!」
受け取った綿あめからはイチゴの香りがした。

ねぇ、ちょっと一息…
「穂高くん、あっち行ってみようよ!焼き鳥の屋台があるんだ!」
「え?ああ、うん。」
「ほら、金魚持ってて。」
「ああ、いいよ。」
「ほら、こっち!」
また腕を引っ張られて、人波を縫うように進むと、ひときわ大きく開放的なテントから、香ばしい焼き鳥の香りが漂ってきた。

「売り上げはどう?」
さよりさんが意外な声をかけると、
「姉御!見てくださいよ!もう半分以上売れちゃいましたよ。」
「食中毒なんか出さないように、ちゃんと焼くのよ!」
「おう!任せとけ!」

テントで白タオルを鉢巻きに焼き鳥を焼いているのは、先日、ゆかりさんと一緒に小紫に来た屈強な男たちではないか。
「あの日ね、打合せだったのぉ。」
「へー。」
ゆかりさんは僕に焼き鳥を買わせると、右腕に焼き鳥、左手に金魚の僕と手がつなげなくなったからだろう、僕の背中をぐいぐいと押して、広場の奥、きっと倉庫と車をつなぐあたりの階段に僕を座らせた。
祭りの喧騒から10メートル離れただけだが、ふいに静かさがやってきて、僕はそっとため息をつく。
「焼き鳥、食べようか。」
「そうだね。」
「あーっ、待ってて!」
「何?」
「ビール買ってくるね!」
飲む?とも聞かずにさよりさんは駆け出している。
飛び跳ねすぎて少し浴衣が乱れ始めている。
でも、それも可愛らしいと言えば、言えなくもないか。

祭りの楽しみはきっと、非日常性にあるのだろう。
自分の浴衣姿を見下ろしながら、まさに非日常と思う。
女の子に手を引っ張られて、金魚を片手に下げて、赤い綿あめを舐めさせてもらって、焼き鳥にビール?
こんなマンガみたいな時間が自分にもできるなんて。

「お待たせ〜!」
さよりさんが裾もはだけんばかりの勢いで駆け戻ってきた。
両手に大きな紙コップ。
ドン!と隣に座ったとたんに「かんぱーい!」
ゴクンゴクンと喉を鳴らして、あっという間に半分飲み干している。

「楽しい?」
不意に聞かれて、うん、と答えてしまう。
本当はこれが楽しいのかどうなのか、なんだかよく分からない。
「疲れた?」
いや、そんなことないよ。
そう答えるしかない。男だし。
「子どもの頃にね…」
焼き鳥を一本、さもおいしそうに食べた彼女が言い出した。
「飲んだくれの母さんと、母さんが連れ込んだ男しか家にいないわけだけど、近所では盆踊りがあるわけよ。
でも、親はほら、そういうの全く関心ないわけ。
自分たちが関心ないから、あたしが行ってみたがっているなんて、眼中にないのね。
お小遣いなんて持ってないし、でも興味はあるし、行ってみるのよ。
そうしたらさ、小学校の友達が親と来てるの。
かわいい浴衣着せてもらって、慣れない下駄はいて。
あれほしいって指差すと、金魚すくいもヨーヨーすくいも、綿あめも、何でもやらせてもらえてる。
うらやましかったなぁー。
指をくわえてみているって、ああいうことだよね。
いつか自分もって思ったなぁ。
家を飛び出してから、バイトして、お金好きに使えるようになってから、行ってみたのね、夏祭り。
でも、びっくりした。
全然楽しくないの。
お祭りを楽しいなぁって思う年頃を、もう通り過ぎちゃってた。
悔しかったなぁ。
ほんと、悔しかった。
でもね、今年、こうやって普通の仕事始めたでしょ?
会社がね、お祭りをするんだっていって、準備をするのよ。
当然、あたしも手伝うでしょう?
そうしたら、なんだかだんだん楽しみになってきてね。
会社の人も、毎年何かテントで販売するんだって。
それで、今年は何にしようか?なんて話に混ぜてもらったら、めっちゃ楽しくなったの。
それでね、今年はもしかしたら、お祭り楽しいかなぁって。
子どもの頃に味わえなかった楽しさって、年のせいじゃなくて、ただ、タイミングっていうの?そういうのだけかもって。」

「そうだったの。今日、楽しい?」
「うん!めっちゃ楽しい!!」
「よかったね。」
「うん!」
さよりさんが楽しいなら、その場に一緒にいられるなら、それが楽しいと僕は思った。

「ね、まだヨーヨー釣りしてないね?」
「あー!忘れてたぁ。」
「今度は僕もやってみようかな?」
「いいねぇ!行こう行こう!あ、ごみはちゃんと片づけるのよ!」

今度は僕が彼女の手をひいて、先ほど一度通り過ぎたヨーヨー釣りのプールの前に来た。
僕は、彼女と違って、子どもの頃から祭りとなれば母さんと姉さんと3人で出かけたものだ。
金がなかったのは同じ。
でも、母さんは全部だめとは言わなかった。
「いい?ひとつだけよ。どれにするか、よーく見て歩いて、よーく考えて決めてね。」
僕は毎年ヨーヨー釣りで、姉さんは毎年綿あめを欲しがった。
「だって、ヨーヨーは失敗するとゼロだけど、綿あめは絶対手に入るもんね!」
あの頃から姉さんはしっかり者だったなぁ。

僕は水色の地にオレンジや黄色の曲線が入ったヨーヨーを、さよりさんは白地に鮮やかな線が入ったヨーヨーを釣り上げた。
ふたりでハイタッチ、やはり祭りはひとりより二人で来る方が楽しい。

「あー、楽しかった!じゃ、今夜はこれで。」
「え?」
もっとずっと一緒にいられると思っていた僕は、肩透かしを食らったようで言葉が出ない。
「これから、焼鳥屋の当番なのよ。お化粧直して、ちょっと浴衣も髪も直さないと。」
僕も手伝おうか?と言ってみたが、会社の人のテントだからとスッパリ切られた。
「でも、帰る前にもう一か所、付き合ってくれる?」
もちろんいいよと答えると、彼女はヨーヨーから少し進んだ先にある、先ほどの金魚すくいのプール前に来た。
「その金魚、貸して。」
「これ?」
「おじさん、ありがと!もう十分楽しかったから、金魚を広いプールに返してあげて!」
言われたおじさんも目を丸くしている。
そんなことはお構いなしに、さよりさんは小さなビニール袋に入っていた金魚を1匹、大きなプールに戻した。
「あんたも、みんなと一緒がいいよね?」

戻した金魚はあっという間に他の金魚に紛れて、どれがそれだか分からなくなった。
立ち上がり、裾を直したゆかりさんは、プールに向かってキザなことを言った。
「二度と、釣られるなよ!」
「釣られてくれなきゃ、商売になんねーよぉ!」
おじさんの答えに大笑いしながら、さよりさんはじゃあねと鮮やかに身を翻して、駆け去ってしまった。

夏は始まったばかりだ。
でも、僕の夏は、今夜でもう十分かなという気がしていた。





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