Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。


一晩点滴を打ってから連れ帰ってもらったゆかりさんの家で、僕は結局1週間を寝て過ごした。
悪い病気の再発ではなく、季節外れのインフルエンザだったと分かった時は、安心するやら拍子抜けするやら、なんとも複雑な心境だったが、高熱の原因がはっきりすると、それはそれでやはり辛くて、我ながら情けないことになった。

もし一人暮らしのアパートに帰って、腹が減った時には自分でどうにかしなければならない状態だったら 、少しはシャキッとしたのかもしれない。
でも、温かくて作り立ての消化が良くて美味い食事が、声をかける必要すらなく、そっと運ばれてくるし、朝になるとパリッと洗濯をして洗剤が香るようなパジャマが出てきて着替えさせてくれるし、何不自由ない。
湯上りに体を冷やさなければ、さっと汗をながすための入浴もOKとのことで、自分の部屋では味わえない、ヒノキの浴槽でたっぷりのお湯の水圧を感じたりしていると、かえって病気でいるほうが都合がよいような気がしてしまうほどで、なんだか気合いが入らない。

四六時中見張っていなければならない状態ではないからと、ゆかりさんは店にいることが多い。
この部屋が小紫のほうに寄っているからだろう、 時折カチャンカチャンと食器を洗う音がしたり、まな板の音が響いたりする。
夜になればカラリンコロンとカウベルも聞こえる。
ああ、みんなあそこにいるんだなと思うと、それだけで温かい。
それだけで、具合が悪いことが心の負担にならなくなる。

ゆかりさんは食事を運んできてくれると、僕が食べ終わるまでの間そこに座って、 なにかれとなく話していく。
その様子は入院中の姉さんを思い出させた。

抗がん剤治療は副作用が出る。
基本的に苦しいわけだが、それでもふと、ましな時がある。
そんな時を見計らうように、姉さんとあれやこれやよもやま話をする。
「姉さん、あのさ、一度も聞いたことがなかったけど、僕たちの父親ってどうして死んだの?」

姉さんにとっては唐突すぎる質問だっただろう。
眼玉を丸くむき出して息を止めた後、ふぅっと力を抜いて、弱々しく笑った。
「なに?突然。」
「前から気になっていたんだけど、なんだか母さんには聞きづらかった。姉さんも全然父親の話をしないし。」
「それはね…。」
「事故?それとも、病気?もしかして、僕と同じ病気とか?」

姉さんはしばらく言いあぐねていたけれど、 まぁ、もういいかとつぶやいて、話してくれた。
「母さんはあんたに、父親は死んだと言っていたけれど、本当は死んでないのよ。」
「は?うそ!」
「よく考えてごらんなさいよ。うちに仏壇あった?お墓参りに行ったことある?」 
「あー、そういえば、ない。」
「そういうことよ。」
「まさかそんな!2時間サスペンスじゃないんだからさぁ。」
「でもその、2時間サスペンスなのよ。」

会社が倒産したのに、父親は通勤しているふりをして、半年も毎朝、母さんが作った弁当を抱えて出かけていたそうだ。
給料は、景気が悪いからと、現金袋にいくらかずつ減っていく収入をそのまま、母さんに手渡していたらしい。
それがある日、ぷつりと帰ってこなかった。
それきりなのだそうだ。

「そんなバカげた話ってあるか?」
僕は自分の病気も副作用の吐き気も忘れて起き上がった。
「バカげているかどうか知らないけど、事実なんだからしかたないじゃない。」
給料うんぬんのくだりは、姉さんが後から母さんに聞いたらしい。
ということは、失踪したのか。

「あんたを身ごもったと母さんが気付いたのは、父さんがいなくなってから2か月も後だったんだって。」
「ってことは、することしてから間もなく消えたって?」
「ま、そういうこと、かな。」
「ふざけんな〜!」
「だって、できたかどうかなんて分からないものでしょうが。」
「そうだけどさぁ…。」

ひとりで僕を産んだ母さんは、姉さんによく言い聞かせたらいい。
この赤ちゃんは母さんのあなたとでかわいがってあげましょうね。
お父さんが死んでしまったのだから、3人で助け合わないと。

死んでしまったと、姉さんも一度は信じたそうだ。
でも、中学生の時に、お墓参りに行きたいと母さんに問いただした。
賢い娘のことだ。
母さんも、無駄に隠し立てするより、味方につけようと思ったのだろう。
そうして、のんびり屋で体の弱い弟には、「死んでしまった」で押し通す約束をしたのだと言う。

まったく、もう。
まんまと、騙された。

「探したの?」
「もちろん。捜索願も出したし、心当たりは全部探したって、母さん言ってた。」
「どうして失踪なんてしたんだろう。僕たちを置いて…。」
「真面目な人だったみたいだから、会社が倒産したなんて言い出せなくて、苦しくなっちゃったのかしら?」
「意味わかんねー。 会社の倒産って、ひとりの社員のせいじゃないだろ?」
「まあね。」
「それとも、父さんが何か会社に迷惑をかけて、それで倒産したとか?」
「解らない。でも、違うんじゃないかな?」
「姉さんは、父さんのこと、何か覚えているの?」
「うーん、ほんの少しね。」
「どんなこと?」
「もう20近くも前になっちゃったから、ちゃんとは覚えてないのよ。
でも、ひとつだけ、すごくはっきり覚えていることがある。」
「何?」

姉さんは、また、話すかどうか、迷っている。
「話すから、ちゃんと寝なさい。疲れちゃうわよ。」
いくらか話をそらして、それから、大した記憶じゃないよと言わんばかりに、さらりと言った。
「父さんが会社から帰ってきて、あたしが玄関で出迎えて、父さんの黒い鞄を受け取るの。そうしたら、おっきな手で頭を撫でられて、『気が利くいい子だね』って言われた。」

それだけ言うと、姉さんは椅子から立ち上がり、「ちょっと喉乾いちゃったから、外出てくるね。」と行ってしまった。

僕は、姉さんが言いよどんだ理由をようやく覚った。
姉さんは、父親との、僅かであっても愛された記憶が残っている。
でも、それが、僕には望めなかった。
姉さんはそのことに気兼ねしたのだろう。

そんなこと、気を遣わなくていいのに…と思った端から、羨ましいなという気持ちが入道雲のように沸き立ってきた。
自分で自分の気持ちが抑えられなくて驚く。
これまで、密かに、何度も思い描いた様々なシーンがある。
「父親」という架空の存在と僕との、絵空事。
あのうちの、どれかひとつだけでいい。
確かな現実であったなら、僕はどれほど嬉しかっただろう。
でも、それは望みようもないのだと諦めるしかなかった。
なのに、もしかしたら、僕の父親は今もどこかで生きていて、ある日突然、僕の目の前に現れるかもしれないと思うと、僕の頭の中はこんがらがった毛糸みたいに、どうしようもなくなってしまった。

不意に吐き気を催して、ぐぐぐと唸る。
唸る喉の底から、味わったことがない感情がじわりじわりと滲む。
これは、怒りか、憎しみか。
それとも…


窓の外で大きな雷鳴が響いた。
いくつかの轟音の後で、強い雨が降り出した。
ずぶぬれになったのか、姉さんはあの日、病院に戻ってこなかった。





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「穂高くん、分かるかい?」
首筋に何か冷たい感触があって、僕は目を覚ました。
ぼやけた視界に人影が写る。 
人影の上に電燈があるから、僕を覗き込んでいるその人の顔は見えない。
けれども、いくらか間を置いて、僕はそれが宮田先生の声だと気付いた。

「すみません。ご迷惑を…。」
「今度はこうなる前に自分で電話してほしいね。
そうしたら、ゆかりさんにも心配かけずにすむからね。
辛かったろう。
どんな具合だ?どこか痛むかい?」
宮田先生のおっとりとした穏やかな声を聞いているだけで、僕はもう大丈夫なんだと全身の細胞が全て安心したようになって、眼が勝手に涙をこぼし始めた。
「よく、分かりません。うまく、動けなくなって。」
「そうだろうね。急にこんな熱が出たら、動けなくて当然だ。」

そう言いながら先生は、僕の腕を布団から引き出して見つめているようだ。
「心配ないと思うけどね、一応、主治医の先生のところへ行きましょう。
私も君の生活医として、一度お話をしておきたいところだからね。」

生活医…。
宮田先生のところへは、花見に庭へお邪魔したことがあるだけで、医院へは行ったことがない。
会うのはいつも夜の小紫。
なのに、やっぱりすべてを承知しているらしい。
ゆかりさんが話したのか、姉さんが先生にまで手紙を書いたのか…。

「とにかく救急外来へ行きましょう。
たとえ先生がいなくても、点滴は必要でしょうから、朝まで待てばいい。」
宮田先生の決断は早く、ゆかりさんの連絡はさらに早く、あっという間にタクシーがやってきて、僕は両親に付き添われた子どものように、通いなれたあの巨大な建物へと吸い込まれた。

運がよかったのだろう。
僕の主治医である恋待先生が当直で病院にいてくれた。
すぐに診察を受けることができた僕は、なんとインフルエンザだった。
なんでこの季節外れにインフルエンザ?
いずれかのお客様からもらったのだろうか??

宮田先生は手が空いた後の恋待先生とずいぶん話し込んだらしい。
僕が点滴を終えるまでの2時間に「手が空く時間」ができたなら、その夜はかなりレアな夜だったのだろう。
先生が当直の夜は体調を崩す患者さんが多くて大変だから、看護師たちが嫌がるのだと、入院していた時に笑いながら話してくれたことがあった。

恋を待つなんて、なんだか華やいだお名前ですねと、不躾な姉さんが言うと、先生はふふふと笑って、よく言われますと流した後で言ったそうだ。
「これで、かわいい女の子だったらいいんでしょうが、なんといっても相撲取りと間違われてもおかしくない、大きなオジサンだからねぇ。 痛い治療をされたおじいちゃんなんかに、『患者がどんどん来ないかと恋しくて待ってるって意味だろう』なんてイヤミを言われたりしたから、僕は小児科にしたんだもんねぇ。」
僕は恋待先生を関取だと思ったことはないが、くまのプーさんみたいだなとは思っていた。
その愛すべき外見からは想像しにくいが、彼は小児がんのエキスパートだ。


固い診療台に横たわって点滴を受けている間に、僕は眠り込んだらしい。
夢の中で、誰かの指が僕の髪をそっと撫で続けている。
きっと、汗をかいて額に張り付いているのだろう、前髪をそっと掻き上げたりする。
でも、僕を起こさないよう、肌には触らずにいることが僕にでも分かる。
誰だろうと思ってすごく重たい瞼を開けると、母さんの姿が見えた。

「母さん。」
「サトル、目が覚めた?来るのが遅くてごめんね。 まだ寝ていてもいいよ。」
僕はもう一度、ゆっくりと目を閉じた。
「僕、インフルエンザなんだって。病気が再発したのかと思って、生きた心地がしなかった。怖かった。本当に怖かったよ。」
優しい指が、また僕の髪を撫でる。
そうだ。
子どもの頃、熱を出して学校を休んでいる僕が眠っている間に会社へ顔を出した母さんは、帰ってくるといつも決まってこうやって、髪を撫でてくれた。

「よかったわ。怖かったでしょう。でも、あなたはとってもいい子だから、神様が守ってくださるわ。」
「そうかな。」
「そうよ。だから心配いらないわ。」
「ふふ。ねえ母さん、お腹空いたな。」
「あら、食欲があるのはいいことだわ。でも、まだおかゆね。」
「うーん、じゃおかずに、あれを作ってよ。」
「あれって?」
「あれだよ。おかゆの時に、いつも母さんが作ってくれる、かぼちゃのやつ。」
「かぼちゃ?」
「やだなぁ。忘れちゃったの?ほら、ほくほくの栗かぼちゃを一口サイズの四角に切って、甘辛く煮たやつに、鶏のひき肉の透明なあんかけがかかったやつ。」
「ああ、あれね。」
「あれだけは、姉さんのより母さんのが美味かった。」
「あら、失礼な子。あれ”だけ”って何?」
「作ってくれる?僕ずっと、あれが食べたかったんだ。入院していた時も、ずっと。なのに、母さん死んでしまって、来てくれないから…!」
「わかったわ。ごめんね。もう少しおやすみなさい。点滴もあと半分くらいみたいだから。」
「うん。」
「ほんと、あなたはいい子ね。寂しい思いをさせて、本当にごめんなさいね。」

運び込まれた時間が遅かったのと、恋待先生が経過を確認したがったのとで、僕は次の朝までその診療台にいた。
宮田先生はご自身の診療があるからと、夜のうちに帰ったらしい。
僕がいくらか落ち着いて目を覚ました時、恋待先生がいて、大きなお腹をゆすりながら近づいてきた。
「目が覚めましたか。まだ頭が痛いかな。」
体を起こそうとして、ズキンと鳴った頭を片手で抱える僕を見て、先生は微笑んだ。
「タミフル、処方しますから、飲んでください。サトル君、ずいぶんと体力が付きましたね。」
「そうですか?」
「うん。いいことだ。とてもいい。それに…」
「はい?」
「素晴らしい環境で社会生活を送っているようだ。」
「そう…そうですね!」

マスクを手渡され、多少辛くても、歩いて帰れますよと処置室から送り出されてみれば、廊下に沿って並べられた椅子で、ゆかりさんがうとうとしていた。
「ゆかりさん!」
「あっ!」
すぐに目を覚ましたゆかりさんは、眩しそうに僕を見て、にっこりと微笑んだ。
「よかった、本当によかった!」
「よくないですよ。僕、インフルエンザですよ。ゆかりさん、うつっちゃったかもしれませんよ。」
「大丈夫よ。ウイルスも、こんなおばあちゃんを狙ったりはしないでしょ?」
「すみません、本当に!」
「それより、お腹空いたでしょう?もしよかったら、私の家に帰って休まない?ごはんも拵えられるし、もう何日かは寝てなくちゃならないのでしょう?」
「でも、それじゃ…。」
「宮田先生も毎晩来るから、往診の手間が省けるし、私も安心だし、人助けと思って。ね?」

僕はゆかりさんの厚意に甘えることにした。
タクシーで戻る途中、アパートによって、布団の下敷きになっていたケータイと着替えを持ってゆかりさんの家に向かった。
それだけでかなり疲れて、ぐったりと横になっていると、しばらくして、ゆかりさんがお盆を持って入ってきた。
「はい、お待たせしました。」
布団の脇に置かれたお盆の上には、つややかに湯気を立てるおかゆと、そぼろあんかけがかかったかぼちゃが並んでいる。

「あ!」
「うふふ。」









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体がピクンと震えて目覚めた。
ああ、今のは夢だったのか。
入院したときのことを思い出していたのだ。
そうだ、いま何時だろう。
いつの間にか外が暗くなっている。
小紫に行く時間だ。
いや、行けそうにないと電話しなければ。
ケータイは…そういえば、いくらか前にもこうして手探りをしたが、見つからなかったのだった。
体を起こして…でも、腕にも背中にも力が入らない。

あの時は電話一本で故郷から駆けつけてくれた姉さんも、今は遠くグアテマラにいる。
僕の病気について僕自身が説明を聞いたのは少し後になってからだったが、きっと姉さんはすぐに聞いたにちがいない。
運よく空いていたベッドに緊急入院することが決まると、姉さんは「一度帰るけど、大丈夫?」と聞いた。
診察室で気を失った僕は、目覚めたばかりで、自分が真っ白い部屋の、長いカーテンで囲まれたベッドに寝ている理由が飲み込めなくて、そこへ姉さんの質問だったから、余計に頭が混乱して、考えもせず「大丈夫。」と答えた。

姉さんは僕の頭をぽんぽんとふたつ軽くたたいてカーテンの向こうに消えた。
弟をよろしくお願いしますという姉さんの声が離れたところから聞こえた。
僕は頭の芯がしびれていて、そのままうつらうつらとしていたようだ。
きっと、薬のせいなのだろう。

次に姉さんが現れたのは、たぶん翌日の夕方だったと思う。
「サトル、大丈夫?」
「ああ、姉さん。うん、多分。どこへ行ってきたの?」
「仕事、辞めてきた。それから、あのアパートも解約しちゃったからね。」
「え?」
「今日から、あんたの部屋に同居する。」
「うそだろ?」
「あと、大学にも行って、事情話して、ちょっと休むって届けてきた。」
「僕、そんなに具合悪いの?」
「ちょっと時間がかかるらしい。」
「そうなの?」
「でも、治療法は分かっているらしいから、大丈夫だよ。多少辛いこともあるかもしれないけど、頑張ろうね。絶対治るし。」
「姉さん、そんなに簡単に仕事辞めちゃって大丈夫なの?」
自分が何か重大な病気らしいということに衝撃を受けすぎて、その点について思考を前に進めることはできなかったが、たった1日で退職して引っ越ししてきたというのが信じられなくて、そちらに興味が引き付けられた。
「大丈夫、大丈夫。あたしね、生活費以外は使い道がなかったから、けっこう貯金あるんだよね。母さんが残してくれたものもあるし。それに、しばらくは失業保険もらえるし。」

たった1日で惜しげもなく、故郷での仕事を辞めてきたという姉さんに、僕が受けた衝撃はお金のことではなかったのだけれど、その時は、では何なのかといわれても、よくわからなかった。

僕のために、姉さんは生活というか、人生を変えたのだと気付くまでには何日もかかった。
ひどく迷惑をかけているのだと思うと、僕はおどおどした。
だとしても、毎日姉さんが来てくれることで、僕がどれほど安心したか知れない。
完全看護の病院なのに、姉さんは、本当に毎日やってきては、僕の病室で過ごしてくれた。

本格的な治療が始まると、説明で聞いた以上に辛いものだった。
四六時中吐き気に襲われ、伸ばしかけていた髪がごっそりと抜け続けた。
ピーナツの殻みたいな形をした金属の容器を抱えて、今にも吐きそうな胸苦しさに悶えている時に、姉さんが背中を撫でて「苦しいね、代わってあげたいけど、いつか終わるからね、頑張って乗り越えて…」と囁いてくれた。
あの声がなかったら、僕はあの苦痛を乗り越えられたのだろうかと、今でも思う。
その証拠に、姉さんがいない真夜中に、あの吐き気に襲われた時の辛さは堪えがたく、ボロボロと涙を流して泣いた。
日中は考えない、「なんで僕がこんな目に合わなくちゃならないんだ」という答えのない問いが浮かぶのも、決まって真夜中のことだった。

スリムが当たり前だった僕が、真ん丸な顔になった。
ムーンフェイスと呼ばれる、この治療の副作用と聞いてガックリする僕の横で、姉さんはケラケラ笑って歌うのだ。
「アンパンマンは君さ〜♪」
「やめろよぉ。」
「いいじゃない。薬が終われば元に戻れるんだから。」
無神経なと怒る気にもならない。
隣のベッドからもクスクスと笑い声が聞こえる。
姉さんはいつもそんな軽口を言っては、僕を笑わせようとしてくれていた。


ガチャガチャと玄関のドアノブが音を立てた気がして、僕はまた夢想から現実にもどった。
誰だ?
強盗だったらどうしよう。
ガシャッ。
鍵が開けられたようだ。

「穂高、いるの?入るわよ。」
遠慮がちな声がした。
「穂高?穂高!」
ゆかりさんだった。

「すみません、熱を出しちゃったみたいで。」
「連絡もなく休むなんて、おかしいから。何回電話しても出ないし。」
「カギは…?」
「何言っているの?もしもなくしてしまったら家に入れなくなるからって、スペアキーを私に預かってほしいと言ったのはあなたでしょう?」
「ああ、そうでした…。」

人の声が自分に向かって話しかけてくれる。
ただそれだけなのに、僕は地獄で蜘蛛の糸を掴んだカンダタのように、救済された気がした。
ほっとして、ほっとしすぎて、泣きたくなった。

ゆかりさんが部屋の明かりをつけたから、眩しくて、目の前が真っ白になる。
枕もとの体温計に気付いたらしいゆかりさんが、もう一度検温しようと、僕の腕を動かした。
「今、何時ですか?」
「11時過ぎたところね。」
「そんなに。朝から調子が悪くて、昼過ぎに動けなくなって…。」
「わかった。いいから黙って寝てなさい。」
ピピピという電子音。体温計を引き抜いて、ゆかりさんが息を飲むのが伝わった。
「宮田先生を呼びましょうね。」
「ゆかりさん、僕は…。」
「わかってる。知ってるから。」
「なぜ?僕は何も言ってませんよね?」
「お姉さまからお手紙いただいたのよ。いいから、安心して。大丈夫だからね。」

ゆかりさんが、宮田先生とケータイで話し合っている。
そうか、姉さん、ゆかりさんに僕の体を見守るよう、頼んでくれていたのか。
僕が自分で言い出せないのを見越して。
ふん、姉さんたら、僕はもう子供じゃないんだぞ。
そんなに甘やかさないでくれよ。

心の中で悪態をつきながら僕は、今ここにいない姉さんと、今ここにいてくれるゆかりさんの気配に包まれて、ぐっすりと眠ってしまった。






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母さんが死んだときのことを思い出しながら、いつの間にか僕はうとうとと眠ったようだった。
肌がベトついて、呼吸が苦しい。
まずいな、と思う。
僕にとって発熱は、あまりいいことじゃない。
普通の人以上に、警戒が必要なのに。

目を閉じたままケータイを手探りする。
だめだ、どうしてないんだろう。
目を開けて、首を左右に動かしてみる。
こめかみのあたりから頭の中心へ向かって、ズキンと何本かの稲妻が走った。
医者に、行かないといけない。
今、何時なんだろう?

あの日もそうだったと、思い出す。
僕らが母さんの死から立ち上がったあの翌日、姉さんが一緒にここまで来てくれて、学生生活課の職員に事情を話してくれたおかげで、僕は最大限の同情と親切とで大学に迎え入れられた。
姉さんがちゃんと仕事を持っていたことと、母さんの生命保険が意外なほどの金額だったことで、僕は頑張ってアルバイトをしなくても学業を続けられそうだった。

ところが、入学して間もなく、ちょうどこんな梅雨のある日、僕は高熱を出した。
立ち上がることもできず、具合が悪いと言って呼べるような友達も知人もまだなくて、僕は途方にくれた。
それでも、ひとりでいることが怖くて、僕は姉さんに電話をかけた。

姉さんは、わかった、静かに寝てなさいねと言って電話を切ると、半日もたたずに、僕の部屋にやってきた。
「ちゃんとご飯食べてたの?」
「あ、姉さ〜ん。」
「苦しい?」
「うん。頭痛くて、気持ち悪い。」
「これ、今日が初めて?」
姉さんが持ってきたらしい体温計を僕の脇から抜くと、一瞬目を大きく見開いてから、僕の顔を覗き込んだ。

「いや、初めてじゃないんだよね。」
「あんた、前からよく熱出したもんね。こっちに来てからも?」
「うん。慣れない生活に疲れたか、風邪ひいたかと思ってたけど…。」
「病院行こう。」
「うん。でも、どこへ行ったらいいか、わからない。」
「ってことは、今まで熱出しても病院に行ってなかったのね!
もうっ!
こういう時はどこでも行けばいいのよ!!」

そう言うと、姉さんはどうやったのか、手際よくタクシーを呼んだ。
「さ、起き上がれる?」
という頃には、なんと運転手が手助けに部屋まで上がっているではないか。
「す、すみません…。」
「いえいえ、困った時にはお互い様ですから。」

そういえば、姉さんは、ふと思いついたことを、あっけらかんと口に出したり、人に頼んだりすることがよくあった。
中学の先生に聞いたのだが、修学旅行の時、行程を聞いた姉さんは「せっかくそこまで行くのだから、こんなことをしてみたいなぁ」と、何か言ったらしい。
すると、クラスの生徒たちが、それはいい、ぜひやりたいと騒ぎ出した。
その話が飛び火して、隣のクラスも、そのまた隣も、やろうやろう、ぜひぜひと「世論」を形成したらしいのだ。
旅行担当の教師…その人が僕にこの話をしてくれたのだが…が、しぶしぶ旅行社に尋ねるはめになった。
「生徒がこんなことをしたいと言うんですがね。今更無理ですよね、ね?」
教師の方では、はい無理ですと言ってもらって事を収めようと考えていたらしいのだが、意外な返事が返ってきた。
「ちょっと調べてみたら、実現は可能です。料金も増えません。それに、ちょっと面白そうですね。」
とうとう、姉さんのつぶやきは実現したのだそうだ。
実際にやってみると、これが大ウケで、添乗員からも「今後、モデルコースとして提案してみたい企画を教えていただきました」と、かえって感謝されたと言うのだった。

自分の思いに素直になれたら。
最初にちょっと感じる本音に耳を傾け、大事にすることができたら。 
そう感じることが、それまでにも何度かあった。
この時もきっと、到着したタクシーの運転手に、僕を抱えてほしいと頼んでくれたのだろう。
何か願いがあっても、思わず飲み込んでしまう僕とは真逆の姉は、近場でいいのよと口では言いながら、直観に従ったのだろう、大学病院の救急窓口に僕を運んだのだ。
きっと、すったもんだがあったろうと思う。
けれども、それがよかった。

診察に出た医師は、僕の経歴を聞き取り、検温をすますと、僕の腕をしげしげと見つめて尋ねた。
「この大きなアザは、何かにぶつけたの?」
「アザ?」
そんなものができていることさえ知らなかったのだ。
医師は、改めて僕の体をあちらこちらと見つめた。
一緒に診察室に押し入っていた姉さんも一緒になって覗いてくる。
気恥ずかしいといったらなかった。
しかし、恥ずかしがっている場合ではなかったのだ。

「君!」
脇に控えていた看護師を呼ぶと、どこか切羽詰まった声で命じた。
「血液検査!」
病院にたどり着いたことで、しかも、そこに姉さんが一緒にいてくれることで、すっかり気が緩んで、もう治ったも同然のつもりでいた僕は、なぜ発熱で血液検査をするのかわからず、ちょっとたじろいだ。
次の瞬間、僕の腕は医師の手の中をスルリと抜けた。
ここから先、僕には記憶がない。
そのまま意識を失って、倒れこんだそうなのだ。


確かに姉さんが言う通り、このままグズグズと泣き続ける姿を見て、母さんが喜ぶとは思えない。
でも、僕は姉さんほどに割り切ることができなかった。
悲しいときに悲しむ以外、何ができる?
僕の肩を揺さぶる姉さんの手を、僕は振り払った。
自分でも、乱暴だったと思うほど強く。

女は強い。
こんな時にこそ、その強さは発揮されるのだ。
そんなふうに思ったのはずっと後になってのことだが、僕が頼りなく泣くからこそ、姉さんはその時不意に強くなった、というか、強くならざるを得なかったのだと思う。

「ねえ。」
「何?」
「この日記ね、母さん、あたしたちがこうして読むって思っていたのかな?」
「へ?日記なんて、人に読まれたくないものだろ?
読まれていいなら目の前で書いてただろうし。
こうやって隠してたってことは、僕たちには読まれたくなかったんじゃないかな。」
「そうだよね。日記って普通、身近な人にこそ読まれたくない。
どうしてかというと、自分の本音を書くからだよね。」
それって、母さんもきっと、一緒だよね?」

姉さんが何を言いたいのか、その時の僕にはよくわからなかった。
責めるでもない、叱るでもない、淡々とした声なのに、力があった。
ああいうのを…ああ、そうだ。威厳と言うのだろう。

「ほら、ここにも。こっちにも。」
「何だよ?」
「母さんの日記には、あたしたちがいっぱい出てくる。」
「うん。それが?」
「どのページを読んでも、あたしたちが傷つくようなことが書いてない。」
「確かにね。」
「それだけじゃないよ。会社の人とか、近所の人とか、ひとつも嫌な言葉がないよね?」
「うん。」
「それって、すごいと思わない?」
「そうかな?」
「すごいよ。母さんの本音には愛があふれてる。」
「普通だよ。それが母さんだろ?」
「だよね。あたしたちはそれが普通だと思ってた。
でも、よく考えてみて。
何も考えず、思ったことを語って、その言葉のどれもが人を傷つけることなく、愛を伝える。
それってすごくない?
もっと身勝手なことを考えていたり、人の嫌な面が見えてイライラしたりするものじゃないかな?
本音を書く日記には、そういうのが溢れている方が自然っていうか、普通だと思う。 
こんなふうに、あったかい気持ちが本音だなんて、あたしにはできない。」
「……。」
「あたしたち、実はすごい人に育ててもらったんじゃないかな?」
「……うん。」

ようやく、姉さんが言いたいことがわかりかけてきた。
「あたしたちはもう、人生のお手本を見ていたんだよ。
だとしたら、あとは自分の人生でそこにたどり着けるように、やってみるしかないんじゃないかな?
母さんが生きていたらやりたかったこと、あたしたちが代わって引き継ごうよ。」

母さんが生きていたらやりたかったこと。
そう言われて、僕も気持ちが未来に向いた。
母さん、入学式に来たかったんだよな。
ん?
入学式??
「姉さん。」
「ん?」
「大学の入学式、終わっちまった!」
「え?そうなの?」
「そう。母さんの葬式の日が入学式だったんだ。忘れてた。」
「しかたないわよ。」
「僕もう、大学通えないのかな?」
「何言ってんの!?」

姉さんが勢いよく立ち上がった。
「あんた、明日、東京にもどりなさい。
あたしも一緒に行ったげる。」
「え?なんだよ、急に。」
「あたしが一緒に行って、大変なことがあったんですって大学の人に話すよ。
そしたら、入学させないなんて言わないよ。
こういうのは忌引きって言って、休みのうちに入らないんだ。
それに、大学はまだ、まともな授業は始まってないと思うよ。」
大学を嫌がって、試験すら受けなかった姉さんのくせに、大学の仕組みにけっこう詳しい。

「そうなの?」
「うん。今は、科目登録の期間だと思う。」
「登録?」
「何も知らないんだね。
大学は高校と違って、必修だけで時間割が埋まるなんてこと、ないんだよ。
自分で取りたい科目を選んで組み合わせるんだ。」
「そうなのか。」
「そういうガイダンスもあったはずだけど、しょーがない。」
「別に、明日でなくても…。」
「ダメ。あんたをそんなふうにぐずぐずさせておいたら、あたしが母さんに顔向けできない!」
「姉さん…。」
「さ、あたし、買い物行ってくる。ちょっと汗臭いけど…ま、いいや。
あんたはお風呂掃除して、先にさっぱりしておきなさいね。
晩ご飯はしっかり食べるわよ!」

こぶしを握って立ち上がった姉さんは、自分の机の上に母さんの写真と位牌を立てておいたところへ、花柄のかわいい日記帳をそっと置いた。
「母さん、今まで通り、応援しててね。」

僕は強くて優しい女性たちに囲まれて、本当に運のよい、幸せな少年だったのだ。








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