Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。


「私の言葉には、棘がある。
その棘には毒がついてる。
そんなつもりは全然ないのに、私がふっともらした言葉が、誰かの胸に刺さって、傷つけてしまう。
毒にしびれた相手が言葉を途切れさせるから、あ、またやってしまったって分かるの。
私、誰も傷つけたくなんかないのに。」

プレートランチができるまで、ちょっと立て込んでいるからこれを飲んで待っていてと、オーナーが淹れてくれたコーヒーをブラックのまま楽しんでいると、カウンターに腰かけた僕の背後から、そんな声が聞こえた。
どうにも気になって、肩越しに小さく振り向く。
真後ろのテーブル席に向かい合わせに、女性がふたり座っていた。
声の主は、普段着としか表現のしようがない、質素な様子をしている。
化粧っ気もなく、よれてはいないけれど洗いざらしのグレーのTシャツにボーイフレンドデニム、使い込んだサンダル。
向かいの女性はこじゃれたワンピースにパンプスを履いている。
元から色白なのだろうが、綺麗に描かれた眉と、ライナーで縁取った時だけにできる見事なリップの仕上がり。
コーヒーを口に運んでも崩れていない様子から、念入りなメイクだとわかる。

足元のカゴに置かれた二人のバッグも見える。
Tシャツの人のは、何かの景品についていたようなエコバッグ。
ワンピースのほうのは、カゴによく似た作りでできた、でも幼くは見えない夏用のハンドバッグ。
そうだ、思い出した。
このワンピースの生地はリバティプリントというのだ。
この前、ゆかりさんに教わった。
小花柄の高価な生地。

反対側の肩越しにもう一度覗き見る。
Tシャツの方は60歳近く、ワンピースは40代前半というところか。
年の離れた友達らしい。


「認知症の方の居住棟に移ってから、私、考えてしまうのよ。
ご利用者様には、大きくわけて二通りいらっしゃるの。
片方は、お地蔵さまみたいに穏やかになって、いっそ無気力なくらい状況に適応しているというか、落ち着いているというか。
そういう方たちは徘徊しようと何か失敗しようと、何かしら思いやりが潜んでいるのね。
さっき食べたばかりなのに、ごはんはまだかい?っていうのも、しつこいけど悪意を感じないというか。 
徘徊の理由をよくよく聞いてみると、子どもを迎えに行こうと思ったとか、お部屋のものを片っ端から壊すから何かと思ったら、ヨメに修理を頼まれたんだとかおっしゃる。
いえ、それ修理じゃなくて壊れてますよぉっていうのは通じないんだけどね。
そんなふうに言われると、こっちも笑顔になれるし、じゃ一緒にお迎えに行きましょうかって言うと、嬉しそうにされたりするわけ。
本当はその方にお子さんなんかないときもあるのよ。
奥様はとっくに亡くなっているとかね。
でも、いいの。
そんなのは平気。
私、プロだもの。」

どうやらTシャツのほうは、どこかの介護施設で働いているようだ。
僕はそれがどういう場所で、どんな仕事なのか想像もつかない。
でも、自分が誰で、相手が誰かもわからないようになった高齢者の相手をするだけでも大変なことだろうということくらいは分かる気がする。
さらに、おむつを取り替えたり、お風呂に入れたり、歩き回るのを追いかけたり…
浅い知識で考えるしかないが、「大変」の一言に尽きる。
自分にかまっていられない様子なのもわかる気がする。
僕はまた完全に背を向けて、彼女の声に耳を傾けた。

「でもね、そういう方はほんの一握りなの。
大概の方は、怒りとか不安とか、不信感とかでいっぱいなの。
大事な息子を奪った憎い嫁と間違われて、バカとか死ねとか言われるのは日常茶飯事。
夫の浮気相手の女と思って、枕だの湯呑だのを投げつけてくる人も珍しくない。
男性職員なら、浮気した夫と間違われて、あなたはひどいと泣いて殴られるなんてしょっちゅうなの。

私が一番恐ろしいと思ったのはね、私を娘と間違えているご利用者様なの。
普段から口が悪いと言うか、文句ばかりなのね。
誰に対してもきついことを言うの。
みんな担当を嫌がって、自然と年かさの私に回ってくる回数が増えて。
ホームに来るまで一緒に暮らしていたのは娘さんだったけど、私たちより年上だと思う。
送ってきてから、一度も訪ねてこないのよ。
でもね、それももっともなの。
その方ね、私をその娘さんと思って、毎日毎日、顔を見るたびに言うの。
『なんてグスなんだろう。それに器量が悪くて見ているだけで腹が立つ。お前はあのひどい父親に似て、気は利かないし、反省もしない。お前なんか産まなきゃよかった。なんでお前なんか産んでしまったんだろう。あの時堕しておけばよかった。お前の顔なんか見たくもない』って。」

Tシャツさんは、淡々と話す。
僕はその言葉に息が止まった。
そんなひどい言葉がこの世にあるのだろうか。
人違いと分かっていても、毎日毎日そんな言葉を言われたらたまらない。

「きっと、娘さんにも言っていたのね。
その父親っていうのに裏切られたのでしょう。
その方も、親御さんの愛情に恵まれなかったのかもしれない。
きっとつらい思いをしたのだとは思うのよ。
でもね、気の毒だとは思うけど、共感はできないの。

その悪態を聞いていると、いつからなのかなって、いつも思うの。
認知症が始まってからなら、まだいいなって。
だって、病気が言わせているんだって思えるでしょう?
でも、多分、きっとそうじゃない。
あの方は、娘さんが小さい時からずっとずっと、そう言い続けているんだと思う。
ひどいわよね。
最低最悪の呪いの言葉よ。
これ以上汚い呪いは存在しないくらい、ひどい言葉。」

生まれてきてくれてありがとう。
私の子どもになってくれて、ありがとう。
僕と姉さんの母さんは今はもう亡くなってしまったけれど、僕たちにそう書き残してくれた。
書き残さなくても、僕たちは母さんが本気でそう思っていることを肌身で知っていた。
疑ったこともないし、これからも疑うことはないだろう。
その当たり前の温度を知らない人がいる。
愛を囁いてほしいと願う口から、呪いの言葉がほとばしるのを止めようもなかった子供がいる。
これは、そういう話だ。

「私ね、時々恐ろしくなるの。
この人たちはどうして、こんなふうになっちゃったのかなって。
どこで道が分かれて、お地蔵さんみたいな人と、鬼みたいな人に分かれちゃうのかな。
私はどうなるのかなって。

そうするとね、私、本当に怖くなる。
だって、私の心の中、すごく冷酷なんだもの。
普通に話しているつもりの言葉に毒入りの棘が出てるくらい、冷酷なんだもの。
今はそれでもコントロールできるからまだいいの。
いつか、そのコントロールができなくなったら、私もあんなふうに呪いを吐きまくるのかと思うと、もう死んでしまいたくなるの。

それだけじゃないわ。
最近、その方のお世話をしているときに、『この口を封じてしまいたい』っていう衝動に駆られるの。
いっそ首を絞めてしまおうか、風呂の中に押し込んでしまおうかって思っている自分がいるの。
どうしようもなくイライラして、でも、我慢してる。
このままじゃ、私、いつか殺人犯になってしまうかもしれない。」

「いいえ、大丈夫。」

向かいで黙って話を聞いていた小花柄が、このとき初めて声を出した。
柔らかいのにきっぱりとした声だった。

「大丈夫。あなたは決してそんなことしないわ。」
「どうして分かるの?」
「あなたの言葉に棘があるとしたら、それはむかしむかし、あなたの柔らかくてあったかい心に棘を差し込んだ大人がいたからでしょう?
丁度その口汚い方と同じやり方で。」
「え。」

「忘れたの?話してくれたじゃない。
あなたのご両親のこと。
二人であなたを馬鹿にし続けたこと。
あなたの楽しみの何もかもを否定して、あなたの行動の何もかもに口を出して、あなたの10の成功を褒めることも喜ぶこともなく、たった一つの失敗を責めるだけだったこと。
あなたを捨て子だったと言い続けて傷つけたことも。
子どもの命など親のモノだといって、機嫌が悪いとすぐに殴る蹴るの暴力を受け続けたことも。
そうやって、毎日一本また一本と刺された棘が抜けずに残っているのよ。
あんまりたくさん刺さって、ヤマアラシみたいになっちゃっているから、時々抜けて、言葉と一緒に外に出てしまうのかもね。」
「ヤマアラシ!」
Tシャツさんはフフフと笑った。

「私、思うのだけど、怒りって、ちゃんと正しい怒りの対象に向けて返さなくてはならないのではないかしら。」
「正しい怒りの対象?」
「その口汚い方ね、本当は娘さんに向かって怒っているのではなくて、自分を裏切った夫とか、その方ご自身の親御さんとか、そういう人に対して怒りを感じていたのではないかしら。
でも、きっと、その怒りをちゃんと相手に伝える勇気がなくて、抑え込んでいい人を演じたりしてしまったんじゃないかしら。」
「なるほど。そうね、そうかもしれない。」

僕は小花柄の言うことに、心の耳をダンボのように広げて聞き入った。
「だから、心の中に棘が残っちゃうのよ。
後になって、関係ない人に投げ返されても迷惑なだけだし、拒絶されて当然よね。
というか、自分を大事にするには、そういう精神的テロリストは拒絶すべきよね。
親子だろうと、上司と部下だろうが、教師と生徒だろうが関係ない。
どちらも人間としては対等だもの。
棘を刺されたら、ちゃんと抜いて、投げ返さなくては。
それが『自分を大切にする』ってことじゃないかしらって、思うの。」

Tシャツさんの声が途切れた。
何かを考えているのかもしれない。
僕のカップは空になってしまった。
白いカップの内側に微かなコーヒー豆のかすが円を描いている。

「そうか、そういうことね。」
Tシャツさんの声がした。

「私の棘は私の両親が刺したもの。
それから、50年近くも両親のことを思い出すたびに、自分自身で刺さった棘をねじ込んで、余計に深手になったんだと思う。
今でも、血が流れるほどに痛い時があるもの。
今、あのご利用者様に対して感じる怒りは、あの方にではなくて、両親に向けて返すべき怒りなのだわ。」
「そうかもしれないわね。
それを知っているあなたは、決して道を誤るなんてないわ。
だって、あなたは…。」
「プロですもの。」
「そうよ。それに、あなたの心は冷酷なんかじゃないわ。
もしも冷たいとしたら、棘の毒が回って冷え切っているだけ。
本当のあなたの心はきれいな虹色で、ほっこり温かいの。
私、ちゃんと知ってる。」

僕はすっかり感動して、後ろの二人に拍手喝采したい気持ちに駆られた。

「あのご利用者様の娘さん、もう二度と来られないといいなって思ってたの。
今日もいらっしゃいませんようにって、毎日祈っていたくらい。
だってあんな醜い言葉、二度とお聞かせしたくないもの。
でも、完全に断ち切って、ホームを姥捨て山と思って捨てていらしたならいいのだけど、そういう自分を責めていたり、抜けない棘が刺さったままら、ぜひもう一度いらして、怒りを全部ぶつけていってほしいわ。
そんな日がきたら、私、娘さんの応援しちゃうわ。」
なるほど、プロはそういう考え方をするんだな、でも、あなた自身のことも大事にしてよねと、僕はTシャツさんにそっと言いたくなった。

「それにしても、私、いつあなたに両親の話なんかしたかしら。
嫌な話だから言わないようにしていたつもりだったんだけどな。」
「やだわ。私がお嫁に行く前に二人で伊豆の温泉に泊まりにいったの、覚えている?」
「もちろん。あの時?」
「そうよ。あなた、もうめちゃくちゃ酔っぱらって、一晩寝ないでしゃべったじゃない。」
「え?あの時酔っぱらっていたのはあなたじゃなかった?」
「うそぉ。」
「あなたもご両親こと、ずいぶんいろいろ言ってたわよ。」
「あら、やだわ。知らなかった。」
「もう、私たち、若いころからボケてたってことかしら〜!」
「そういえば、今度の誕生日でお互い50歳よね。
もう44年も友達ってことよ。
記念にどう?また旅行に行かない?」
「うふふ。いいけど、シフト、きついからなぁ。
50歳記念より、友達歴50周年記念にしない?」
「その時私たちは…56歳?うわ、信じられな〜い!!」

僕はびっくりして、用もないのに持っていたカップをガチャンとソーサーに落としてしまった。
両手で押さえて慌てて振り返ると、20歳違いに見える同い年の女性がそろって僕を見ていた。
「す、すいません。」

二人はそれぞれに微笑むと、視線を戻して世間話を始めた。

僕にもいつか、こんな風に信頼し合って、心の内をさらして話し合える友達ができるのだろうか。
もう一度、肩越しに振り返って二人を覗き見た。
眼の錯覚だろうか、そこには、女子高生みたいにキラキラした女性たちが楽しげに語り合っていた。






人気ブログランキングへ
 


姉さんに連れられて、初めてルナソルを訪れた日は、長い入院を終えた日とあって、長居はできなかった。
姉さんも、バイトスタイルを僕に見せようと着替えてくれたものの、その日はバイトを入れていなくて、僕が黄緑色のカップで美味すぎるコーヒーを飲んでいる間に再び普段着に戻って、家に帰ったのだ。

あれから、いろいろなことがあって、ルナソルには何度も足を運んでいる。
でも、小紫で働き始めてからは一度も行っていなかった。
不意に行きたいところ、遠くなくて、ひとりでいても快適な居場所。
数か月思い出さなかったのが不思議だった。

半月前にインフルエンザにかかったとき、病院へはタクシーで往復したので、電車でやってきて、病院と反対側に歩くのは、社会人になって初めてのことになる。
なんだか、ヘンな気分だ。
まっすぐに差し込んでくる太陽は、歩き出した僕をたちまち汗まみれにする。
わずか10分の道のりなのに、この徒歩の時間が、あの店のコーヒーの味を上げているんじゃないだろうかと思う。

今日はやたらと昔のことを思い出しながらやってきた。
初めて来たあの日から、もう6年ほどになるのか。
僕は今日も生きていて、こうしてこのドアを開ける。
汗ばんだ手で茶色のドアを押すと、カラリンとカウベルが鳴り、エアコンが効いた冷たい空気が僕を包んだ。

「やあ、いらっしゃい。ずいぶん久しぶりだね。」
オーナーは、いつもの気安さで僕を迎えた。
もうすぐ40歳になるくらいだろうに、相変わらずのいい男っぷりだ。
よくもまぁ、どこかの事務所から引き抜きに来なかったものだと思う。
若いだけの(おや、失礼)頃よりも、年齢を重ねた厚みが、彼の存在感を一層増しているように見える。
「一応、社会人になったもんで、ちょっと忙しくて。」
「そうか。おめでとう。」

この店は、いつ来ても空気がきれいな気がする。
「きょうはカウンターでいいかい?少し話もしたいし、顔も見ていたいし。」
「見せるような顔じゃないっすよ。」
憎まれ口をききながらも、僕は促されるままにカウンター席に腰かけた。

「今日も繁盛ですね。」
店内は、平日の昼下がりのわりには、やはりよく客が入っている。
「今はコーヒーブームだからね。」
「今は?この店は6年前からブームだったと思いますけど。」
「実は最近、ランチを始めてねぇ。それがよかったらしい。」
「うわ。それは都合がいいな。僕、昼飯まだなんですよ。」
「よし。じゃ、味わってみてくれないか。」
「お願いします。」
「ただし、ワンプレートランチ1品だけだから、何も選べない。」
「いまどき、かえって新鮮ですね。シェフのおすすめランチって感じで。」
「そのかわり、野菜はすべて有機野菜。米や小麦粉にもこだわっている。」
「へぇ。オーナーらしいや。」

ふんと小鼻を膨らませて喜ぶと、オーナーは引っ込んでいった。
姉さんがバイトを辞めてから、この店は男性店員を雇った。
見ると、見覚えのある彼のほかに、もうひとり、オーナーよりも少し年上に見える男性が動き回っている。
どちらもイケメンぞろいだ。
「まったく、ホストカフェかよ。」
独り言で突っ込むには丁度いい具合だ。

汗ばんだ手をきれいに洗いたくて、手洗いに立つ。
ドアの周りにひとつのモノも置いていない、スッキリした様子。
ドアを開けると、汚れはもちろん、乱れたところがひとつもない。
わざとらしく置かれた掃除点検表もない。
不快な臭いも、芳香剤もない。
シンクも便器も、真っ白に光らんばかりだ。
トイレットペーパーホルダーが、以前から面白い形をしている。
床から棒が生えていて、90度に曲がった先端にペーパーがかけてある。
その先端が彫刻になっている。
ペーパーから両手をそろえて今にも飛び込もうとしている、長いウェーブの髪の、半裸の女性の肩から先。
僕は初めてこれを見たとき、恥ずかしながら小さな期待を込めてペーパーをはずし、全身を確認した。
すると、なんと、人魚だったのだ!!!!
あの時の人知れない気恥ずかしさは昨日のことのようだ。
後で聞いたところによると、オーナーがコーヒーの買い付けに出かけたどこかの国で見つけた杖なのだそうだ。
これはいつか、何かに使えるとひらめき、迷わず買ったのだと言う。

手を洗ったあと、水滴をぬぐったペーパータオルでシンクの周りにとんだ水滴を当たり前のようにぬぐいながら、前回ここで手を洗ったときの自分は、こんなことが習慣になっているとは思いもしなかったと気付いた。

席にもどって、改めて店内を見回す。
喫茶店というと、来た客にうまい飲み物を出すのが仕事だと、以前の僕は思っていた。
もちろん、それに間違いはない。
けれども、同じような仕事を自分もしてみると、それは、仕上げの一点のようなものだった。
その一点を描くまでに、従業員が何に心血を注ぎ、どう準備をしているのかなどまったく知らなかったし、知るもなにも、そんな時間や努力の存在に気付いてすらいなかった。

この、みごとな石のゆか。
これをこの状態で何年も保つことの大変さは、毎日床掃除をしてみてはじめて知ったことだ。
使っていると、毎日同じように掃除していても、なぜかヨゴレというかクスミというか、そういうものがついていく。
それを見越して、ある時はこの方法で、またある時は別の方法で、掃き、洗い、磨いていく。
そういう努力なしに、きれいな床は保てない。

店内の空気にしてもそうだ。
きっとカウンターの下には、大きな空気清浄機が隠されているに違いない。
けれども、お金をかけて機械を置いただけでは、どうしてもこの清浄な空気は保てない。
壁や柱、棚の上、いろいろなところに自然とたまっていく埃を、やっぱり毎日丁寧に取り除いていく。
淹れたてのコーヒーは香ばしいが、淹れた後のコーヒーかすは悪臭の元になりかねない。
だから、それが客の鼻に届く前に、さっと片づけるのが大切なのだ。
それはつまり、コーヒーをそこここにこぼさないことでもある。
こぼれたら拭けばいい、なんて言っていては、いつか澱んでいく。
見た目に美しいだけではない、本物の技量が必要なのだ。

顔見知りの店員が、今、手洗いに入ろうとして、黒くて長いエプロンを外し、白いワイシャツの袖をぐいっとまくったところだ。
こういう心遣いも、この店では当たり前の文化なのだろう。
客に飲み物を供する服装でトイレには入らない。
間違っても袖口が汚れないよう気を遣う。
きっと、手洗いの中で手を洗い、出てきたらまた肘まで洗い直すに違いない。
そんなところは誰も見ていないかもしれない。
でも、絶対にゆるがせにしない配慮。

客は、何も知らないけれど、そういう一切合財を肌で感じて店を選ぶ。
うわべだけ飾っても、味だけ求めても、客はいつか気付いてしまう。
そういう意味では、お客様は本当に神様みたいなものだと、僕は思う。
サービス業ってすごいよな。
ルナソルか。
朝から晩まで一日中頑張っているのは店の人たちなんだよな。
いま、そんな見えなかったものが見えるようになって、なんだか少し大人になれたような気がする。
子どもと社会人の違いとか、学生と働くことの違いは、そんなところに隠されているのかもしれない。

「はい、お待たせしました。今日のランチはガーリックトーストに4種のキノコのディップを添えて、それから、シンプルな鶏肉のソテーとベビーリーフの山盛りサラダで。」
大きなプレートは真っ白で、添えられたフォークが光っている。
あまりにも美味そうで、僕はごくりと音をたてて生唾を飲み込んだ。






人気ブログランキングへ
 


『Luna Y Sol』。
その店の看板に書かれた文字が英語でないことくらいしか、僕には分からなかった。
姉さんにそっと尋ねると、ルナソル、と答えた。
そのやり取りを聞いていたらしい男が、勝手に割り込んできた。

「Lunaは月で、Solは太陽。真ん中のYはイと読むんだけど、店の名前では省略ね。
で、月と太陽だから、朝から晩まで。つまり、一日中ステキなところだよって気持ちを込めて名付けたんだ。
ちなみに、スペイン語だよ。」
なるほどと、一瞬感心しかけたが、いかんいかん。
僕は、どうもこの男がいけ好かない。
初対面で、ほとんど会話らしい会話もしていないのにいけ好かないなどと言ってはいけないが、女の勘に勝るとも劣らず、弟の勘というのは鋭いのだ。

案の定、姉さんは男の話にかなり嬉しげに聞き入っている。
数年来の農作業から、2か月ほどでは全く褪せない小麦色の肌に、真っ白いシャツが眩しいほどに似合っている姉さん。
スペイン語だと?
日本人は、日本語が美しく話せればいいのだ。
無意味な反感がどこから湧いてくるのか自覚できるだけに、よけいに気に食わない。

「私ね、サトル、コーヒーのことをもっと知りたくなったの。」
「ふうん。」
木で鼻をくくったような返事をして、僕は人間たちから目を逸らす。
けっこうキツい坂の途中、住宅街の真ん中に、ルナソルは存在感をありありと示して建っていた。
白い壁のオシャレな家が並ぶ中、ルナソルは驚くほどのオレンジ色をしたレンガで覆われていた。
通りからわずかに奥まった扉までの間には真っ白な石畳が敷かれ、両脇には濃い緑の葉が、ほどよい高さで茂っている。

こげ茶色の木の扉を押すと、カウベルが鳴った。
店の中も、石畳のような質感の床になっている。
オーナーらしき男の年齢には不釣合いな、使い込まれて味の出たテーブルや椅子が、真っ白い店内に温かみを添えている。

カウンターの向こうには、20cm四方くらいに区切られた、ドアと同じ色の板で作られた格子の棚が広がり、一目で美しさに吸い寄せられるようなカップたちが並んでいる。
ただ、美しいと言っても、ウエッジウッドだのロイヤルコペンハーゲンだのといった、紅茶に似合いそうな人工的な煌めきの美しさではない。
ただただ、存在感のある、はっとさせられるような器たちだ。

そういえば、平日の昼下がりというのに、それなりに客がいる。
ひとりでいるテーブルはほとんどなくて、二人、三人と楽しげに語り合っている。
喫茶店なんて何度も入ったことはないけれど、この店はけっこう大きい方なのではないかと思う。
テーブルが、1、2、3、4…8つもある。
それに、カウンター席。

奥の席にいた年配の品がよさそうな夫人がそっと手を挙げた。
「葉月ちゃん。」
男が声をかけるのよりも一歩早く、姉さんは僕の脇を離れて、そちらへ向かっていた。
「君のお姉さんは本当によく気が付く。動きも機敏で素晴らしい。こういう人に働いてもらうと、手放したくないと思うのは当然だろ?」
突然何を言い出すかと思えば、この無礼な男は、人の大事な姉を「ちゃん」づけで呼んだ挙句に、手放したくないときたもんだ。

僕は男に答えてやる義務はないとばかりに、格子の棚に目を戻した。
さっき見た中にひとつ、僕を釘づけにしたのがあったのだ。
丁度両手の中にすっぽりと収まるほどの大きさで、外側が、驚くほど鮮やかな黄緑色をしている。
そこに、花が一輪。
あれは、多分姫百合だろう。
内側はどうなっているのだろうか…

カリンと、水滴をいっぱいにつけて氷だけになっていたグラスの中で、その氷が音をたてた。
飲もうと思ってグラスを手にした僕は、そのままテーブルに戻す。
グラスの下の方で、アイスコーヒーが何倍にも薄まって、わずかに残っている。
ばつが悪くて、水滴に濡れた指をナプキンで拭いてみた。

「オーナー。」
注文を受けたらしい姉さんが男を呼ぶ。
図々しく、僕の目の前に腰かけていた男は、立ち上がりながら言った。
「次はホットでいかがですか、お客様。あちらのカップでお気に召したものがあれば、それを使ってご用意いたします。」
「あの、黄緑の、姫百合がついた…。」
僕はつい、本音で答えてしまった。
「かしこまりました。少しお待ちください。」
男は、先ほどまでの馴れ馴れしさとは打って変わって、丁重に頭を下げるとカウンターの向こうへ帰っていった。

伝票をちらりと確認する。
密閉されたガラス容器の一つから、豆を取り出すと、カリカリと音がし始めた。
「ああやってね、ご注文をいただいてから豆を挽くのよ。」
いつの間にか戻ってきた姉さんが言う。
カウンターに遮られてよく見えずもどかしく思ううちに、次に見えたときには男の手にポットがあって、その口から細く湯が流れ出るところだった。
しぐさのひとつひとつに、真剣さが宿っている。
じきに、音もたてずに、ひとつのカップ&ソーサーがカウンターに置かれた。
真っ白い器を、姉さんがすっと受け取り、トレイに乗せて運んでいった。

目をカウンターの奥に戻すと、男があの黄緑色のカップを棚から下ろしたところだった。
これも、コーヒーマジックか。
僕は、さっきまでいけ好かないと反感しか感じなかった男のすることから、いつの間にか目が離せなくなっていた。





人気ブログランキングへ
 


梅雨が明けた。
故郷に比べると年中まとわりつくような湿気を感じる東京では、夏の日差しが強まるほど「暑い」よりも「蒸し暑い」と思う時間が増える。
ゆかりさんが北海道へ旅行に行ってしまい、小紫は一足早い夏休み。
僕はこの5日間をどう使おうかと考えているうちに当日を迎えてしまい、自分の手際の悪さに苦笑いしながら、さしあたり、窓と玄関を全開にして、せっせと掃除機をかけた。
それから、シーツと枕カバー、タオルケットにバスタオル、お風呂マットとトイレマットも洗おうかと、洗濯三昧のうちに半日が終わってしまった。

うちにはタオルケットを干すような場所はない。
そんな時には使うといいわと、ゆかりさんが言ってくれていたのを思い出し、僕は洗い立てでずっしり重たいタオルケットとシーツを洗濯カゴに山盛りにして、小紫の隣にある、ゆかりさんの家に向かった。
小さな庭に、物干しがある。
今は何も干してないので、2本ある洗濯竿の片方にタオルケットを、もう片方にシーツをびしりと伸ばして干す。
家では、いくつかに折りたたんで吊るすしかないのに比べると、これはもう贅沢としか言いようがない。
この庭には、うまい具合に陽が差す。
今日は風も日差しも申し分ない。
夕方とりこみに来れば、今夜は陽だまりの香りに包まれて眠ることができるだろう。

洗濯カゴを縁側の隅に置かせてもらうと、僕はそのまま、出かけたくなった。
とはいえ、遠出がしたいわけではない。
夏休みなのは自分だけで、世間一般はただの平日と思えば、友達を誘いだすのも難しい。
おなじみの元さんや長さんだって、いまは仕事の時間だ。
それに、どういう加減か、今日は一人でもよい気がする。
では、ひとりでどこへ行こうか、映画?美術館?買い物?
どれも違う気がする。

差しあたり駅へ向かう道を歩く。
改めてこうしてみると、普段気付かないでいたけれど、ずいぶんと静かな街だ。
いや、違う。
街とは本来、どこもこんなふうに静かなのだろう。
渋谷や新宿や、日本の中にいくつもないような街を基準にするよりも、こういうごく普通の街のほうを基準にするのが妥当というものだ。

他愛ないことを考えていたら、ふと、頭にひとつの風景が浮かんだ。
そうだ、これだ。
あそこへ行こう。
僕は駅から電車に乗り、病院へ向かうルートをたどることにした。

家からさほど時間がかかるわけではない。
病院に行くのと同じ駅を降り、病院とは逆の出口から街へ出る。
病院がある方はかなりにぎやかに開けていて人も多いが、反対側は駅に近いあたりにこそ店も集まっているが、それもすぐに途切れて、閑静な住宅街が広がる。
道はゆるやかな坂になり、次第に勾配を増していく。
初夏の日差しを浴びながら坂を上るうち、僕はぐっしょりを汗をかいた。

一般の人は、いったい何歳くらいから、坂を上りながら、自分の体重を感じるようになるのだろう。
さほど体力に恵まれた子供でもなかった僕でも、小中学生の頃は、きつい坂を上って息を切らせることはあっても、体とは存外重たいものなのだなどと感じたことはなかった気がする。
僕がそのことに初めて気づいたのは18歳の夏、この坂から振り向くと、家並みの向こうにそびえたっているあの巨大な病院で過ごした2か月ほどの後、退院の日に、姉さんとこの坂を歩いた時だった。

きっかけは、こうだ。
「姉さん、病院にいない時間、どこで何をしているの?」
退院間近になったある日、僕は何気なく姉さんに尋ねた。
「いろいろ。なんで?」
「別に理由はないけど、最近はそんなに病院にいてもらうわけでもなくなっただろ?
毎日掃除するほど広い家に住んでるわけでもないし、何しているのかなぁと思って。」
「あ、なるほどね。」
姉さんはすぐに納得すると、なぜかちょっと照れ笑いを浮かべた。
「え?何?」
「ああ、何でもない、何でもない。
実は、先月からバイトしてるんだ。」
「バイト?そうなんだ!」
「うん。でも、あんたの医療費が足りないとかじゃないよ。
せっかく東京に来たんだし、何か、あっちにいたらできないことをしてみようかなぁと思って。」
「ふうん。で、何のバイト?」
「喫茶店のね、ウエイトレス。」
「ウエイトレス?」

僕は姉さんがあの服…ええっと、なんていうんだっけ?…そうそう、メイド服!あれを着て働いている姿を想像してしまった。
それでさっき、赤面したのか?
「まさか、メイド喫茶とかいう、あれじゃないだろうな?」
「はぁ?!あんた、何想像しているの?」
姉さんは、抗がん剤の副作用ですっかり髪がなくなっている僕の頭を遠慮なくピシャリと叩いた。
「なんだよ、痛えなぁ!」
「そんないかがわしい仕事をすると思う?」
「いかがわしいかどうか、知らないよ。行ったことないし。」
「違うわよ。すぐそこの、普通のコーヒー専門店よ。」
「へぇ。そうなんだ。」
「うん。あのさ、母さんの日記の最後になんて書いてあったか覚えてる?」

姉さんに尋ねられて、僕はすぐに思い出した。
「うん。覚えてる。もう一度、コーヒーが飲みたかったなって。」
「そうそう。あたしね、あれがずっと気になってたのよ。
うちにはインスタントコーヒーしかなかったでしょ?
だから、母さんがいう『コーヒーが飲みたかった』って、きっとレギュラーコーヒーだよねって、話したことあったよね。」
「ああ、そうだったね。」
「それで、こっちに来てから、買い物のついでとか、美術館に行ったときとか、あっちこっちのコーヒーショップに入ってみたのよ。」
「ふーん。うまかったか?」
「それがねぇ…。気軽なコーヒーショップのコーヒーって、美味しいけど、なにかこう、砂糖を飲んでいるみたいに甘くて、母さんがあれを好きだったとは思えなかった。」
「確かにそうだね。母さん、別に甘いものがすごく好きってわけではなかったと思う。」
「嫌いじゃなかったけどね。で、喫茶店で、砂糖とかミルクとか入れないコーヒーを飲んでみようと思ってね、これもあちこち、行ってみたの。」

でも、それほど違いがあるわけでもなく、姉さんも最初からコーヒーが好きだったのでもなかったから、母さんがコーヒーの何が好きだったのか、よくわからなかったらしい。
「でもね、あの店…今、バイトしているところね…そこで飲んだコーヒーが、ほんとに美味しかったの。」
「何が違うの?」
「うーん、一口では言えない。でも、確かに美味しいコーヒーってあるんだよ。」
「そうなのか。」
「あたしね、時々そこでコーヒー飲むうちに、コーヒーの奥深さに引き込まれたんだ。
もっと知りたいと思っていたら、丁度バイトの募集をしているって聞いたの。
病院からも近いし、ブラブラしているのも性に合わないしね。」

それじゃ、退院したら連れて行ってよと僕が言った。
いいよと答えた姉さんは約束通り、退院のその足で、僕をその店に案内してくれ、すっと奥に引っ込むと、真っ白い七分袖のワイシャツに黒くて長いエプロンを腰骨で締めた、ダンディな姿で再登場した。
「うわっ!」
僕は驚いてしまった。
姉さんって、案外美人だったんだなと思ったのはこの時だ。
実はメイド服だって似合うのかもしれないと、余計な考えが頭をかすめたけれど、姉さんには言わなかった。

「そう、君が葉月ちゃんの弟くんか。退院おめでとう。」
どこか癇に障る男が、ここのオーナーだった。
アイドルみたいな顔をした、30そこそこの男だ。

そいつが差し出してくれたアイスコーヒーを、退院してすぐの重たい体を引きずるように坂を上ってきた僕は、すごい勢いで飲んだ。
ミルクだのガムシロだのを入れるのはすっかり忘れていた。
「うまーい!」
それは、本当に美味しかった。
姉さんの顔がパッと輝くように笑った。
「でしょ?」

僕はドキリとした。
姉さんは、コーヒーの魔法にかかっていたのだ。





人気ブログランキングへ


 


「ご心配をおかけしました。」
再び小紫の営業時間にちゃんと働けるようになった僕は、常連さん方のお見舞いの言葉に平身低頭、何度も頭を下げた。
大事をとってと言ってくれるのに甘えていたけれど、昨日にはゆかりさんの家で世話になるのもおしまいにして、アパートに戻った。
もう、大丈夫。
体が回復してくると、気持ちも持ち上がり、気持ちが持ち上がると、体の回復はもっと早まった。

運よく、ゆかりさんにインフルエンザをうつしてしまうこともなかった。
それにしても、どこからもらったものか。
ここのお客様でインフルエンザに苦しんだ人がいるのだろうか。
それとも街で?

「穂高くん、こっち来なさいよ。」
元さんが高く手招きしながら呼んでいる。
「いいわよ、行って。ホストになったと思って、楽しませてさしあげなさい。」
ゆかりさんが変なことを言って、僕の背中をポンとたたいた。
久しぶりに着たバーテンダーの服は、少しだぶついているようだ。
熱を出している間に、ちょっと体重も減ったのだろう。

いつもの定位置で、元さんのほかに、宮田先生と八百屋の長さんも一緒に飲んでいる。
「もうすっかりいいのか?」
元さんが僕の顔色を覗き込む。
「はい。もう薬も飲んでいないし、飯も食えます。ひとにもうつらないそうです。」
「そりゃよかった。大変だったな。」
「はぁ、熱の出初めは、このまま死ぬんじゃないかと思いましたぁ!」
僕の言葉に元さんと長さんは大笑いしたけれど、宮田先生はそっと微笑んだだけだ。

「それにしてもさ、インフルエンザは確かに大変だけど、なんだって大学病院になんか行くんだ?」
元さんはそこのところが不思議だったらしい。
「それもさ、あの病院は、ちょっと熱出したからって診てもらえるような病院じゃないだろ?先生にいくら聞いても教えてくれないんだよ。」
「そりゃ、いくらいい加減な私でも、守秘義務くらいは知ってますからねぇ、穂高くん。」
宮田先生は、僕の既往を黙ってくれているらしい。

大学病院で薬をもらったと話したのは僕自身だ。
そんなことに疑問を持たれるとは想像もしなかった。
過去の病気のことも、隠し通そうと思っているわけではない。
ただ、言いふらすことでもないと思っているだけなのだ。

「ママに聞いても教えてくれないし。」
「ママは私よりよっぽどたくさんの秘密を守っているからね。」
宮田先生が空になったグラスを僕に渡しながら言う。
僕は宮田先生のグラスに氷を足し、琥珀色の液体を静かに注ぎながら、この人たちにならば話してもいいかと思った。
「7年くらい前に、入院していたんですよ、あの病院に。それで、今でも年に1度は検査に行くので、主治医がいるんです。」
「7年というと…18歳か?どこが悪かったんだい?」
元さんの問いかけは、稲刈りを終えた農夫たちが、肩が痛い腰が痛いと言い合うような気楽さで、 僕は僕の答えがその軽さにそぐわないことを知りながら口に出すことがためらわれて、言いよどんでしまう。

「ん?無理に言わんでいいんだぞ。」
何かを感じた長さんが助け舟を出す。
「あ、いえ。僕はその時、白血病だったんです。」
できるだけ、深刻に聞こえないように、頭痛や肩こりと同じくらいに聞こえるように…
「なんだって?」
それでもやはり、元さんは目を剥いて、瞬きを忘れてしまったようだ。
「白血病とは…今は元気そうに見えるけど、まだ悪いのか?治療しながら生活してるのか?それとも九死に一生を得たってことか?」

よく分かっている宮田先生以外の2人は、明らかにしょげ返ってしまった。
晩酌の店で、酒のつまみに聞く話として、若い命が消えかけた話は重たすぎる。
「あまり知られていませんが、子どもがかかる白血病はほとんど治るんですよ。」
宮田先生が、患児の親に説明するときのような思いやりのこもった声で説明する。
「治る?だって、白血病っていうのは血液のガンなんだろ?ガンは簡単には治らないんじゃないのか?」
「白血病といっても、細かく言うと何種類かあるんだけどね、今ではどれも治療法が分かってきていて、成人でも半分くらいは治るし、子どもの場合はもっと薬が効くから、80%以上が発症後5年たってもちゃんと生きている。もう不治の病じゃないんだよ。」

5年生存率は80%。
姉さんが恋待先生から聞いた数字もそうだった。
僕の病気は、微妙な年齢だったから、どちらに属するか…というところだった。
でも、運よく、小児の白血病と同じ経過をたどった。
3週間ほどの抗がん剤治療で寛解期を迎え、白血病の症状は消えていた。
そこから完治に向けて、3年ほどの治療が続いた。
でも、その3年間、ずっと入院していたわけでも、活動制限があったわけでもない。
1年の夏休みは入院と自宅療養で消えたけど、その後の僕は普通に大学に通い、普通に遊んで暮らすことができた。
そのうち、病気が消えていったのだ。
僕は運よく80%の方に属することができた。
確かに、ベッドを並べて入院していた子の中には、残る20%の方だった子もいた。
紙一重といえば、確かにそうだ。
ともかく、僕は最短最善の治療効果を得て、病気と手を切ることができた。

「そうなのか。それにしても、ただならぬ経験をしたのは確かだな。」
「僕は言われるままに治してもらっていただけだけですけど、姉は辛かったと思います。」
これは本音だ。
「僕の身内は姉だけなんです。5歳年上ではありますが、あの頃の姉さんはまだ23だったわけで、5人に1人は5年以内に命を落とすかもと言われたら、4人は助かるとは考えられないですよね。」
引っ越して、仕事もやめて、僕の闘病生活に付き合ってくれた姉さんの胸の内を思う。

子どものころから、姉さんはいろんなものを背負っていた。
一人で子育てをする母さんを支えて、いつまでも子供の僕に母親の愛情を譲ってくれたようなものだ。
母さんが亡くなった時も、ひとりで僕を待っていた。
それでも、姉さんはいつでも、僕の姉さんでいてくれる。
「すごい人なんですよ、姉は。」
「どうも、そうみたいだね。」
元さんが、うす汗のにじんだ額を撫で上げながら言う。
「見上げた人だ。」
「弟から言うのもなんですが、けっこう美人なんです。」
「へぇ。それはお目にかかりたい。」
「ええ、いつかきっと、ぜひ。」

僕はちょっと居住まいを正して、はっきりとお願いすることにした。
「あの病気には再発のリスクも確かにあるんです。
だから、毎年検査を受け続けてます。
もし再発しても、早期発見ができれば、やっぱり治療はできるそうです。
僕はこうして元気ですし、だからみなさんも、僕を特別扱いしないでくださいね。
ただ、高熱を出すのはちょっと怖いので、コイツ熱があるか?危ないなぁと思ったら…」
「すぐに私のところへ連れてくるように。」
宮田先生がようやく声をたてて笑った。

僕はあれから、5年生存率の5年を生き延びた。
負けるもんか。
僕の人生は、まだまだ始まったばかりなのだから。






人気ブログランキングへ
 

このページのトップヘ