Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。


和尚さんが悟りについて語るというその話に、一同聴き入る形になった。
問答というのだろう、和尚さんは一方的に話すのではなくて、何かと皆に問いかける。

「人には『感情』というものがあるだろう。どんなものがある?」
「感情…うれしいとか、楽しいとか?」
「悲しいとか、さみしいとか。」
「切ないとか、やるせないとか。」
「怒りとか、憎しみとか、嫉妬とか。」
「そうだなぁ。いろいろとあるなぁ。人は四六時中、その感情を抱いているだろう?」
「確かに。何も感じていない時でも、安心とか平和とかいう感情を抱いている時と言えるかもしれませんわね。」
「うむ。その通りだなぁ。」
ゆかりさんの答えは、和尚さんの考えにしっかりと沿ったものであったらしい。

「ほとんどの人が、感情には感じたいものと感じたくないものがあると思っている。
たとえば、嬉しいとか楽しいとかなら、感じていていい。
でも、怒りとか憎しみとかになると、これはいらないと思う。」
「そりゃそうだ。怒ったままでいるのは気分が悪いし、体にも悪いと言いますよ。」
「うむ、うむ。」
「それに、感情って伝染するじゃないですか。」
そう言い出したのは、内装工事の会社社長である元さんだ。
「俺がイライラしたり怒りながら仕事をしていると、社員にも伝わって、現場の雰囲気が悪くなって、普段ならしないようなミスをしたりするもんだ。」
「そうだな。ウチでも、母ちゃんの機嫌が悪いと、売り上げが落ちるよ。」
そう受けたのは八百屋の長さんだ。
「怒りみたいなよくない感情は、早く切り替えた方がいい。」
「でも、切り替えようと思えば思うほど、しつこく心に残ったりすることもあるわね。」
「ああ。」
「あるある。」

「そのことよ。」
和尚さんは我が意を得たりと微笑んでいる。
「人はよい感情を抱くと、『ずっとこの感情を感じていたい』と思う。
よろしくない感情を抱くと、『こんな感情でいたくない、なんとかせねば』と思う。
これはつまり、どういうことか。」
「どういうことか?」
「うむ。
それはつまり、人はどちらにしろ、内側に沸き起こる感情にいつもじっと目を向けているということではあるまいか?
特にそれがよろしくない感情の時、どうにかしようとあがいて、原因を考えたり、対処法を考えたり、切り替えようと努力したり、捕われて悩んだり、せずにはおれない。」

声に出して答える者はない。
それぞれが、自分の思考に浸り始めた。

「そのうち、あまりにいつでも、長いこと我が感情をみつめるあまりに、自分とは自分の感情そのものだと思うようになる。」
「幸せな人生…って普通に言うものなぁ。」
「そう。そのこと、そのこと。」
「それで、幸せってのは、楽しかったり嬉しかったりするほうが、悲しいとか腹が立つとかよりも多いことを言うものなぁ。」
「うむ、うむ。
そうやって、人は自分の感情が自分そのものだと考える。
そのように教えられるし、人や子に教えもする。
ところが、違うのだなぁ。」
「えっ?違うんですか?」
「違う。我らは感情ではない。」
「どういうことでしょう?体の感覚が大切ということでしょうか?」
「いやいや。そういうことではない。」
「では、いったい?」
「それはなぁ…たとえ話をしてみたほうが分かりやすいだろう。」
「はい、どのような?」

「感情とは、空に浮かぶ雲のようなものと思ってみたらよい。」
「雲、ですか?」
「そうだよ。楽しいとか、嬉しいとかいう感情は、さしずめ夕焼けのようなものだなぁ。」
「夕焼け…。なるほど。」
「格別な喜びは…ほれ、虹のようなものだと思えばよろしい。」
「夕焼けに虹ですか?」
「どうだね?夕焼けや虹をずっとそのままとどめておくことができるだろうか?」
「それは無理ですね。」
「夕焼けなんて、刻々と色を変えるよな?」
「虹もそうだね。長く出ている時もあるけれど、薄くなったり形が変わったりして、あっという間に消えてしまう。」
「その夕焼けも虹も、空気の中の水蒸気…雲があってのものだろう?
では、その雲そのものはどうだ?」
「雲そのもの?」
「そうだなぁ。決まった形がなくて…。」
「いつ出ると決まった時間もなくて…。」
「絶対あるものでもなくて…。」
「いつも見えるとも限らない…。」
「であろうなぁ。雲とはそういうものだ。
感情というのは、その雲のようなものなのだよなぁ。」
「なるほど!少し分かる気がしますね。」
「どんなに素晴らしい気分であっても、いずれ形が変わり、消えてなくなる。どんなに分厚い、どす黒い雲であっても、いずれ流れて消えてなくなる。」
「おお。確かに、確かに。」

皆が感心する中で、ひとり沈思していたゆかりさんがポツリと言い出た。
「では、人は雲のようなものということでしょうか。
だとすると、なんだかずいぶんと頼りない話ですね。」
そのつぶやきを聞いて、男衆がはっとする。
和尚さんはニコリというよりニヤリと笑い、膝を打った。
「そこだよ。」
「え?」
「みなさんは、おのが人生が雲でよいかな?」
「雲でいいか?」
「雲のような、さだめなく頼りなく、消えゆくものだと思うかね?」
「でも、人はいずれ死ぬし、楽しみも苦しみも消えゆくものだとしたら、雲みたいなものってことじゃないですかね?」
「ほほほ。違う、違う。そこが違うのだなぁ。」
「違うと。では?」
「それ、それ。ここが肝要だ。それはね…。」








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夜中に、布団の中で肌寒いと感じる日が続いて、僕は押入れから分厚い羽根布団を引き出した。
眠りから覚める頃、布団の中がぬくぬくと温かいのは本当に幸せだ。
あと少し、もう少しこの幸せに浸っていたいと思いながら起き出すのがいい。
晩秋から冬にかけての、朝の楽しみでもある。

「ちょっと計画が遅れたけれど、やっぱり紅葉狩りに行こうかね。」
午後8時。
常連さんが集まって、ゆかりさんを交えてにぎやかに語り合うのを耳にしながら、僕も年齢を重ねたら、こんなふうに友達と笑い合えるオヤジになりたいなどと、年よりじみたことを考えた。
「観光地は混雑するからちょっとね。」
渋滞が嫌いな元さんは、どうにかして穴場を探したいらしい。
「遠出をしなくてもいい場所はあると思うよ。」
最近、診療を減らしているという宮田先生は安心してグラスを傾けている。
後継ぎがしっかりしているから、楽隠居の体だ。
これもまた、羨ましい。
「このところ、都心も急に気温が下がる日が続いたからね、どこもかしこも紅葉だろうよ。」
「自然の山もいいけれど、人が考えて作り上げた庭園の紅葉も見事よね。」
「なるほど、庭園か!」

ここしばらく、小紫は新しいお客様が来ないでいる。
もともと派手な作りではないし、宣伝もしないし、新規のお客様が来ることの方が不思議なのだ。
なのに、ぽつり、ぽつりといらしていたものだが、最近は常連さん方ばかりなのだ。
「そういう時もあるわよ。涼しくなると夏の疲れが一気に出て、外でお酒をなんて気分にならないこともあるでしょう?」と、ゆかりさんは何とも思っていないようだ。
が、僕は小紫がこのまま衰退して行ってしまうような気がして、なんだか落ち着かない。
だからといって、どうしたらいいかアイディアがあるわけでもないのだが…。
ああ、どうかいろいろなお客様に来ていただけますように!

カラリンコロン。
祈ったとたんにカウベルが鳴った。
「いらっしゃいませ!」
僕の声に迎えられて入ってきた客は、男性が4人。
どなたも初めて会うお客様だ。
やった、僕の願いが通じたんだと、心が小躍りする。
「どうぞこちらへ。」

みなさん、60代とおぼしき普段着で、仲良しなのだろうか、笑顔ばかりが並んでいる。
4人目に入店した男性だけが他の方よりも年上で、80代にも90代にも見える。
はっと眼が止まる人物だった。
髪が、一本もない頭が、見事に照り返っているのだ。
眉毛は真っ白で、小柄な引き締まった体と柔和な表情とは結びつかないような存在感がある。
裾の長い半纏のようなものを羽織っていて、中は作務衣のようだ。
足元は草履をはいている。

「あら、和尚様ではありませんか!お久しぶりでございます。ようこそお運びを。」
ゆかりさんが小走りに出迎えた。
和尚様?
「ご息災でいらしたのですね。」
「ああ、元気ですよ、このとおり。」
お年の印象の割には、言葉がはっきりとしていて、声がよく通る。

「今日は檀家の集まりがあって、散会ののちも話が尽きなくてね。」
一番最初に入ってきた男性が話を継いだ。
ゆかりさんはこちらの男性も知っているらしい。
「そうでしたか。」
「それで、場を変えて、少し口を湿しながら話の続きをしようかということになって。」
「和尚様もこのような場へでかけるのは久しぶりとおっしゃるので。」
「ならば、気心のしれたこちらがいいだろうとね。」
「飯もうまいしなぁ。」
「まぁ、光栄ですわ。ありがとう存じます。さ、どうぞ。」

僕が来てからいらっしゃらなかっただけで、元々こちらのお客様だったようだ。
なんだ、そうだったのか。
でも、久しぶりのお客様を迎えるのを、ゆかりさんはことのほか喜ぶ。
今夜もいい夜になりそうだ。


「和尚様は今もお酒は召し上がらないのですか?」
ゆかりさんは和尚さんの上着を預かって、左腕にかけたまま、席の脇に片膝をついて語りかけている。
「いただきませんよ。」
「では、今夜は何をご用意しましょうか。」
「そうだなぁ。このところ、年のせいか手足が冷えていけない。何か体が温まるものがいいね。」
「でしたら、しょうが汁をたらした葛湯などはいかがでしょう。」
「おお、それはいい。それをいただきましょう。」

他の人々からもそれぞれに注文をいただいたので、僕とゆかりさんは厨房に飛び込み、いそいそと準備をした。
今夜の突き出しは「湯葉巻天ぷら」だ。
これは、絹ごし豆腐の水をじっくりと切り、一口大に切ったものを戻した湯葉で丁寧に巻いて天ぷらにしたものだ。
湯葉がさっくりと揚がると口当たりがよく、中からとろりと豆腐が出てくる。
ポン酢でも、わさび醤油でも、柚子塩でも美味しい。
僕も大好きな一品だ。

飲み物を用意してフロアに戻ると、驚く光景が広がっていた。
さっきまで紅葉狩りの話をしていた元さん、長さん、宮田先生の3人が、和尚さんのお仲間と一つになっていたのだ。
テーブルも椅子も好きに動かして、大テーブルになっている。
和尚さんの席だけは先ほどと同じ位置で、他のみなさんが和尚さんの話を聞ける位置にずれた感じだ。

和尚さんご注文の葛湯は作るのに少し時間がいる。
他の皆さんは、その葛湯ができるのを待って、乾杯!と声を上げた。
この葛湯は、僕も風邪をひきかけたときに作ってもらったことがある。
しっとりと甘みがあり、ショウガが香るように混ざっていて、とろりと舌から喉を通り過ぎていく。
うまかったので、後で自分で作ってみたが、粉っぽい味がするばかりか、舌触りがざらざらして、不味いとしか言いようがなかった。

しばらくあれこれと世間話に花が咲いていたが、いつしか和尚さんの話をみなが傾聴する形になった。
説法と言うのだろうか。
きっと、ずっとずっと何十年も、和尚さんはこうして話してこられたのだろう。
ああ、だからこんなによく通る、いい声をなさっているのかと合点がいった。
僕も古典文学なんかを学んできた人間だから、こういうお話が聞ける機会を逃す手はない。
ほかにお客様もいないし、お出しするものも途切れたので、カウンターのなかからお話に耳を傾けることにした。
ゆかりさんは呼ばれて、和尚様の隣の席に座っていた。

「この頃の仏教はいけない。寺々も、もっと考えなくてはいけないと思うのですよ。
寺も仏教も、この厳しい世間を今生きていらっしゃる皆様方のお支えに、少しもなれてはいませんよ。
これではいけない。」
和尚さんが悲しげに語っている。

「私ども修業者は、もっともっと語らねばならぬと思うのですよ。
人とは何か。
苦とは何か。
悟りとはいかなるものか。」

「それはすごい!」
宮田先生が受けた。
「和尚様は語れるのですか?人とは、苦とは、悟りとは何かを?それは人間普遍の哲学ではありませんか!」
「オレみたいな頭の悪い者にでも分かるように話してもらえるなら、聴きたいなぁ!」
八百屋の長さんがいうと、和尚さんだけでなく、他の人も笑った。

「ああ、わかる、わかる。
わからいで、和尚が務まるものかね。」
「本当かね?もしもそんなすごい話がわかったら、オレの墓は和尚様んところの墓地に建てるよ!」
「おお、では、気合いを入れて話すとしようかね。」

一同大笑いしている。
僕は胸の底からゾクゾクと期待感が湧いてくるのを抑えられなくなってしまった。




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今年の夏は暑かった。
いや、夏とは暑いものだけど、暑いにもほどがある。
いい加減うんざりし尽したころ、いくつかの台風が通り過ぎ、ようやく秋風が吹いた。

夏の始めに、「一夏の恋」などという慣用句とは縁がないらしい自分を知った。
戸惑いもしたし、落ち込みもした。
多少だが、悩んでもみた。
今すぐ結婚すると言ってもおかしくない年齢なのに、女性に興味がわかないなんて!

けれども、あっという間に、悩むだけ無駄だと気が付いた。
悩んで解決するなら悩めばいいだろうが、これはそういうものではないだろう。

恋待先生は、僕のこの状態を、過去の治療の影響ではないと言った。
トラウマだろう、とも言った。

トラウマだったらどうすればいいんだ?と考えてもみた。
カウンセリング?
それはそれでいいのかもしれない。
それで普通になれるなら、大事なことかもしれない。

でも、「普通」っていったい何なのだろう。
僕にとっての「普通」は、僕が決めてもいいのではないだろうか。

夏祭りにでかけただけで熱を出した。
それだって、世間の人が聞けば「普通」ではないだろう。
だけど、僕はそんな人なのだから、僕にとっては「普通」だ。
いいじゃないか。

僕には両親がいない。
父親は見たこともないし、母親はもう死んでしまった。
両親そろっていないのは「普通」じゃないという人もいるだろう。
でも、僕にはどうしようもない。
これが、僕の「普通」だ。

両親はいないけど、遠くにやたらと元気な姉さんがいて、婚約者ができた。
人種のちがう弟もできるらしい。
毎日の暮らしの中には、ゆかりさんという雇い主兼血のつながらない家族みたいな人がいる。
元さんや宮田先生みたいな、お客様兼年上の友達もできた。
会社勤めじゃないけれど、小紫という職場があって、バーテンダーという仕事がある。
これが今の僕の「普通」だ。

クラシックもジャズも好きだけど、ロックには興味がない。
興味がないけど、聞けないわけでもない。
女の子に興味が薄いというのは、それと同じことだ。
話ができないとか、側に寄ってほしくないということでもない。
かわいい子はかわいいし、きれいな人はきれいだ。
それが、僕の「普通」でいいじゃないか。
考えがここまでたどり着いたら、何も気づいていなかったときよりもずっと気が楽になって、肩の力が抜けた。

それに、僕は幸せだ。

子どもの頃は、幸せには条件があると思っていた。
大きな家とか、たくさんのお金とか、贅沢な食事とか、高価な服とか、賢い犬がペットだとか。
そういうものを持つことが幸せなのだと思っていた。
ところが、毎日を「普通」に生きていると、ちょっと違うのかもしれないと思える。

朝、爽やかに目が覚める。
ゆかりさんが、美味しい朝ご飯をこしらえてくれる。
畑に出て、野菜を収穫する。
お店をピカピカに磨き上げる。
たくさんのお客様が来てくれる。
くたくたになって入る風呂。
ああ、明日はちょっとでいいから時間を作って、あの本を読もうか、あそこへ行こうか、あれを食べようかと考える。
自分にちゃんと居場所があり、することがあり、したいことがある。
そういう小さなことが幸せを創るんだ。


「穂高、ねぇ、穂高!寝てるの?ちょっと起きて!」
襖の外からゆかりさんの声がした。
僕はいつの間にか昼寝していたらしい。
ぼんやりと時計を見上げる。
14:40のデジタル文字が明るい部屋の中でうっすらと見える。

「はい。どうかしました?」
「お店にね、ススキを飾ろうかと思うのよ。」
「ススキ?まだ早いんじゃないかなぁ。」
「そうかもしれないけど。ちょっと川原のほうまで散歩がてら行ってみようかと思いついたの。よかったら、一緒に行かない?」
ゆかりさんは襖越しのままだ。
川原か。
「いいですね。」
僕はふすままで這って行って、すすーっと開けた。
「顔洗います。下で待っててください。」
「わかったわ。ああ、花ばさみを用意しましょう。」

今日も僕は幸せだ。






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恋待先生は、僕の言葉を辛抱強く待っている。
ヒグマのように大きな体を包んでいる白衣の前がはだけていて、中の丸くて大きなお腹が突き出している。
中に着た薄い水色のワイシャツは、きっと超特大サイズなのだろう。

「ここで抗がん剤の治療を受ける時、先生言いましたよね、しばらく子どもは作れないけれど、予定はないかい?って。」
「ああ、聞いた。」
「僕は当然ありませんよと答えた。何てこと聞くんですか?って。」
「そうだったかな?」
「あれ、どういう意味だったんですか?」
「意味?抗がん剤が精子の数を減らしてしまうことがあるから、子どもができにくい、ということだな。
でも、それだけではなくて、抗がん剤が精子の形成に与える影響を考えて、治療中は避妊が必要、ということでもある。
それに、抗がん剤は白血球を減らすから、感染症にもかかりやすくなる。性行為中の感染を避けたくもある。
くわえて、赤血球も減らすから、すぐに疲れたり呼吸が苦しくなったりしやすい。
子どもをつくるには向かない条件がそろっているということだよ。」
「そうなんですか。…なんだか、よく分かっていないくせに、予定はないって言っちゃいまいた。まぁ、事実だったし。」

「今、それを確認したいとこうことは、そういう予定ができたということ?」
恋待先生の全身から、なんだか温かいオーラが漂ってくる。
「いや、そういうわけじゃないんだけど…。
でも、夕べ、ふと気づいたんですよ。
僕、その、性欲っていうやつ、あんまり感じないなぁって。」
「おや、そうなのかい?」
さっきの温かなオーラがすぅっと30cm引いて行った。

「いや、女の子に興味がないってことはないですけど、なんていうか、高校生の頃みたいに切実に興味があるなんて気持ちにならなくなったというか…。」
「ほぉ。」
「あんまり考えたことなかったけど、改めて考えたら、病気の治療の前後で変わったと、昨夜気付いたんですよ。」
「なるほど。」
「そしたら、先生が言っていた言葉を思い出して。」
「ああ、そういうことか。」

ギシギシと椅子をきしませながら、先生は僕の方に向けて体を前傾させる。
その途中で、脇に控えていた看護師に目くばせでもしたらしい。
そっとカーテンの向こうに白衣のスカートの裾が引き込まれていき、診察室には僕と恋待先生だけになった。
「抗がん剤治療を受けていても、性行為そのものができない体になるわけじゃないんだよ。
治療中にそういう行為に及ぶ気持ちになれないのはストレスからだ。
テストステロンという男性ホルモンは、治療では減らないからね。
それに、君のように治療を終えて時間がたっていれば、 一時的に影響を受けていたいろいろな機能があったとしても、元にもどっているよ。
まぁ、個人差はあるがね。」
「そう、なんですか…。」
「希望するなら検査しようか。」
「どうだろう…。」
「どちらかというと、メンタルの影響ではないかと思うんだけどね。」
「メンタル、ですか。」
「そう。」

僕はどんどん歯切れが悪くなる自分にちゃんと気付いていた。
「決めつけることはできないけれどね、ひどい吐き気や脱毛や、そういう副作用が出ている時に、人に気が向かなくなっても当然だと思うんだ。
でも、全員がそうなるわけでもないんだよ。
実際、治療中の患者さんの中には、逆に、病気が発覚する前よりも性欲が高まった人は少なくないしね。
君の場合がどれに当たるかは調べてみないと正確なことは言えない。
けど、あのひどく辛い時期の感覚を、知らない間にずっと持ち続けてしまっているだけ、ということも大いにありうる。」
「持ち続けて…。」
「そう。無意識のうちにね。トラウマっていうやつだよ。」
「トラウマ!」
その言葉は知っている。
「まぁ、時が治してくれるものもあるよ。気にしない、気にしない。」
「そう、でしょうか…。」

「検査の予約を取っていくかい?」
「う…いや、まだいいです。」
「焦らないことだよ。誰か、この人、という女性が現れたら、気付かないうちにこんなことを『問題』と思わなくなっているかもしれない。でも、いつでも相談においで。こうして話すことそのものが治療になるからね。」
「はい。」
「じゃ、定期検診にしようか。最初から気になっていたんだけど、この微熱は何かな?」
「実は…」
僕は恋待先生に、さよりさんとでかけた夏祭りのことをありのままに打ち明けた。
「ふふふ。君にもそういうところがあるんだねぇ。いつも澄ましているけれど。」
 
半日かかって定期検査を終え、問題なしのお墨付きをいただいた。
微熱も心配ないという。
「では、またね。」
「はい。」

診察室を出た直後に、恋待先生が看護師へ、言うともなしに言った言葉を僕は知らない。
「どこか、幼いんだよなぁ。
四捨五入すれば30になる男が、小学生じゃあるまいし、自分が気を引かれた女性のことを、あんなにスラスラ話してしまうなんてね。
それに、体のことも、きっと抗がん剤じゃないよ。
あれは、家族を持つことが怖いんじゃないかねぇ。
家族というより、父親になること…か。
彼、父親とは縁が薄かったようだから。
まぁ、そんな彼だから、僕も、なんだかほっとけなくてねぇ。」






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さよりさんに誘われて出かけた盆踊りの夜に釣り上げたヨーヨーは、そのままゆかりさんへの土産になった。
「あら、まあまあ!」
ゆかりさんは懐かしそうな目をしながらそれを受け取ると、すこしの間首をかしげて考えていたけれど、戸棚を開けて、奥の方からガラスの鉢を引き出した。
そこに水を張り、ヨーヨーを浮かべたのだ。
ゆかりさんは、ヨーヨーの横に、外からとってきた朝顔の葉を添えた。
カウンターの端にその鉢をそっと置く。
それだけで、夏祭りが店の中にやってきたような雰囲気になった。
ちょうど客の切れ間だった。

「お借りした浴衣を汗まみれにしてしまいました。」
「いいのよ。浴衣とはそういうものだから。洗っておくから、そのまま返してね。」
「すみません。」

冷たいシャワーを頭から浴びて、ほてった体が少しだけ温度を下げる。
小紫はまだ営業しているから、着替えて店に出るつもりだったのだけど、部屋に戻ったところでけだるさに耐えられなくなった。
今夜は出なくていいと、朝からゆかりさんに言われている。
僕はそのまま眠ってしまうことにした。

自分の吐息が炎のように熱く、まるでゴジラにでもなったような気がして目が覚めた。
真夜中…いや、明け方に近いのかもしれないいが…正確な時間はわからない。
耳を澄ませてみるが、何の音もしないところから察するに、店じまいした後らしい。

今度はちゃんと目を覚ました状態で、大きくため息をついてみる。
やはり、息が熱い。
熱帯夜なのだろうか。
そういえば、窓を開けるのも忘れ、部屋に戻った勢いで寝てしまった。
喉が渇いている。
水を飲みたい、階下に降りようと思うのだが、体が布団に張り付いたようになっていて起き上がれない。

またか。
僕はもう数えきれないほど、こういう経験をしている。
少し緊張しすぎたのだろうか。
緊張ではなく、興奮か。無駄な期待か。
敏感な体は正直で、それが抱えきれないほど大きかったことを僕に教えてくれている。

さよりさん、きれいだったな。
もう少し一緒にいたかったな。
一緒にいて…それで…

その時、僕は、ものすごいことに気が付いた。
なぜ、今まで気付かなかったのだろう。
衝撃で、体がガタガタと震え出した。
いや、思い過ごしだ。こういうことには個人差があるに違いない。
無理にもまた眠ってしまおうと思った。
忘れた方がいい。その方が自分を傷つけない。
しかし、僕はそれきり、眠ることができなかった。


「おはよう。あれきり降りてこないから、疲れたんだろうと思ってたわ。」
それでも、ゆかりさんが起き出す音を確認してから、部屋を出た。
微熱は続いているようだけど、それ以上に…いや、だからこそ、起きなければならなかった。
「食欲があまりないんです。でも、喉が渇いて。」
「水がいい?」
「はい、冷たいのが。」
「わかったから、座って。顔色がよくないわ。」
「少し、熱が出たようで。」
「ああ…。」
ゆかりさんも、僕のこうした様子にはかなり慣れたようだ。

「宮田先生を呼びましょうか…。」
「いや、今日は恋待先生に診てもらおうかと思ってるんです。
定期検診には少し早いけど、こんな調子だし、ちょうどいいかと。」
「そうね、それがいいわ。一緒に行ってあげるから、安心して。」
「大丈夫ですよ、ひとりで。でも、タクシーで行こうかな。」
「ええ、ええ。それがいいわ。それなら安心。」
ガラスのコップでたっぷり2杯、冷えた水を飲み、ゆかりさんと話しているうちに、僕は少しだけ落ち着きを取り戻したような気がした。

「穂高、あのね…。」
座布団を二つに折って枕にして寝転び、食事の支度をしているゆかりさんを背にテレビを見ていると、ゆかりさんが声をかけてきた。
「はい?」
「昨日、穂高の浴衣姿を見てね、久しぶりに花火大会に行きたいなぁなんて思ったりしたのだけど…。」
そういえば、もうすぐ大きな花火大会がある。
「ものすごい人ごみですものね、疲れちゃうわよね。」
「そうですね、そうかもしれない。」
花火大会にはものすごく興味をそそられるけれど、夕べの夏祭りくらいでこの有様だ。
全国規模の花火大会にでかけるなんてことをしたら、その場で倒れてしまいかねない。
とはいうものの、ゆかりさんがこんなことを言い出すのは本当に珍しくて、もしかしたら昨日からずっと、一緒に行こうと言いたくて待っていたのかもしれないと思うと、断るのも気が引けた。

「それなら、ゆかりさん。庭で、花火しませんか?」
「まぁ、そうね、それもいいわね!」
「僕、子どもの頃から線香花火が大好きなんですよ。」
「男の子にしては静かな。ねずみ花火なんかが好きなのかと思ってたわ。」
「それもいいですけどね、線香花火は小遣いで10本一束が買えるから、姉さんと半分ずつ…。」
「ああ、そうなのね。思い出があるのね。」
「病院から戻ったら、今夜にでも。」
「熱が下がったらね。夏はまだ長いから。」
「そうですね。」
「じゃ、線香花火を買ってきておくことにしましょう。花火を買うなんて、本当に久しぶり。」

ゆかりさんは、一度止めていた手を動かして、朝食作りを再開した。
リズミカルな包丁の音が響いてくる。
僕は目を閉じて深呼吸をする。
ここにいられてよかったなぁ。
こんな時、一人きりだったら、どれほど心許なかったことか。
まぶたの裏に、子どもの頃、姉さんとどちらが長く球を落とさずにいるか競って見つめた線香花火がチカチカと映る。
「はっきりさせなきゃな。」
僕は改めて自分に言い聞かせた。

電話予約もせずにでかけたが、運よく恋待先生は病院にいて、少し待ったけれど、診察を受けることができた。
「微熱があるって?」
「夕べ、はしゃぎ過ぎたらしくて。」
「思うように体力があがらないね。」
「まあ、体力づくりに励んでいるとはお世辞にも言えませんから。」
「励んでみてほしいんだけどな。」
「元々の性格でしょう。」

僕は、本題を切り出しかねた。
でも、勘のいい先生は、僕に何か言いたいことがあるのだと気付いているらしい。
「何か相談でもあって来たのかな。何だろうね。」
先生は忙しい。
急かされる前に話さなければと分かっているのだが、言いにくくもあった。
でも、これ以上、言いあぐねてもいられない。

「先生、実は、昨夜気付いたことがあって。僕は、その…。」






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