Win-Win

あなたも幸せ。私も幸せ。


7月ももう終わるころになって、ようやく梅雨が明けた。
といっても、僕は喜んでいるわけではない。 
仕事がはかどる、大工は夏が勝負だ!なんていう元さんや、野菜の季節がやってきたぜ!と張り切る長さん、これからは熱中症と夏風邪で患者さんが増えるんだよぉと嘆き半分、どこか嬉しそうに見えなくもない宮田先生と違って僕は全然嬉しくない。
夏は嫌いだ。
何度経験しても嫌いだ。
暑いのは本当に苦手だ。

子どもの頃に、何か余程嫌な経験でもしたのだろうかと思い出してみるのだが、これといって思い浮かばない。
思い出したくもないほど強烈な思い出なんだろうか?

今夜は、さよりさんが言っていた、あの会社の夏祭りだ。
強引な誘いに負けて、僕はつい、行くことにしてしまった。
というのは表向きのこと、あんなふうに声をかけてもらって、僕はまんざらでもなかった。
やっぱり、無視されるより、ずっといい。

ところが、当日になってジワジワと焦りが出た。
何を着ていけばいいんだろう?
まさか、バーテンダースタイルで行くわけにもいかない。
でも、そうしないと、Tシャツとデニムくらいしか持っていない。
それでは気分も見た目もパッとしない。

待ち合わせの時刻まではまだ間があるから、急いで買いに行くこともできる。
けれど、袋から取り出したての折り目が付いたシャツを着ている自分を想像したら、なんだかものすごく気合いが入った初心者みたいで恰好がつかない。
ポロシャツ?それとも?
イメージもわかない。

子どもの頃、母さんや姉さんと一緒に、毎年夏祭りに連れて行ってもらったじゃないか。
あの時、周りの大人は何を着ていた?
思い出してみようとするが、ぼんやりかすんでいてよく分からない。
母さんの笑った顔、姉さんのビーチサンダル、それから?

こういうことは、いくら考えたところで答えは出ないから、素直にゆかりさんに聞いてみることにした。
「夏祭りに行く男というのは、何を着ているものですかね?」
「そうねぇ、普通でいいんじゃないかしら。」
その「普通」が一番困る。
今夜何食べたい?と聞いて、何でもいいよと言われた時と同じくらい困る。

「ああ、そうそう。よかったら、これ着て行ってみない?」
ゆかりさんはそう言うと、自分の部屋に行き、白い畳紙に包まれた着物を持ってきた。
そのまま居間に座って見せてもらう。
中から、男物の浴衣が出てきた。

「これは?」
「だいぶ古いものだけれど、きちんと手入れをしながら保管してあるから、いつでも着られるわ。
帯も、下駄も、ほら、そろえてあるし。」
ゆかりさんは、家族について多くを語りたがらない。
僕はいまだに、彼女が既婚者なのか、子どもがいるのかなど、まったく知らずにいる。
でも、問いかけたことがない。
問わない僕だから、ここに置いてもらえるのだと思っている。
だから、その浴衣はどなたのものですか?とは問わずにおくことにした。

「お借りしてもいいですか?」
僕は渡りに舟と飛びつくことにした。
大学の学部にいたころ、少しだけ茶道をかじったことがある。
学園祭の発表会の時には、浴衣姿で茶をたてた。
まったく知らない着物ではない。
もっとも、あの時の浴衣は借り物で、自前のものなど持ったことがないのだが。

おかげで、僕は服選びの苦痛からあっという間に解放された。
ゆかりさんにちょっと手伝ってもらって浴衣を着た後は、時間を見てでかければよいだけだ。
6時に正門前で…と言われている。
あの会社までの道のりは、歩いていくこともできるのだが、駅前でちょっとお金をおろしてから、ひと駅電車に乗っていくことにした。
下駄では歩き慣れていないから、少しでも歩く距離を縮めておくのは悪くない。

さほど混んでいないだろうと思っていた車内は、意外と人が多い。
ユニフォームを着て真っ黒に日焼けした小学生の団体を、小柄で若い女性がひとりで引率している。
このユニフォーム、持ち物ならばサッカーだろうか。
子どもたちなりに精一杯おとなしくしているのだろうが、甲高い笑い声、一斉のどよめき、なかなかに騒々しい。

僕がつかまったつり革の隣に、引率の小柄な女性がいる。
彼女も真っ黒に日焼けしている。
つり革を持ちながら、周囲に目を配り、声が大きすぎたりすると、キッと目配せをしている。
長い髪をポニーテールにして、一切の無駄がなさそうな引き締まった容姿に、自分とは異世界の何かを感じる。
彼女もまた、Tシャツにジャージ姿だった。

「お前さぁ…。」
子どもたちの中でも年齢が上に見える少年が、彼女に話しかけた。
少年は彼女と同じくらいの背丈をしている。
「何?」
お前と呼ばれても、彼女は文句ひとつ言わない。
「お前も一応女なんだからさぁ、試合の行き帰りくらい化粧するとか、普通の服着るとかしろよ。」
「ピアスとかネックレスとか、ネイルとかしろよ!」
最初の少年より年下の子が一緒になっていうと、そうだそうだと他の少年たちもはやし立てる。
「電車にジャージで乗ってる女なんかいないぞ。」

僕は、彼女がなんて答えるのか、少年たちと同じくらい興味を持ってしまった。

「あのね、試合の前に普通の服着た監督を見て、やる気が湧く?」
「着替えればいいじゃん。」
「あたしが着替えに行っている間、みんなの気持ちとか練習とか、緩んじゃうんじゃない?」
「そんなことないよ!」
「そうか、ないか。みんなならそうかもね。でもね…。」

さっきまでゲームがどうの、スマホがどうのとワイワイいっていた20人ほどの子どもたちが、いつの間にか彼女の声を聴き始めている。
それほど大きな声ではないのに。
統制のとれたチームのようだ。

「あたしはまだ先生になって間もない半人前だからね、偉そうなことは言えないんだけど、みんなと一緒にいるときって、あたしはみんなと同じでいたいんだよね。」
「なんで?別にお手本とかいらねーし。」
「うん。お手本なんてすばらしいものにはもともとなれないし…。」
「それじゃダメじゃない!」
子どもたちが笑う。

「けどね、例えば、運動会を考えてみてよ。
みんなは今日みたいに、決められた体操着を着ているでしょ?
見に来るお母さんたちは体操着?」
「そんなことない!体操着だとヘンだよ。普通の恰好。」
「だよね?ネックレスとかピアスとかは?」
「してるねー。」
「うちの母ちゃん、けっこう気合い入ってる!」
「そうそう。お母さんたちはそれでいいの。だって、応援団だもん。」
「うん。」
「じゃあ、運動会の時、先生たちがみんなお母さんと同じ格好していたらどう思う?」
「えー?なんか変。」
「変?
じゃ、先生が服はジャージを着てるけど、ステキなネックレスしてたら?
ダイヤがキラキラとか、真珠がずらりとか。」
「あー!なんかすげーヤダ。」
「雰囲気壊すねー。」
「雰囲気壊す?
じゃぁ、ネックレスはやめて、ピアスして、綺麗なネイルしたばかりだから綱なんか持てないよ、って言ったら?」
「うわ、サイテー!」
「ピアスしててボール当たったら怪我するよって、ママが言ってた。」
「そうだね、危ないってのもあるね。
じゃ、もし、先生が救護の係で、みんなのかけっこやダンスは一緒にやらないとしたら、オシャレしてもいい?」
「…うーん、どうかな?」
「オレはヤダな。」
最初に化粧しろと言った少年が言い出した。
「だって、あんたたちは走る人、私は関係ないって言われているみたいな気がする。」
しばらく真面目な顔で聞いていた隣の少年も言い出した。
「運動会の朝、先生が、僕たちのことじゃなくて、自分のネックレスとかピアスとかのことを考えてたんだーって思うと、なんだかちょっとがっかりするね。」

「あたしもね、そうなんじゃないかな?って思うの。
あたしはね、役割は違うけど、いつでも一緒に走る気だよ、君たちと心は一つだよっていうのを、服装でも表したいんだよね。」
「そうなんだー。」
「わかった!だから校長先生もカッコ悪いジャージなんだね?」
「スゲー古いデザインのやつ。着慣れてないから似合わねーんだよなー。」
「でも、校長先生のジャージ見ると、今日は特別な日なんだな!って、ドキドキするよな?」
「うん!」

「いろんな考え方があるし、みんなが私みたいに感じるわけではないと思う。
でも、あたしは、みんながジャージで試合のことを考えるときは、私もジャージで、みんなの気持ちになって、みんなと一緒に試合のことを考えたいの。
オシャレは別の時にいくらでもできるからね。
それに…。」

彼女はジャージのズボンを引っ張った。
「これ、あたしが今一番気に入っているスカートより高いんだよ!」
「えーっ!」
「大人になって、一生懸命仕事してお給料いただくと、こんな楽しみがあるんだよっていうことよ。」
「へー!」

「お前さぁ…。」
最初にこの話をし始めた少年がしみじみと言う。
電車はそろそろ次の駅に近づき、減速し始めている。
「オレ、初めてお前のこと、先生って呼んでやってもいいと思った。」
「じゃ、これから、お前じゃなくて、先生って呼んでくれるの?キャプテン?」
「ま、気が向いたらね。」
「しかたないか。あまりに未熟者だからねー。
いつも先生って呼んでもらえるように、これからも精一杯頑張ります!」
「ま、頑張れば?」
少年の偉そうな答えと同時に電車が止まり、ドアが開く。
子どもたちの盛大な笑い声が湧き起こった。

僕はその笑い声を背に、電車を降りた。
空には雲ひとつなく、あちらこちらから蝉の声が降り注いている。
電車の冷房から一気に外の蒸し暑さに投げ出されたのに、僕の心はさわやかなままだった。










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会社の仲間とはしゃいでいるさよりさんを見ていて、僕はなんだか落ち着かない。
まるで自分が無視されているような感覚に苛まれるのだ。
でも、さよりさんは店に客としてきて、客らしく楽しく飲んでいるにすぎない。
他のお客様と同じように。
来てくださってありがとうございますと思うのが、僕の仕事だ。
そんなこと、頭では十分分かっているのだけど。

「あのぉ。」
少しぼんやりしていた僕に、カウンターでひとり飲んでいた初老の紳士が声をかけてきた。
静かにゆっくりとグラスを口に運ぶ姿が洗練されている。
「は、はい。すみません、ご注文ですか?」
それに比べて、ひとつの返事に、僕はしゃべりすぎている。

「なんだかね、冷ややっこが食べたくなってきてね。」
「はい。ご用意いたします。」
「そうかい。どんなふうにできるだろうね?」
召し上がりたいものがあるだけでなく、お話がなさりたいのだろう。
この会話は、ゆかりさんに任せた方がよさそうだ。

「お好みがおありですか?」
ゆかりさんがすっと隣にやってきて、僕と何のやりとりもなく話を継いだのが、紳士を喜ばせたらしい。
「そういうことではないのだが、ほら、簡単な料理ほど、いろいろ工夫ができるものだろう?」
「そうですね…。」
ゆかりさんは人差し指をあごにあてて、少し首をかしげて見せた。
「お嫌いでなければ、ショウガと青しそに、少しミョウガを添えてお出ししてみましょうか。」
「おお、ミョウガか。それはいい。」
「ミョウガはお好みでない方も多いので、あまりお出しすることはないのですよ。」
「そうかもしれないね。
いえね、子どものころ住んでいた家の庭に、ミョウガが勝手に生えてくるんですよ。
それで、夏の間はそうめんだのなんだのと言うたびにミョウガがついてくる。
子どものころはあれが苦手でね。」
紳士は懐かしそうに眼を細めている。
「新潟の出身なんだがね。」
「そうでしたか。」
「故郷を離れて暮らす方がずっと長くなったけど、今頃になって子どもの頃の味が懐かしい時があるねぇ。」
「はい、はい。そうでございましょう。」

いつもは一度奥の調理場に入って支度をするのだが、今はお話が続いているので、僕が奥に入り、耳にした材料をそろえてカウンターに持ってきた。
「白ごまもね。」
ゆかりさんの耳打ちを聞いて僕は急いで身を翻す。
ゆかりさんは会話を途切れさせることなく、紳士ご用命の冷ややっこを仕上げた。
切り子が美しいガラスの器に盛りつけ、箸ではなく、木のスプーンを添えた。
「これはこれは。目に涼しく、舌に涼しく、だねぇ。」
あくまで細く切られた青しその上に白ゴマが散っている様子が、淡雪のようにも見える。
「うまい。これは、うまい!上等な豆腐を使っているね。」
紳士はたいそうご機嫌だ。

「ところでママさん。あなたの今夜の着物は、きっと上布だろうね。」
「まぁ、よくご存じで。その通り、ご出身の新潟でできた越後上布ですわ。」
「よく似合っているねぇ。」
「あら、お上手ですこと!」

今夜の着物は「上布(じょうふ)」というそうだ。
麻でできていて、薄く、軽いのだそうだ。
深い紺色の中に、井形の模様が白く浮き出ている。

「この布が仕上がるまでには、50工程もの手作業が必要なの。」
昨年、この着物を初めて見た日にゆかりさんが教えてくれた。
「越後上布は重要無形文化財になっているの。織るにも染めるにも、職人さんが精魂傾けてひとつひとつ手を動かして作り上げるのね。それをこうして着せていただけるのは、本当にすばらしい気持ちになるのよ。」
ベージュ…いや、今夜は練色(ねりいろ)と呼ぼう… の帯とのコントラストがいかにも涼しげな着こなしなのだ。
七夕の夜の、特別なしつらえなのだろう。
この着物を着ると、ゆかりさんはいつもの数倍、しゃんとして、きれいに見える。

「越後上布は年取った職人が糸をつむぐのは知っているでしょう?」
「はい。存じております。」
「今はそれが、できなくなってしまった。」
「まぁ!それは存じませんでした。どうしたのでしょう?」
「新潟で、大きな地震があったのは、もうずいぶん前のことに思えるが…。」
「覚えておりますよ。」
「あの地震でね、土地の職人たちが怪我をしたり、避難したり、都会の子どもたちの家に引き取られたりして、糸を紡げる職人がいなくなってしまったのだよ。」
「…!」
「今では伝統のままに作られる越後上布は、年に2反か3反か、そんなものだそうだ。」
ゆかりさんは息を飲んでいる。
「だからね、ママさんの越後上布は買ったときも高かっただろが、これからますます価値が出るでしょうよ。」

紳士はあっというまに冷ややっこを腹に収めている。
薬味のわずかな破片も残さないきれいな食べ方に、器を下げながら、僕はちょっと憧れめいた感覚を覚えた。

「君、ママさんのあの着物、いくらぐらいすると思う?」
「はぁ…。」
こういう時は、当てるより外れる方が喜ばれる。
でも、本当に、いくらなのか想像もつかない。
盛大に高値を言ってみようか。
「20万円くらいかなぁ。」
「わっはっはっはっ!」
紳士は大爆笑の体だ。
「違いましたか!」
「20万円では帯も買えないだろう。
ゼロがひとつ足りないよ。
いや、ゼロをもうひとつ足したくらいでは買えないんだと思いますよ。」
「ほ、本当ですか!」

僕は瞬きの仕方を忘れてしまった。
ゆかりさんは微笑むだけで、頷きもしなければ首を振りもしない。

「穂高くーん!」
もうすっかり出来上がったさよりさんが呼んでいる。
紳士が、行っておいでと手を振る。
世の中には、僕が想像もできない世界がまだまだたくさんあるんだなぁ。

「ねぇ、願い事書いておいたから、笹につけてきてよ。」
「はい。」
年下の癖に、相変わらず人使いが荒い。
「それからね、月末にね、会社で盆踊り大会があるんだけど、穂高くんも来ない?」
「へ?」
「来るでしょ?花火大会もあるんだ。ね?じゃ、そういうことで。」
「あ?」
「あんた、いいねぇ、姉御に誘われるなんてさぁ。」
ことに色黒の筋肉が、僕の背中をバンと叩いてガッハッハと笑った。
ゆかりさんは「何言ってんのよぉ」とご機嫌だ。
僕はまだ、背中を打たれた勢いで息が止まったままだというのに。






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七夕の夜、小紫はお客様が多くて、嬉しい悲鳴を上げた。
梅雨のさなか、朝のひんやりした空気はどこへやら、日中は雨はなかったのに、全身に水滴が付きそうな蒸し暑さだったことも、帰宅前のビールを恋しくさせた要因だろう。
「とにかく、生をひとつ!」なんて注文が多かった。

この日のお通しは枝豆だ。
ただし、ゆかりさんのことだから、スーパーで買った枝豆などではない。
裏の畑で、春先から自ら育てた枝豆なのだ。
有機栽培、当然除草剤など一切使わず、僕も一緒になって毎朝草取りをしてきた。
それを、この朝、まだ葉に朝露が光るうちに収穫し、ゆでたものだ。

ゆで方のコツは僕にはわからない。
ただ、仕上げにザッとふりかけた塩にもこだわりがある話は聞いている。
この塩が、本当に旨いのだ。

小紫の調理場には、3種類の塩がある。
しっとりと、細かい塩。
これは、枝豆をゆでるときにも使っていたが、出番が一番多い。
元さんが大好きなおむすびにも、この塩が使われる。
それから、卓上瓶に入った、サラサラした塩。
これは、サラダの仕上げにサラリとふりかける時などに使う。
そして、ざらめのような粒の塩。
枝豆に振ったのがこれだが、ほかに、天ぷらに添えたりもする。

ゆかりさんこだわりの塩は、伊豆大島で作られている。
口に入れると塩辛さの後に甘みを感じるから不思議だ。
海水から伝統の製法で作られるそうだが、どれも強い火で焼いたり、天日で乾燥させたりして作るから、「塩に邪気がない」のだそうだ。
邪気がある塩とは?という点は、さっぱりわからない。
そもそも、塩って邪気払いに使われるものじゃないの?

この塩の話は以前から何度も繰り返し聞かされているのだが、いまだに理解できないのだ。
世の中には、僕が知らないことがまだまだたくさんある。

ともかく、邪気のない旨い塩が白く載った枝豆の評判と言ったらなかった。
うまい、うまい、枝豆ってこんなに甘いものだったかね、
生をもうひとつ、いや、できれば枝豆をもうひと皿…
などという声が続いて、ゆかりさんはご機嫌だ。
「今日のようにたくさん汗をかいた日は、水分もたくさんお取りになるでしょう?
すると、汗と一緒になくなっていた体の中の塩分が水で薄くなってしまうんです。
それで、水を飲むほど熱中症になるなんていうこともあるそうなんですよ。
ですから、今日の枝豆には粒塩をふりましたので、一緒にお口に入れてみてくださいね。」
初めて来た客の席に二度目のビールを運びながら、ゆかりさんが話している声が聞こえる。

僕が作っておいた短冊も、置いたままにせず、お席に運んでみることにした。
思いついたのは僕だ。
「今夜は七夕ですから、願い事をお書きください。」
一笑に付されるかと思いきや、「おお、そうかい?」と書いてくださる方が多いのに内心驚いた。

集まった願い事は、この街、この店にふさわしい、ささやかなものが多かった。
『家族が幸せに暮らせますように』
『温泉旅行に行きたい』
『おじいちゃんの足がよくなりますように』
『お嫁さんが見つかりますように』

『安全第一』…これは、元さんが書いた。
さすがは棟梁だ。
「笹じゃなくて、毎日現場にかけておくといい。」
宮田先生が珍しく冗談を言った。

『家内安全』…これは、八百屋の長さんが書いた。
「よほど、奥方が怖いのだろうねぇ。」と元さん。
「家内安全ってのはそういう意味じゃないよ。
まるで何かい?うちの家内は危険みたいな言い方するじゃないか。」
言い返した長さんに、
「家内ってガラか?ひとっつも頭が上がらないくせに。」
「う…。いや、まぁ、ヨメの言う通りにしとけば平和だからねぇ。」
一緒に来たわけではない隣のテーブルまで笑っている。

『無病息災』…これは、宮田先生が書いた。
「おいおい、先生よぉ。先生が無病息災なのは願ってもないことだけれど、世間みんなが無病息災になっちまったら、先生は飯が食えなくなるよ。いいのかい?」
元さんにからかわれて、宮田先生が一瞬真顔になったから、また周囲から笑い声が溢れた。
「確かに。では、ちょいと…。」
そう言って先生は筆ペンを取りなおすと、無病の「無」を二本線で消して、「一」と脇に書き足した。
「一病息災?」
「ああ。私が勝手に作った言葉だよ。
人間、何一つ病気もしない体だと、つい油断をして食べ過ぎたり飲みすぎたり、健康を過信して、気付かないうちにかえってひどく体を壊してしまうものなんだ。
それより、ひとつくらい気になることがあって、己を労わりながら養生するつもりで暮らす方が、長く息災にいられるというものだよ。」
なるほど、そういうこともあるかもしれない。
僕なんか、まさにその口だろう。
もしかしたら、先生は僕に気遣って、こんなことを書いてくれたのだろうか。

「こんばんわぁ!お久しぶり〜!」
笑い声の中に、能天気なほど陽気な声が響いた戸口を見ると、さよりさんの顔がのぞいている。
確かに、ずいぶん久しぶりだ。
「あらぁ、さよりちゃん。元気だったの?」
ゆかりさんは、里帰りした娘を出迎える母のような喜びようでカウンターから弾み出てきた。
「会社の人たちと一緒なんだけど、いい?」
「もちろん。丁度奥のテーブルが空いたところだから。何人様かしら。どうぞ。」

さよりさんを入れて6人の団体様だ。
おそらくみな運転手なのだろう。
さよりさん以外は全部男性で、しかも、僕より少し年上に見える。
そろいの作業服姿のままだ。
実に男らしく日焼けしていて、半袖の作業服からのぞいている腕は、どれも力を入れているわけではないのに、筋肉がくっきりと浮き上がっていて、同性の僕から見てもカッコイイ。

メラリ。
僕の心の底に、普段は感じない熱が伝う。
大ジョッキを6つ、一度に運ぶと、
「ビールは鮮度が命だから。」
とさよりさんの一声で、無駄な話のない乾杯が叫ばれ、黄金色の液体がふとやかな喉に流し込まれていく。
「プハーッ、美味いなぁ!」
「たまらないな、こりゃ。」

ポッ。
さっき心の底に伝わった熱から、小さな炎が引火した。
全身をとことん使って働く人だけが、あげる声がある。
ビールのうまさは、そんな労働と仲が良い。
僕は、その労働を知らない。
知らないから、嫉妬心がわくのだ。

今夜の僕はどうかしている。
一年に一度会える彦星と織姫。
それとは違って、僕はいつでもその気になればさよりさんに会える。
しばらく顔を見ていないのは、必要がなかったからではないか。
彼女が会社の人と飲みに来たからと言って、なにを慌てる?

もう一度、大ジョッキを用意しにカウンターに戻る。
凍らせたジョッキをひとつ手にして、さよりさんのテーブルを振り返る。
以前はどこか陰のある…というか、乱れた印象があって、この人は誰かが守ってやらなくてはならないのではないかと思わせる雰囲気だったのだが、今ではお日様の香りがする、元気いっぱいのOLさんになっている。
僕はなんだか、置いてきぼりを食らったような、寂しい気持ちになってきた。

なんだよ!
その就職探しに一緒に行ってやったのは僕じゃないか。
思う端から、そんなことを考えている自分に嫌気がさす。

今までの僕なら、こんな不愉快な気分から、どうにかして目を逸らそうとしたはずだ。
でも、その夜の僕は違っていた。
僕が思うことだ。
僕が思ってやらねば。
そんな気持ちが強く出てきている。
情けないと自嘲することもなく、酒や会話に逃げることもなく、お客様の注文に応じながら、僕は静かに自分の心を感じ続けた。

調理台にこぼれた粒塩を二粒見つけた。
人差し指に押し付けて、ペロリと舐めてみる。
ほんの少しの苦味と、しっかりとした塩味、そのあとでほんのり甘さが広がる。

「もうすぐ夏だな。この塩を振ったスイカ、食べたいな。」
どうしてだろう。
目をそらすよりずっと、力強く生きている自分を感じていた。







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僕の不快指数で換算したら120%以上になりそうな湿っぽい梅雨の日々が、今日はいったん休憩するようだ。
朝目が覚めて、窓を開けたとたんに、ひんやりとした風が吹き込んでくる。
カーテンの動きが昨日までとは逆だから、きっと北風が吹いているのだ。
こんな日は、何かいいことがあるんじゃないかと思えてくる。
幸せな「日常」の一コマの始まりとしては、上々の気分だ。

身づくろいを済ませて下に降りていくと、居間にはゆかりさんの姿がない。
台所にも気配がないので、裏の畑に出ているのかもしれない。
でも、ふと店に回り込んでみる。
ゆかりさんは、やはり店にいて、背丈と同じくらいの笹に、きれいな飾りをつけているところだった。
車が突っ込んできてぐちゃぐちゃになったドアはきれいに新しくなって久しく、ついでにリフォームした店内は、今もまだ新築の香りがする。

この笹はどこで手に入れたものか、昨夜元さんが届けてくれた。
約束では、もう何日か前に届けてもらうことになっていたそうだが、七夕前夜になったのは、元さんが仕事で大忙しだという嬉しい理由からだったので、ゆかりさんも「届いただけでありがたいわ」と感謝している。

「あら、穂高。おはよう。ちょっとだけと思って作り始めたら楽しくなってしまって。朝ご飯の前に、もう少しだけいいかしら?」
「ええ。手伝いましょうか?」
「お願いするわ。何かできる?」

僕はカウンターの上に載っていた水色の折り紙を一枚半分に折り、5ミリ間隔に切り込みを入れてから開き、対角をひとつ糊付けして飾りを作った。
「これしか知りません。」
「いいわね、かわいい。」
僕の手から水色の飾りを受け取ると、ゆかりさんは手早く糸をつけて、笹に飾り付けた。
ゆかりさんが指先でツンと飾りをつつくと、折り紙の裏の白と表の水色が不規則にくるくる回った。

「同じ方法で天の川も作れるわ。やってみる?」
薄紫の折り紙を半分でなく、細長く何度か折りたたんで、両側から交互にはさみを入れ、そっと平らに戻してから切り込みに対して垂直に引っ張ってみる。
「うわ、できた!なるほど川ですねぇ。」
それもゆかりさんの手で糸をつけられ、笹を飾った。

「次は、星の折り方を教えましょうね。簡単よ。」
ふたり並んでスツールに腰かけ、黄色い折り紙を一枚ずつ持って、折り進める。
「へぇ!ホントに星ができましたね。」
「ふたつ並んで吊るしたら、織姫と彦星が会えたみたいで縁起がいいわね。」

最近はやりの新しい飾り、なんていうのも教わった。
折り紙も、見慣れた色ばかりではなく、両面にそれぞれ色がついているものや、キラキラ輝く紙など、いろいろ用意されていたから、僕はいつの間にか夢中になっていて、腹が減ったことにも気づかなかった。

「あとは、お客様に願い事を書いていただく短冊を用意しておきましょう。」
「では、それは後で僕がやっておきます。」
「いいの?ありがとう。では、このくらいの大きさのを…。」
ゆかりさんが手際よく折り紙を三つ折りにして筋をつけると、はさみでシャキンと切った。
「わかりました。糸も通しておきますね。」
「ええ、お願い。じゃ、お客様が気軽に書けるように、私たちの願い事を先にかけておきましょうか。」
「願い事ですか?そうですね…。」

僕はしばらく考えた。
願い事はたくさんありそうで、いざ書こうと思うと構えてしまう。
ゆかりさんは筆ペンをさらさらと動かして、あっという間に一枚仕上げた。
『千客万来』
墨跡が乾く間にもう一枚。
『商売繁盛』

「なんだか、フツーですねぇ。」
からかい半分に言うと、普通が一番いいのよと返された。
ゆかりさんが置いた筆ペンを握って、僕はもうひと考えしてから、手を動かした。
『兄と弟が一度にできますように』
よし。
会心の出来だな。
「叶うといいわね。本当に。」
ゆかりさんの言う通りだ。
僕は笹の一番高いところに、この短冊をかけることにした。
少しでも、願い星に近いところへ。

「さ、朝ご飯にしましょう。」
「ほんとだ、すっかり遅くなりましたね。」
「今朝はだし巻玉子にしますよ。ちょっと湿気にうんざりして食欲が落ちてきたから、大根おろしをたっぷり添えましょう。」
「いいですね。大根おろしは僕が作りましょう。」
「助かるわ。」
僕らのコンビネーションは、そこらの夫婦に負けないくらいになってきた。

…いや、やっぱり夫婦じゃなくて、親子にしておこうっと。







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姉さんが結婚するという相手、カネタマルジョージさんは、金田丸譲二さんと書くのだそうだ。
きっと、小さいころから「金持ちになりそうな名前だ」と言われてきたに違いない。
姉さんたちは観光としてやってきたマルコ少年を一度グアテマラに連れ帰らねばならないらしい。
「養子縁組は6歳の誕生日を過ぎると、日本の法律ではいろいろとややこしくなるの。あと半年の勝負なのよ。」
なのだそうだ。 

結婚は、その進展に合わせてという。
これから池袋にある金田丸家にご挨拶に行くのと言う姉さんは、 相変わらず小さな台風の目だ。
「サトル、認めてくれてありがと。」
「いや、あの…。」
「じゃ、行ってくるわね。また連絡するから。」
「あ、おお。」
「葉月ちゃん、ランチは?」
と問いかけるオーナーにごめんなさいまた今度とサラリと言うと、3人は席を立ち、僕に盛大に手を振って行ってしまった。
約束の時間が迫っているのだそうだ。

台風が去った僕のテーブルに、オーナーがルナソル特製ワンプレートランチを運んでくれた。
大きな丸い皿の上に、つややかな黄色い小山が乗っていて、頂上に美味そうなデミグラスソースがかかっている。
ソースの中に浮いているマッシュルームがきれいだと思った。
「あれ?貴船さん、僕、ランチの注文なんてしましたっけ?」
「ああ、やっと口をきいてくれたね。」
「え?」
「君、お姉さんがいる間、ずっとあーとかうーとかばっかりだったじゃないか!」
「だって…。」
「ま、わかるけどね。」
「すいません。」
「謝ることはないさ。
さ、食べて。
今日のランチはオムレツなんだ。
ワンプレートと決めているけど、今日は見た目の問題で、サラダとスープは別にね。」

僕はオムレツが好きだ。
このトロトロとした舌触りがたまらない。
柄の長いスプーンを持って、一口食べてみた。
「ああ、美味いなぁ。」
オーナーはいつの間にか、さっきまで姉さんが座っていた席に腰かけて、水を飲みながら僕を見つめている。
「お気に召しましたか。」
冗談口調に僕も気持ちが少し軽くなる。

「サトル君。」
オーナーが改まった声を出した。
「はい。」
僕はオムレツを頬張る速度をゆるめずに返事をする。
「君はお姉さんを一言も責めなかったね。」
「責める?」
僕にはオーナーの意図が分からない。

「僕は内心驚いた。
だって、葉月ちゃんは病気と闘う君のそばにいるのが辛くて逃げ出したんだろう?
それで家族と言えるか?
君はどうして怒らないのかと思ってね。」

オーナーの口調には、姉さんを責めるような感じは含まれていない。
心底分からない、といった気持ちなのだろう。
僕にしても、頭で考えて姉さんを責めないと決めたわけではなかった。
ただ、最初から最後まで、驚きはしたけれど、責めるなどとは考えもしなかった。

「それは…。」
僕は自分の本音を探り始めた。
子どもの頃、テレビで観た映画のワンシーンがふとよぎる。
海の底に向かって、素潜りでくぐっていく男が映っていた。
あの、青くて暗い方へ向かう感じ。

「それは…、姉さんがあの時も今も、自分に正直に生きているんだと分かったからかなぁ。」
「正直に?」
「そうですね。
もし、姉さんが心底僕のそばにいたいと思うなら、それでよかったですよ。
でも、僕のそばにいるのが辛いと思いながら、家族だからという義務感で我慢していてくれたとしたら、それはきっと僕にも伝わって、僕も苦しんだと思うんです。」
「ああ。」
「死んでもしかたないと腹をくくられながら、覚悟を決めた顔でそばにいられるのも辛かったかもしれないし。」
「そうだろうか。」
「でも、姉さんは、建前や義務感より、自分に正直にいることを選んでくれたんです。
おかげで、ああして幸せな顔を見せてくれている。
突拍子もないのは相変わらずだけど、義務感に縛られて、密かにため息つきながら『あなたのために』なんて言われるより、僕にはずっとありがたいです。」

オーナーはまた一口、水を含んでから、静かに微笑んだ。
「いい、姉弟だね。」
「ありがとうございます。」
「君たちのお母さんは、素晴らしい子育てをなさったようだ。」
「どうなんでしょうね。
でも、確かに、母さんも母親だから僕らを育ててたという印象より、本当に僕らといることが楽しかったのだろうなぁという思い出の方が多いかな。」
「そうなのか。見習いたいものだな。」
「え?」
「いやね、僕ももうすぐ父親になるらしいからね。」
「へ?そうなんですか?」
「ハハハ!」

僕はもう、これ以上の非日常に耐えられそうになかった。
だから、確実に理解できる、オムレツの味に没頭することにした。
「このデミグラスソース、本当に美味いですね。」
「おいおい、こういう時は『おめでとうございます』って言うんもんじゃないのかい?」
「ああ、美味い。本当に美味い。」
「おやおや、キャパを超えたらしい。」

オーナーは自分のグラスを片手に、カウンターの奥へ戻っていく。
背中を見送ることもなく、僕はスープとサラダもカケラひとつ残すまいと、念を入れて皿をつつき続けた。






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